第24話 彼女は匂いにとても敏感

 放課後。


 私は誰よりも早く昇降口へと辿り着くと昌芳くんのクラスの下駄箱へと向かった。


 本当は今日の登校時間だって、休み時間だって、何なら授業合間の10分休憩だって、私は昌芳くんに会いに行きたかった。


 それくらい、最近の昌芳くんへの想いは筆舌に尽くし難い程に強まっている、ほんの僅かな時間ですら、彼の側にいたい。


「でも今日は突発的な用事が重なったから――」


 違う、昌芳くんに会いに行くこと以上の用事なんて本来はある筈がない。


 それでも……彼に全てを捧げるのであれば必要なことだったから……。


「昌芳くんは……まだ来てないみたい」


 流石にちょっと早かったかもしれない……けど昌芳くんを待っている時間はそれはそれで幸せな時間だから全く問題はない。


「ただ念の為確認はしておいた方が……」


 そう思うと私は下駄箱にざっと目を通す、確か彼の出席番号は32番の筈だったから――


「あった」


 私は小さく声にすると32番と書かれた靴箱に手を掛けた。


 そこにはいつも彼が履いている黒のストライプが入った靴があり、間違いなく彼がまだ校内にいることを証明していて少しホッとする。


 本当は昌芳くんのクラスの前で待っていたかったけど……、教室の前であの女と出くわして無駄な時間を費やすのは得策ではない。


「だからここなら確実に昌芳くんと会えるし、あの女は部活の関係上すぐには来ない、下駄箱で待っているのが一番完璧――」


 そんなことを考えていると――私はふと昌芳くんの靴をじっと見つめる。


 そういえば……昌芳くんが普段から使っている靴が、今目の前にある――


「……嗅いでみたい」


 きっとその靴には昌芳くんの匂いが凝縮されているに決まっている――そんな素晴らしいものを嗅げるチャンスが転がっているのに何もしないのはあまりに惜しい。


「…………」


 私は周囲にちらりと目を向けると、下校する生徒が僅かに見受けらました。


 ですが――まだ昌芳くんのクラスの生徒は昇降口に現れていません。


「一瞬だけ……ほんのちょっとだけ嗅ぐだけです――」


 逸る気持ちを抑えながら、そっと靴を取り出してさっと嗅いですぐに戻すだけと自分に言い聞かせると、私はその手をゆっくりと伸ばしていく。


 そして――ついに私の手が昌芳くんの靴に触れようとした瞬間。


「黒芽先輩?」

「ひゃうっ! ま、昌芳くん……!?」


 無情にも――ではなくてそれはとても嬉しいことなのですが、昌芳くんが私を見つけて声を掛けてくれたのでした。


「あの……それ俺の靴箱ですけど……な、何を……?」

「そ、その……ご、ごめんなさい、どうしても昌芳くんの靴の匂いを嗅ぎたくて」

「滅茶苦茶正直ですね」


 もしかしたら怒られるかも――と少し期待をしましたが、昌芳くんは困ったような、呆れたような表情になり、それでも笑顔を見せてそう言うのでした。


 そのせいか……私は行き場のない気持ちが思わず言葉に漏れてしまっていました。


「あの……昌芳くんの身体が触れた部分はいつも洗わないようにはしているんです」

「清潔の為に洗って下さい……というより今ここでそれは――」

「でも数日もすると匂いが消えてしまうんです……いつでもどこでも昌芳くんの匂いを感じていたいのに、それがとても悲しくて――」

「黒芽先輩、落ち着いて下さい……ちょっとザワついてますから――」


「だから……せめて匂いが消えてしまうのなら、昌芳くんの靴の匂いなら脳裏に焼き付くくらい、記憶に深く刻みたいと思ったんです!」


「もう駄目だァ! 黒芽先輩こっちに来て下さい!」

「あっ、ま、昌芳くん……!」


 徐々に集まり始めていた外野がやけにうるさいとは思っていましたが、その様子に昌芳くんは慌てて靴を履くと、私の手を引っ張って昇降口を飛び出します。


 ただ……突然とはいえ、昌芳くんに手を引かれて走るなんて初めての経験だったので、少し胸がくっと締め付けられて、嬉しくなっていまいました。


       ◯


「はぁ……はぁ……こ、ここまで来れば……」


 学校から少し離れた住宅街まで走ると、そこでようやく足を止めた昌芳くんは息を切らしながら繋いでくれていた手を離しました。


 手を離されてしまったのは残念……と、昌芳くんから滴る汗を眺めながら思っていると、疲れた表情で私を見て口を開きます。


「はぁ……く、黒芽先輩、駄目ですよ、あんなこと言っちゃ」

「? どうしてですか?」

「ど、どうして……? それは……その、あの言い方ですと足が臭いと勘違いされますし……あと人前で言われるのは恥ずかしいと言いますか……」


「そう……ですか……。私も嫌だと思うことは絶対にしたくないので、昌芳くんがそう仰るのであればもうしません……」


「いや嫌ではないんですけど……ああそんな悲しい顔しないで下さい、止めてくれとかではなくてですね……ああ難し過ぎるぞこれ……」


 昌芳くん匂いが二度と嗅げなくなるのは流石に辛いので、柄にもなく落ち込みそうになってしまっていると、昌芳くんがそう慰めてくれました。


 何処まで行っても優しい昌芳くん……堪らず抱き締めたい衝動に駆られ、一歩足を踏み出してしまいそうになります――


 ですが、そこで妙な匂いが鼻を劈きました。


「……昌芳くんから女の匂いがする」

「へ!? し、しますかそんな匂い……?」


「微かでは……昌芳くん、何か変な事されませんでしたか?」

「いっ……! いや……多分ない……と思うけど……」


 すぐに匂いと記憶が繋がりませんが……この匂い、以前嗅いだことのあるような気が……。


 今まで一度も昌芳くんから女の匂いがしたことは無かったので、胸騒ぎがし始めます、誰? 誰なの昌芳くんに唾を付けようとしているメスは。


 しかも私の知らない所でちゃっかり距離を詰めようとしている所が尚更腹立たしい、昌芳くんは優しい人だからきっと相手をしてしまうだろうし……。


 昌芳くんをたぶらかすつもりなら見つけ出して二度と――


「許せない、許せない、許せない……」

「あー……え、えっと、そ、そういえば! く、黒芽先輩はどうして俺を待っていたんですか?」

「許せ……え?」

「いやその、幾ら何でも俺の靴目当てではないと思ったので……」

「それは――――あ、そ、そうでした!」


 色々な事が立て続けに起こってしまったせいで忘れてしまっていましたが、私はとても大事なことをするつもりで彼を待っていたのでした。


 私は慌ててポケットからスマートフォンを取り出すと――今更ながら少し胸をドキドキとさせつつも、ギュッと握りしめてこう言いました。


「あ、あの昌芳くん……私と電話番号を交換してくれませんか……?」


「……? ああ、そういうことですか、俺は全然構わないですよ」

「――! ほ、本当ですか、よ、良かったです……」


 快く承諾してくれる昌芳くんに私の心のモヤは一瞬にして晴れます。


 ただその後に「今日は一段と奇妙な日だな」と呟いたのが気になりましたが、しかしそれよりも嬉しさが勝った私は早速電話番号を教える準備をしました。


 靴の匂いは嗅げなかったけど、これで昌芳くんといつでも連絡が――


 と、これからより一層彼を身近に感じられる喜びに私は興奮状態だったのですが――それをとある声がくっと引き留めるのでした。



「もしかして、上尾先生ですか?」

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