第38話 おやすみなさい、昌芳くん
鍵をかけ俺の方を見た黒芽先輩からは、不思議な色気を感じた。
言葉にすると難しいのではあるが……とてもシンプルに表現するのであれば、多分俺は襲われるのだろう、そういう目である。
……いや待て、待ってくれ、それは聞いていない、確かに黒芽先輩の家に行くのは了承したし、彼女の不安が紛れてくれるのはこれ以上ない本望ではある。
しかしこの布団からは『情事するぞ!』以外の意思が伝わってこない……。
とはいえ、俺だって一端の高校生だ、性欲くらい勿論ある。
ましてや相手は黒芽先輩、美人でナイスバデーな彼女とそういうことに……と思うと――ああそうだ、興奮くらいはしてしまう。
「でも落ち着け……今は落ち着くんだ俺よ……」
「昌芳くん……今飲み物を入れますからちょっと待って下さいね」
「の、飲み物ですって……?」
の、飲み物はちょっと……、こんなことを黒芽先輩に対して言いたくはないけど確実に何か入れられる気がする、主に導入剤的な。
逃げようにも鍵は掛けられており、何ならチェーンまで降ろされている、かと言って本当に逃げてしまえばそれはそれで黒芽先輩を悲しませるし……。
「ど、どうすれば……」
と、取り敢えず飲み物は飲まないようにして、話を上手く布団から逸し続けよう、その間に対策を練るしかない……。
欲望に任せて行き着く所まで行くのは色々とまずい、そのコースに向かって走るにはあまりにショートカットをし過ぎている……。
「く、黒芽先輩……?」
「どうかしましたか昌芳くん……」
やけに艶のある声に思わず心臓の音が聞こえそうなくらい昂ぶってしまいそうになったが、何とか平静を装うと恐る恐る言葉を紡ぎ続ける。
「ひ、一人暮らし……と言いましたけど、随分と簡素なんですね」
「最近越してきたばかりで、基本的には仕事用の部屋なんです、だからあまり家具といったものはそんなに置いていなくて」
「成る程……だからパソコンは置いてあって――」
「資料以外の本もここに置いていないので……、今度何冊か本を持ってきますので一緒に布団に入りながら本を読みたいですね」
読み聞かせでもしてくれるのかな?
何とか逸らそうとしたのだが、呆気なく黒芽先輩から布団というワードを持ち出されてしまったので会話は悪い意味で途切れてしまう。
ううむ……まずい、何一つとして打開策が生まれてこない……。
おまけに周囲を見渡しても話題になりそうなものも何もない……最早打つ手なしに近い俺はヤケクソ気味にYES、NO枕とやらを裏側に向けてみる。
「え……?」
まさかのYES、YES枕だった。
もう完全に逃げ場無しじゃないかこれ……。
ここまで来るといい加減もうゴールしてもいいよね……という気持ちに苛まれそうになる、こういう時男ってのはマジで悲しいくらいにチョロい。
「昌芳くん粗茶ですけど、どうぞ」
「えっ! あ、ありがとうございます……」
先輩は茶葉から淹れたと思われる水出しの緑茶を、小さなテーブルに置いてくれる。
そして彼女も自分の分をテーブルの上に置くと――向かい側ではなく俺の隣へと座り込んだ。
「く、黒芽先輩……」
「昌芳くん……今日は私の家に来てくれてありがとうございます……」
「い、いえそんな……俺はただ先輩が楽しく思ってくれればそれで――」
「それが嬉しいんです……それだけで私はこれ以上ない程に嬉しいのですから――なので、それに見合うだけのものをお返ししたくて……」
「み、見合う……?」
黒芽先輩はそう言って距離をさらにぐぐっと縮めてくると、自分の首を傾けてそっと俺の肩へと頭を乗せてくる。
それによって黒芽先輩のシャンプーの香りが仄かに鼻腔を擽り、緊張が加速すると共に色々な部分が落ち着かなくなり始める。
それでも最後の抵抗にと、一線だけは越えないよう手は後ろに回し、誘惑に負けないよう必死に荒ぶる気持ちを抑え込む、もう俺に出来ることはこれしか――
「……ん?」
「どうかしましたか? 昌芳くん?」
あれ、おかしいな、今指に何か付けられたような感覚が――しかしその違和感はあまりに些細なものだったので強い疑問を抱かずにいてしまう。
いや……でも一応確認はしておくとしよう――と、俺は後ろに回した手を前に持って来て視認しようとしたのだが、何かが邪魔して前に出せないではないか。
「え……へ……?」
小指に指に力が入らず、無理に引っ張ろうとすると筋に痛みが走って動かそうにも動かない、こ、これは……。
手錠やロープであれば、手首が単に動かないだけだ……つまりこれは単純に加えいとも簡単に相手を無力化する技術……。
「ま、まさか……結束バンド……?」
「昌芳くん」
「はいいっ!?」
耳元で囁いて話し掛けてきた黒芽先輩に俺は興奮と恐怖に似た何かが入り交じり、悲鳴なような声を上げてしまう。
「先程も言いましたが、私はどうしてもお返しがしたいんです」
「そ、そんなことは……俺だって黒芽先輩からは一杯貰って――」
「でも私は何の魅力もない粗末な女です、唯一の小説だって最近は悩んでばかりで、とても昌芳くんを喜ばせられることなんて……」
「あ、焦らなくても大丈夫ですから、上手く行かない時は一度立ち止まってみるというのも1つの手だと思いますし……」
「それではいつまでも私は昌芳くんに何もしてあげられません、それに――昌芳くんはとても優しいですから必要であっても何も要らないと言うでしょうし……」
だからこその結束バンド、とは彼女は言わなかったが、この拘束状況を考えればそれ以外には考えられないだろう。
「黒芽先輩、一旦落ち着きましょう……趣旨が変わり始めていますから……」
「あ……昌芳くん凄い汗が……喉乾いているんですね、私が飲ませてあげます」
「いっ……!? ほ、本当に大丈夫ですから! その気持ちだけで本当に十分――むぐっ」
まるで赤ちゃんの如く黒芽先輩に頭を支えられた俺は、そのまま緑茶(?)の入ったコップをそのままぐいっと、抵抗する間もなくねじ込まれてしまう。
そして――最後の足掻きも虚しくゴクンと緑茶は俺の喉を潤してしまうのだった。
「終わった……いや、始まったのか……?」
残念がらそれ以外に出てくる言葉が存在しない――だが悪いのは黒芽先輩ではないのだ、彼女の気持ちを中途半端に捉えていた俺の責任――
すまぬ妹よ……お前の言う道とやらは、やはり安易に手を出してはいけなかった……。
「う…………」
「……やっぱり、日頃の疲れが溜まっていたんですね、瞼が凄く重そうです……でも心配いりませんから、昌芳くんはゆっくり休んでくれれば、それでいいんです」
「く、黒芽……せんぱ……」
「さあこっちです昌芳くん……布団が敷いてありますので――」
日頃の疲れが極度に溜まっていたこともあるにせよ、明らかに何かを盛られていたとしか思えない急速な眠気に俺は抗えなくなる。
精神的にも、物理的にも抵抗出来ない俺は黒芽先輩に手を引かれるがまま、フラフラとしながらYESと書かれた枕の上に仰向けに倒れ込む。
そしてすーっと意識が遠く中、最後に俺の視界に入って来たのは。
「大丈夫です。私、身体には自信がありますから」
先輩の、優しくも瞳の奥が深淵みたく深い、そんな笑みと声だった。
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