第52話 ハットリ事変
「昌芳くん……もしかして少し眠たいですか?」
「い、いえ、そんなことは――」
いよいよこの日がやってきました。
この夏最大のイベントに向け、私は弛まない仕事の怨嗟と闘い続け、そして勝利をモノにしました、これから訪れるのはつまるところ褒美なのです。
「昌芳くん、私には正直でいいんですよ。遠慮なんて必要ありませんから」
「すいません……最近夜ふかし気味だったので朝は少し慣れていなくて」
勿論言いたいことは分かります、お前はただの運転手になっているのではないのかと、そこに関しては否定致しません。
ですが、本来で言えば上尾先生――いや、豊中さんを前に運転手でいられることすら奇跡と言っていいのです。
それ程までに、彼女はその気になれば一人で全てをこなしてしまってもおかしくはない存在、彼女の前では私など所詮は有象無象のモブ。
「実は私も……昨日の夜から昂り過ぎて眠れていないんです」
「たかぶ……? そ、そうでしたか……」
「なので昌芳くんに読み聞かせする為に絵本を持ってきました」
「なので」
「はらぺこあおむし、ぐりとぐら、11ぴきのねこ、どれにしますか?」
「ガチの奴じゃないですか……」
「ノ◯タンおしっこしーしーもありますけど」
「それは嘘ですよね……?」
それにしても――豊中さんの抜け目の無さには全く恐れ入ります。
あの日、三国さんの家にご訪問させて頂いたのには確かに今後の予定を踏まえてのお話であったのは事実です。
ですが、本来その程度のことであれば電話を使えば済む話であります。ただしかしそれでも慎重に慎重を期する、それが豊中黒芽。
彼女の行動には主に二つの大きな目的があったのです、一つは当日の経路の確認をしておくこと。
いざ当日を迎えた際にトラブルがあってはいけません、如何に敵と遭遇することなく完璧な道順を辿れるか、その予行練習も兼ねていました。
そしてもう一つは――連絡手段のシャットアウトです。
実はあの間に三国さんのスマートフォンからくだんの件に該当する方の連絡先を全てブロックしておりました。
つまり三国さんとの連絡を相手側は取ることが出来なくなる訳です、これで三国さん経由でこの旅行の話が漏れることもなくなります。
まあそれを行ったのは私なのですが、幸いベッドの上に放置されていたので然程難しいことではありませんでした、顔認証ならロック解除も容易いですし。
「むかしむかしあるところに――」
「く、黒芽先輩、そんなに近いと逆に眠れな――」
とはいえ、そうなれば直接三国さんの家を訪れる手段を取ってもおかしくはないでしょう、まあ私にかかればその対応も準備はしていたのですが。
しかしどうやらそれも豊中さん曰く無かったようで、今はこうして目的地へと向かって車を走らせております。
それにしても三国さんが豊中さんの他にも山中さんと川西さんという方とも浮名を流していたとは――やはり彼は罪な男です。
「いつか昌芳くんを描いた絵本も書いてみたいですね……」
「それは絶対売れませんって……」
そしてさっきから全く以て羨ましい限りです。この日の為に私は豊中さんの手足となるよう自ら提言をしましたが、これでは生殺しもいい所。
「…………」
……ただまあ、私が豊中さんのサポートに回っているだけと思っていたらとんだ大間違いも甚だしいですけど。
これはあくまで相手の懐に入る為の手段に過ぎないのです。私の目的はあくまで三国さんと密なご関係を結ぶ、その一点しかありません。
そうなれば結局のところ豊中さんは敵とならざるを得ない。そこに上尾藍先生などという文言はあろう筈がないのです。
「――三国さん、上尾先生、あと十分程度で到着致しますよ」
「そうですか。ありがとうございます服部さん、改めてこの度は運転役を買って出て下さって感謝します」
「いえいえ。私もタイミング良くお休みを頂けただけの話ですし、いつも上尾先生にはお世話になっていますからね、これくらいお安い御用です」
「服部さん、俺からもありがとうございます。短い期間ではありますが、ゆっくり英気を養ってくれればと思います」
「こちらこそお気遣いありがとうございます、久しぶりの旅行ですしね、ゆっくり楽しませて頂きたいと思います」
そう言いながら私はちらりとミラー越しに目をやると、三国さんと豊中さんの優しい笑みが映ります。
ですが――彼女の目の奥は決して笑っていないのを、私は分かっていますよ。
さあ、そろそろ私達の戦争(デート)を始めましょう。
◯
「え――? よ、予約が取れていない……ですか?」
服部さんの運転により温泉街に到着した私達は、そのまま宿泊先のホテルへと向かったのですが、そこで予定外の事態に巻き込まれていました。
「そんな……確かに予約はした筈なのですけど」
『もう一度お名前をお伺いしても宜しいでしょうか?』
「豊中黒芽です、本日から二泊で一週間ほど前にお電話を――」
『少々お待ち下さい――――……いえ、やはりご予約は入っていませんね』
「そんな筈は……一体どうして――」
確かに予約をした記憶はあるのですが……もしかしてホテルを間違えて……? いえ、ですが昌芳くんとの旅行でそんなミスを私が――
「手違いでキャンセルになっているとかはないんでしょうか?」
『確認致します、少々お待ち下さい――』
「因みに他に空き部屋があったり……というのは」
『申し訳ありません……シーズンなので全て満室でして……』
昌芳くんも一緒に話をしてくれますが状況は芳しくありません。
万が一予約が取れていなかった場合、最悪他のホテルを探すしかありませんが、仰る通りシーズン真っ只中で空き部屋を見つけるのは至難の業……。
無論ここまで来て引き返すつもりは毛頭ありませんが、しかしホテルを探すだけで時間を喰ってしまうことになるのは本望ではありません。
「…………」
何か良い方法は――と必死に思考を張り巡らせていた、その時でした。
「おやおや~? 何かお困りのご様子みたいですね~?」
「え?」
どうあってもこの二日間、確実にこの鼓膜を震わせることはないと思っていた声が突如として耳を劈き、柄にもなく戦慄がぞわりと走る。
まさか……そんな訳がと思いながら振り向くと――
そこには私にとって敵以外の何者でもない二人が立っているのでした。
「や、山中……? それに川西も……?」
「やっほー! 三国くん! 旅行先が同じなんて奇遇だねえ!」
「せ、先輩お久しぶりです……! あ、あと豊中先輩も……」
そんな、あそこまでしてこの二人に目的地がバレる筈がないというのに、一体どうやって……と思った瞬間、私は背後から殺気のようなものを感じました。
こんなものを昌芳くんが送る筈がない、だとすれば残るのは――
と、視線を背後へと戻した先に一瞬見えた、一人の女性の不敵な笑みに、私は全てを悟ったのでした。
「ま、まさか……」
私は嵌められたっていうんですか……?
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