第25話 彼の前で取り繕いたくないけど
俺と黒芽先輩はタクシーに揺られること10分。
ペリオから然程遠くない場所で降りた俺達は近くの喫茶店へと入った。
今時珍しい少し古ぼけた、所謂純喫茶と呼ばれる様相、それこそ作家という職業の人はこういう場所で原稿を書くこともあるのかなと思っていると、珈琲が2つとオレンジジュースが1つ、そしてハンバーグセットが到着した。
「申し訳ありません、朝から何も食べていなかったものでして」
「いえ、お気になさらないで下さい」
「宜しければお二人共お腹が空いているようでしたら注文しましょうか?」
「いえ、私は大丈夫です、昌芳くんは?」
「俺も大丈夫……です、母親が夕食を作り置きしてくれていますので」
「母親……懐かしいですねえ、もうかれこれ5年以上はおふくろの味というものを食べていない気がします」
目の前にいる女性は遠い目でそう呟くと、熱さよりも食欲だと言わんばかりの速度で一心不乱にハンバーグを口の中へと放り込んでいく。
そう、今俺は黒芽先輩だけではなく、もう一人別の女性と一緒にいる。
年は……20代後半くらい、スーツ姿に黒の長い髪をお団子ヘアにし、やや疲れた表情をしているが大人びた風貌を纏った人。
黒芽先輩の匂い事件から電話番号を交換するという摩訶不思議な流れからのこの状況は何とも説明し辛いのだが……要するにこれは、予定調和の話であって彼女は黒芽先輩――いや、上尾先生の担当編集さんということであった。
「……昌芳くん、珈琲熱くないですか? ふーふーしますよ」
「いや、黒芽先輩それは自分で出来ますから……」
「でも昌芳くんの舌がやけどしてしまう訳にはいかないので……それかお互いに珈琲をふーふーしてちゃんと冷めているか確認するか――」
「あまりに面倒臭すぎません」
小声ながらもいつもの調子な黒芽先輩に俺は内心ヒヤヒヤしていたが、こっそり目線を向けると、編集さんはこっちのことまるで気にもせず、ジュースを猛烈に啜っていた。
そして、もの数分もしない内に全て完食してしまうのであった。
「ごちそうさまでした――あ……申し訳ありません、ちゃんとご挨拶もせずにがっついてしまいまして、申し遅れましたが私、
「あ、名刺――ありがとうございます」
こんなただの学生にまで渡さなくてもと思いつつ、頭を下げて受け取ると簡単に目を通す――
疑っていた訳じゃないがどうやら本当に黒芽先輩が本を出している、名前を聞けば大体の人は知っている出版社の編集者さんのようだった。
「ええと……すいません、俺――僕名刺を持っていなくて……」
「学生で持っている方の方が珍しいですからお気になさらず、昌芳さんでしたね」
「三国昌芳です、黒芽せんぱ――上尾先生とは同じ学校の先輩で――」
「最近よくお話をさせて貰っている間柄です」
「……? まあそう……ですね」
いつもならここで全てを捧げた人という定型句が飛び出して来そうな所ではあったのだが、相手が服部さんなのか、普通な対応を見せる黒芽先輩に少し驚いてしまう。
服部さんはそれに対して一瞬だけ不思議そうな顔を見せたものの、すぐに大人の余裕みたいな笑みを見せると話を再開させた。
「なるほど、そういうことでしたか」
「……? 服部さん?」
「ああいえ、こちらの話です。それより三国さん、もっと楽にしていいですよ、そんな畏まった場でもありませんので」
「ありがとうございます……と言いたい所なんですが、本当に僕はこの場にいても良いんですかね……? 打ち合わせ、ということみたいですし」
「それはそうですが、本来の目的は大阪に在住の別の先生の件で、上尾先生に関しては立ち寄れるついでのお話だったので問題ありませんよ」
本来ならメールでも良い所ではあったので、と付け加える服部さん。
「そ、そういうことでしたら……」
と言いつつもやはり居心地の悪さは覚えてしまう。
黒芽先輩も気にしていない様子ではあるけど、それが逆にアウェーというか、自分がいるべきではない世界にいるような気持ちになってしまうのだった。
トイレでも行って時間を潰そうかな……と少し冷めかかっていた珈琲を一気に飲み干した俺はゆっくり立ち上がろうとした――
のだが、突然服部さんがもの凄いことを言い出した。
「ところで上尾先生と三国さんは付き合ってどれくらいになるんですか?」
「へっ!? つ、つつつ付き!?」
「服部さん、付き合ってはいないんです、まだ私と昌芳くんは知り合って2週間も経っていないくらいで、お互いのことも知り始めたばかりですから」
「って、黒芽先輩……?」
「あら、そうなんですか? とても仲が良さそうでしたので、てっきりお付き合いされているものかと」
「仲良くはさせて頂いています、昌芳くんはとてもお優しい人なので」
まあでも、服部さんの言うことも尤もではあるよな……。
確かに告白こそされてはいないが、俺は黒芽先輩にははっきりと好きだと言われている、それがラブなのかライクなのかなど今更議論する必要もない。
ただこれまた黒芽先輩の言う通り、まだ知り合って2週間も経っていない、どころか会話をした回数で考えたらまだ数日といった所だろう。
とはいえ、俺のコミュニケーション不足と、目まぐるしい状況の変化でどうにも前に進めていないのは申し訳ないのだが……。
しかし……服部さんが相手とはいえ、いつもの感じで話をしないのは少し意外ではあった。
それこそ誰がいてももっと直接的な言葉を口にする筈なのに、意図的に控えめにしているというか――などと思っていると。
突然黒芽先輩は俺の右手に、そっと手を置いて握りしめてきたではないか。
「! ……」
思わずドキリとして声をあげそうになったが――俺は彼女の表情を見て動揺しそうになってしまった気持ちを不思議とすんなり抑えることが出来た。
……理由は分からない、でもはっきりしているのは、恐らく、黒芽先輩はそれを本望で言っている訳ではないということ。
平然と会話を続けてはいるが、そうじゃないということを、今すぐにでも行動で示したかった、だからこうして……。
「…………」
それならばと、俺は黒芽先輩を少しでも安心させる為にも、恥ずかしくはあったがその手を動かすようなことはしなかった。
そのお陰かは分からないが、徐々に黒芽先輩の表情に柔らかさが生まれたように見え安心する。
しかし。
服部さんから放たれた次の言葉が、彼女の手をピクリと震わせるのだった。
「――では、短編の件になりますけど、こちらは修学旅行の兼ね合いもありますので、その後の週明けまで締め切りを伸ばせるようにしておきますね」
「あ、服部さん、その件は大丈夫です、私、修学旅行は行きませんので」
「黒芽先輩?」
「え……? 上尾先生、修学旅行……行かれないんですか?」
「はい、私にとってさして重要なことではありませんので」
それは――彼女のことを考えると然程おかしなことではない気がしないでもなかった。
でも、彼女の震えた手を感じ取った俺はその時、これを放置するのは良くないのではと、漠然とではあるが、そう思ってしまっていた。
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