第39話 誰かを想うということは

「――――――――はっ!」


 まるで崖の淵まで追い込まれ意識を失ったかのような状態から覚醒した俺は、目をぐぐっと開くと灯りのついた天井を見上げた。


 ……妙に記憶が曖昧だが、確かなことは俺は黒芽先輩の家に行って、そしてそこで結束バンドを付けられて導入剤的なものを――


「……思いっきりヤバいことになってんじゃん」


 つまり俺は完全に黒芽先輩に襲われてしまったのである、それ以外の説明のしようがない。


「俺は……寝ている間に失ったのか……」


 いやいや、それ以前の問題としてそれだけは絶対に避けねばならないことであった訳で……でもやってしまったのであったら睡眠中というのは……。


 それにしてもやけに部屋が静かだ……加えてこの感覚何処かで……と記憶を辿っていると、何かが絡みついている感覚とむにゅりと柔らかい感触が、主に左半身に渡って流れ込む。


「すー……」


 するとそこには、案の定すやすやと眠る黒芽先輩の姿があった。


 しかもセクシー感が満載の、今にもお胸様が溢れてきそうなネグリジェを着て。


「ふっ、最早言い訳のしようがない……」


 逆に失っていない理由が見当たらないくらいには状況証拠が整いすぎている、後は俺が全裸か衣服が乱れていれば証明終了――


「…………あれ?」


 しかし、意外にも制服は何一つとして異変がなかった。


 ボタンもしっかりと締められ、ネクタイもそのまま、ズボンも下げられた形跡はおろか、チャックすらしっかり上がっていた。


「だがそれだけで失っていないと証明するには――」


「あ、やっと起きましたか三国さん」


「ひいっ!?」

「しー……! 静かに、上尾先生が起きてしまいますよ」

「は、服部さん……? どうして貴方がここに……?」


 部屋の隅に追いやられていた机の上で、ノートパソコンを広げ仕事をしていた女性に声をかけられ俺は悲鳴を上げてしまったが、そこにいたのは意外にも服部さんであった。


「今日もとある先生の件で出張でして、作家さんって関東住まいな方が多い印象だと思いますけど、実は意外と関西在住の方も多いんですよ」


「は、はあ……それはまたご苦労さまです」

「いえ、私の担当している先生に関西の方が多いだけですので」


 そして服部さんは「んっ」とひと伸びするとまた画面へと向かう、人のことを言えた義理ではないが、目の下に中々酷いクマが浮かび上がっていた。


「と言いますか、服部さんはどうやってこの部屋に……? 鍵が掛かっていた筈ですが……」

「親御様から合鍵を預かっているんですよ、まあチェーンも掛かっていましたが、それはちょちょっとすれば開きました」


「ちょちょ……?」

「若気の至りという奴です、今は仕事が恋人ですけどね」


 今とんでもない発言を耳にした気がするが聞かなかったことにしよう。


「本来、上尾先生とのご予定はなかったのですが――少し心配事がありまして」

「心配――というのはもしかして修学旅行のことでしょうか?」


「その通りですね、ただ杞憂だったみたいですが」

「……?」


「だってこんなにも幸せそうに眠っているのですから、杞憂でしかないでしょう」


 そう言ってノートパソコンを閉じた服部さんは黒芽先輩へと近づくと、横に座って彼女の頭を優しくそっと、二度撫でた。


「黒芽先輩――上尾先生はあの日修学旅行の話をした時、少し手が震えていました――やっぱり、行きたくなかったんですかね」


「理由の一つ、ではあると思います――ですがそれだけではないかと」

「それは……どういう?」


 人の話に野暮に首を突っ込むべきではなかったかもしれないが、俺は少し気になってしまい服部さんに訊き返してしまう。


「――彼女は、初めて顔合わせをした時から昔の私に似ていると思いました」


 服部さんは表情を変えることなく、黒芽先輩を見つめたままそう話し始めた。


「もっと言えば上尾先生の作品を読んだ時から、なのですが、彼女は理想の世界でない現実を憂いている子なんです」

「憂いている……」


「人間誰しもが理想を夢見ていますが、そんな簡単に行くなら誰も苦労はしません、だからこそ人は趣味娯楽で現実の大変さを癒やしますよね」

「……言っていることは分かります」


「ただ上尾先生の場合は、それを文字にしたため理想の世界を作り上げた人ですね、それが若者に中心に共感され、今や次世代を担う作家となりつつあります」


 一度気になって黒芽先輩の新作の評判を調べてみたことがあったが、実際中高生を中心に、肯定的な意見で溢れかえっていた。


「ですが、上尾先生はあくまで『理想の世界の住人』を描きたいだけであり、富や名声にはまるで興味の無い方です」

「それも分からないでもないですね……」


 何かあればすぐ買ってあげると言ってくれる黒芽先輩を考えると、有名になってお金持ちになりたいとか、そういうタイプではないのは俺も知っている。


「それが悪い訳ではないですし、そういう先生が他にもおられるのは事実ですが……、ただ上尾先生はそれすら憂いているように私には見えたのです」

「それが――服部さんと似ている点なんですか?」


 彼女はそれに対して、小さく頷いた。


「境遇は違いますけどね。要は彼女は若くしてこの世に一切の未練を持っていなかったのです、親御様から合鍵を頂いていたのもそういう理由です」

「親子の間柄すら……彼女にとっては……と」


「とはいえ、どう考えても業務の範疇を超えた行為なんですけどね。ただ嫌な話をすれば業界において彼女を失うのは損失でしかないので」

「本当に嫌なことを言いますね」


「私も昇給したいですから。ですが、このまま放っておく訳にもいかないと思ったのも事実です」


 でなければわざわざ電話やメールで済む所を、泊りがけで様子を伺いに行ったりしませんから、と服部さんは付け加える。


「でも――どうやらもう、私が心配する必要は無さそうです」

「服部さん……?」


「三国さん」


 彼女は俺の名前を言ってから、改めて居住まいを正し、身体を俺に向けると、いつも真面目そうな表情がふっと優しく崩れて、こう言うのだった。


「上尾先生のお側にいて下さって、ありがとうございます」


「……そんな、俺はただ出来ることをと……それにまだ何も――」

「それでいいんですよ」


「え?」

「上尾先生にとって側にいて欲しい人がいてくれればそれでいいんです。それは本来とても難しいことで、私達では無理なことだったのですから」


 その人の気持ちが理解出来ても、その人にとって必要かどうかはまた別の話ですからねえ……と服部さんは一つ大きな欠伸をした。


「……まあ、何にせよ、今後も上尾先生とは末永く良い付き合いをして下さると、私としてはとても有り難い話です」

「ですが――無責任、だったりしないですかね……?」


「付き合ってもいないのに、という意味ですか? んー……彼女のお気持ちを代弁させて頂けるとすれば『三国くんが無責任なことはない』ですかね」

「無責任では……ない……?」


「つまり三国さんがどんな行動、どんな態度をしようと上尾先生は肯定的にしか捉えないという話です――まあ、それはそれで注意すべきとも言うべきですが」


「そんなことが……」

「あるんですよこれが」


 服部さんの言っている意味を飲み込めず、言葉に迷ってしまっていると、彼女はその場から立ち上がり、ノートパソコンを鞄へとしまい込んだ。


「では、そろそろお暇させて頂きます。何かあればご遠慮無くいつでもご連絡をして来て下さい――三国さんはとても重要な方なので」

「あ――――あ、あの、服部さん」


「? どうされましたか?」

「最後に――もう1つだけ質問をしても宜しいですか?」


「何なりとどうぞ」

「えっと……その……ですね」


 そう言いつつも、これを訊くのはかなり微妙ではあるのだが……、黒芽先輩の気持ちが分かると言うのであれば、俺は訊いてみるしかなかった。


「こ、この状況……服部さんはどういう風に捉えますか……?」


 寧ろ最後までこれに関して何も言及しない服部さんが怖いが、彼女は飄々としたざっと俺と黒芽先輩を見比べると、顔を崩さないままこう答えた。


「まあ、未遂でしょうね」

「み、未遂……ですか?」


「三国さんを想うあまり走った行動であるのは言うまでもありませんが、緊張し過ぎてどちらにも混入していたのを忘れて飲んでしまったのでしょう」


 そう言って服部さんが視線を向けた先にあったのは、俺が黒芽先輩に飲まされたコップと、黒芽先輩の方に置いてあったコップの2つ。


 黒芽先輩は確か飲んでいなかった筈だが――そのコップは明らかに量が減っていた。


 ――状況を理解し、俺は肩に載っていた重い何かが取れる感覚を覚える。


「な、成る程……つまりセーフ……なんですかね……」

「絶対、とは言いませんけどね。しかしこの程度で恐怖を感じたのであれば今のうちに帰ってしまって、今後の振る舞い方を考えるのも手だとは思いますよ」


「――――いえ、俺は黒芽先輩が起きるまでは側にいます。修学旅行の間は黒芽先輩を不安にさせないと決めたので、そこは正直でいたいです」


 それは嘘偽りない言葉ではあったが、何故か服部さんは目を丸くしてしまっていた。


「――いやはや、若い時に三国さんと出会わなくて良かったですよ私は」

「へ?」


「何でもありません、大変とは思いますが頑張って下さいと」

「は、はあ……あの、何と言いますか色々と、ありがとうございました」


「それはこちらこそです、では今度こそ」


 何とも言えない状況の中、俺は服部さんを見送ると、一息ついてから布団ですやすやと寝息を立てて眠る黒芽先輩に目を向けた。


「幸せな夢を見ていると、いいんだけど」


しかし、これでよく分かった。俺は遅かれ早かれ、どうすべきなのか、どういう道を辿るべきなのかはやはり決めないといけないのだろう――


 ああ全く、どうやって俺は知らず知らずの内にこんな遠い場所まで着てしまったのだろう。



「むにゃ……ましゃよしくん……」

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