桜花と慈愛雪

@Clover2004

 


 心臓が耳元で叫ぶ。

 喉が燃える。

 足が折れてしまいそう。

 それでも、走った。

 そうしないと、いけなかったから。

 女は走る。雪の降る山道を。誰もいない白の世界を。

 火傷のあとが鼓動にあわせて痛みを主張してきても、

 頬を涙で濡らし続けても、止まることをしなかった。

 やがて、小さな小屋を山の中に見つけた。もはや廃墟としか呼べないほどにボロボロだった。

 だが、女は藁にもすがる思いで、小屋に近づいた。

 誰かにいてほしい。助けてほしい。心の底から願い、扉を叩く。

 反応はない。当然と言えば当然かもしれない。

 女は正常な判断を失い、何度も何度も木製の扉を叩いた。声を出す余裕など、すでになかった。

 肩や頭に雪が少し積もるほどした後、扉が開くことに気がついた。

 女はともかく転がり込む。雪を避けたい一心で。

 小屋には少しの土間と、小さな居間、中心に囲炉裏があるくらいだった。

 氷より冷たくなったその手を伸ばし、暖をとろうと囲炉裏へ進もうとした。

 それが限界だった。

 女は入り口を開けたまま倒れた。

 雪が女に降り積もる。意識が遠退く。

 女は薄く口を開け、震えるか細い声で、一言願いを呟いた───────

 

    ◇◆◇

 

パチパチと何かが弾ける音。

 まだ頭がぼんやりする。自分が横たわっていることは、かろうじてわかった。

 だんだん意識を取り戻していく。異常に暑い気がした。

 薄く目を開ける。

 囲炉裏のそばに、誰か人影が見えた。だけど、顔はまだよく見えない。

 ここは、どこだろう。

 横たわるそれは、目を動かす。

 木でできた小屋?これは、囲炉裏の火を眺めるあの人のものか?

 それとも、私のか?

「ふわぁ~......」

 胡座をかいて座る人影が、大きく欠伸をする。今気づいたが、ずいぶん大きな影だ。あの人自身の座高か、体格が大きいのか。あるいは、何か身につけているのかもしれない。

 色々と憶測を巡らせていると、人影の人物───男性のようだ───が、自分を見上げる人に気がついた。

「あ、起きてた。おはよー」

 赤い着物に黒い帯を着けた男は、ヒラヒラ笑顔で手を振る。

 どう反応していいかわからず、とりあえずゆっくり上半身を持ち上げた。

「えっと...おはようございます......?」

「ん、はよさん。あ、勝手に家入っちゃってごめんね~。緊急事態だったもんでさ」

 男は改めてこちらに向き直るように、体制を整えた。

 自分は布団で寝ていたことに気づき、身なりを整えた。

 白い着物に桃色の帯。服装や長い黒髪から、おそらく自分は女だ、と眠っていた人物は思った。

 加えて、何も覚えていないこともわかった。

「あ、あの...お邪魔してすみません...す、すぐ帰ります...」

 女はうつむき気味にお礼を言い、立ち上がろうとした。

 ところが、男は首をかしげ、質問した。

「え?これ、君の家じゃなかったの?」

「え?私のなんですか?」

「え?」

「え?」

 ...会話が成り立たない。互いが互いの家だと勘違いしていたようだ。

「え...っと、あなたの家ではないのですか?」

「いや、俺は別の家あるし...そっちのじゃないの?」

「私は...私の家......」

 考えてみたが、自分の性別さえ忘れていたのだ。覚えているはずがない。

 だが、迷惑になってしまうかもしれない。女は正直に答えるのを躊躇って、言った。

「あ、あ~ここ、私のだったかもしれない...忘れてた...ご、ご迷惑おかけしました...」

 ずいぶん白々しくなってしまったが、男は「自分の家って忘れるもんか?」と一言ツッコミを入れつつも、深堀はしなかった。


 すると突然、男はまじまじと女の顔や体を眺め、「へ~...珍しい」などと呟いた。その行動が何なのか、女にはわからなかった。

「いや、この山に久々に誰か来たから誰かなって行ってみたら、家に半分入った状態で人がぶっ倒れてたんだもん。吃驚した...ってあ、火消さないとな」

 女から目を離し、囲炉裏の始末に入ろうと、男が背を向けた。


 その背に人らしからぬものを見て、女は目を見開き、息を飲んだ。


 狐の尾が何本も生え、それらは飾りでないことを証明するように、少し動いていた。

 背筋が凍るようなぞっとした寒さを覚え、女は自分の腕を擦る。

 その腕から全く体温を感じないことに気づいて、更に驚いた。


 今すぐ逃げ出したい衝動に駆られたが、震える手では体を支えることもできない。

 自分は狐に化かされているだけ。でなければ夢だ。そうに違いない。

 無理やり自分に言い聞かせ、心の平穏を保とうと試みる。が、驚くほど効果がなかった。

 やがて、火が消えた。真っ暗になるかと思いきや、行灯のおかげで、互いの顔が見えるくらいの明るさはあった。

「これでよし。こんくらいなら暑くないでしょ。...あれ?どうかした?」

 冷や汗をかく女を見て、男は不思議そうな顔をした。

「い、いえ......な、なんでもありませぬ...」

 焦りすぎて変な口調になってしまった。目をそらし、頑なに現実を受け入れようとしなかった。だって狐のしっぽがたくさん生えた人なんて見たことないし。


 多くの不安を覚え、女はなんとかして自分の境遇、置かれた状況などを必死に思い出そうとする。

 が、そう簡単に記憶を取り返すことはできない。


 どうする。逃げるか。いや、ここがどんなとこかわからない以上、無闇に外に出ると危険だ。

 だけど...でも...


 「どしたの?頭痛いの?お腹痛いの?」

 こめかみを圧迫して色々な方法を模索していたら、男がグッと顔を近づけてきた。当然、女は声をかけられるまで気がつかなかった。

「うわああ!な、なんでもないでっ...っつう...!」

 ドアップの顔に驚き、あとずさるも、思い切り壁に後頭部を打ち付けた。女は、鈍い痛みがじわじわ広がるのを止めるように、押さえて蹲った。

「あらら、だいじょーぶ?後ろ壁だって気づかなかった?」

 まるで他人事のように話す男を見て、女は観念したようにため息をついた。

 幸い、悪い人ではなさそうだったので、自分が悩む全てを語ることにしたのだ。


     ◇◆◇


「へぇ〜...なんだ、新人だったのかぁ。それならそうと早く言ってよ〜」

 思ったよりヘラヘラと笑って聞いてくれて、女は先ほどとは意味の違うため息をついた。

「えっと...新人とはなんですか?」

「ん?ああ、そうだな...順を追って説明しようか」

 居住まいを正すように、男は座り直す。


「まず、改めて自己紹介をさせてもらうね。俺は『天狐』っていう九尾の一種。まあ、神様みたいなもんよ。俺はこの山の管理者でもあって、ここにいる生き物全て把握できる。だから、誰かが入って来たとかもわかるんだよね。君のときも例外じゃなかった。で、行ってみたら小屋で君が倒れてたわけよ。...つまり、君は山の麓、人間の村から来たんだよ」

「...人間なんですか、私...」

 驚愕の事実、というほどではないが、この異様に冷たい体からはあまり信じられなかった。

「まあ、必ずしも人間だったってわけじゃない...んだけど、君さ、この山のこととか、天狐のことも知らなかったんだよね?驚いてたし」

「えっ、あ、えっと...はい...」

 本当にこの人はどこまで知っているんだろう...

 隠していたつもりが、バッチリバレていた。神様っていうのは本当かもしれないな、と女は心に刻んでおいた。

「だよね〜。同じ妖怪だったら今更尻尾程度じゃ驚かないもん」

 ケタケタと面白そうに笑う男。女は、だんだんこの男は自分を驚かせるためにわざと何も言わなかったのではないかと思い始めた。明らかに反応を楽しんでいる。

「まあまあ、安心しろって。今や俺らは同志なんだからさ。お前をいじめて遊ぶわけないって」

 女はニッと八重歯を見せて笑いかけられ、ついに神の存在を信じることにした。ほとんど脳死で決めた。


「んで、話を戻すけど、人間が妖怪になるって結構珍しいことなんよ。それがあったのは...昨日が『特別な日』だったからだろうね」

「特別な日?」

 首を傾げて質問する。記憶はほとんどなくなって忘れている可能性はあるが、昨日はなんてことのない冬の日だったはずだ。何かの記念日はあったかもしれないが。

「そ。まあ、人間の間でこの話が回ってるかは知らないんだけど、なんも覚えてないってことは、話しても無駄骨にはならなさそうだね」

 天狐は頭上を見上げ、屋根の隙間から落ちる雪を手の上で溶かした。

「昔話なんだけどさ、ちょっと聴いててもらえるかな」

 女は、その行動をじっと見つめながら頷いた。「ありがと」と一言呟いてから、女の目を見据えるように視線を戻した。

「ずっと昔...まあ、数十年くらいなんだけど、ある恋人同士の二人の人間がいたんだ。彼らは平和に過ごしていたんだけどね、ある日突然、男の方の家が火事にあって、必死になって逃げたんだけど、木製の家だったから、全身やけどしちゃって。家から這い出たころには瀕死だったんだって。

 女はひどくそれを嘆いて、せめて彼が苦しみながら死なないように、雪を降らせてって神に願ったんだってさ。

 妖怪なら、種族によっては、妖力を利用して降らせたりできるんだけど、人間は妖力がないからできない。

 それでもって祈り続けた。そしたら、奇跡的に雪が降り始めたんだよ。...女の妖力の代わりに、生命力を奪ってね。そんで、女は男と雪の中で仲良く亡くなりましたって話。それが本当にあったかのか、作り話かは知らないけど」

 悲しい話だ、と女は素直にそう思った。そんなことが現実でできるものなのか、とも思った。

「えっと...その話が、どう私が妖怪になった原因と繋がるのでしょう...?」

 生前の女は、悲しい話はあまり好まなかったようで、すぐに避けようとした。

 よくぞ聞いてくれました、と男は足を組み直して言った。

「この話の鍵は、降らせた雪だよ。それには名前があってね、『慈愛雪』っていうんだって。この雪は特殊で、普通の雪と違って妖力でできてる。人間が妖怪になるときってのは、だいたいは死ぬ直前に妖力が体に入るの。つまり、その雪を君が死ぬ前に浴びたから、妖力が注ぎ込まれたんだろうね」

 そういえば、と女は思い出す。あれが慈愛雪と呼ばれる、愛する人を安らかにする為の...。

「あ...でも、その雪を降らせたのって、女の人の生命力じゃないんですか?なんで妖力でできているんですか?」

「痛いとこつくねぇ君...まあ、ちゃんとした原理があってね。さっきも言ったけど、人間は雪を降らせたりはできない。けど、生命力を代償に、妖怪の真似事ができちゃうわけよ。つまりは、生命力を妖力に変換するってのが正しいかな」

 女は納得した。その妖力が自分に大量に降りかかったものだから、妖怪として今生きているのだ。


 納得はしたが...なぜか不満が胸中に広がっていた。理由はわからない。

 ここまでのやりとりでわかったのだが、生前の自分の好みや考えは、僅かな感覚だけでしかないが「自分の身体」が覚えているようだった。

 その感覚からすると、自分がまだ生きていることに不満を感じている。なぜ嫌なのか、それは生前の自分にしかわからない。

(けど...知ろうとは思わないな...)

 女は白い右手を握ったり開いたりして、脳内で知りたくない、と思い直す。「生きたくない」が答えならば、目の前にいる天狐にも迷惑がかかる。それに、

(生きていれば、きっといいことがある。この考えを覆すのも、また楽しそうね)

 新しい自分は、どうやら冒険者らしい。眺めていた手をもう一度ギュッと強く握った。


 女の顔を見て、天狐は少しだけ憂いた。女は気が付いていない。


「んじゃ、悩みは解決したっぽいし、俺そろそろ帰るわ。まだなんかあったら山頂の方来てね〜」

 ひらひらと手を振って立ち上がる。表情は元の陽気な笑みに戻っていた。

「あ、色々ありがとうございました...その、忙しいのに...」

「え?いや、基本的に暇だよ?俺」

 ニッと笑う天狐。それは、女にとって少し羨ましい存在だった。

(昔の私はどれだけひねくれた人だったんだろ)

 頭をひねっても、すっぽり抜けた記憶ではわかるはずもなかった。

「それじゃ。なんかお前、面白いからそのうち来るかも」

「え、」

「またね〜」

 古い木の扉が軋んで閉じる。その残響を少し不快に思いながら、自分がなんの妖怪なのか聞いていなかったことに気がついた。


     ◇◆◇


 狐の神は山道を歩いていた。

 一応飛ぶことはできるが、そんな気分じゃなかった。というか、ゆっくり帰りたかったのだ。

 考え事をしていた。ある女についてだ。


 まともな答えなど、出るはずもなかったけれど。


 はあ、と大きなため息をついた。

「...ったく...なんで神様が一人の女の子にこんな悩むかね...」

 自嘲と呆れの入り混じった笑みで、独り言を呟く。

 白い世界に目立つ赤い衣を、静かに揺らして曇天を見上げた。


「...弱いよな。あんたも、俺も」


 振り続ける雪に一瞥をくれてから、また息をついて、まっさらな絨毯に足跡をつけた。

「さて、どーすっかなぁ...」


     ◇◆◇


 妖怪になった日から数日後。


 女は全く外に出ることはなかった。

 全く...というのは語弊がある。一度、木の実などを探しに出かけたことがあるからだ。


 だが、その時の不快感は底知れない。


 外にいる間ずっと憂鬱で仕方なかった。

 足が重く、早く帰りたいと何度言ったことか。

 結局、当たり前だが収穫はなし。食べ物はなくても生きれるが、ふと果物の味を懐かしく思い、何かないかと思ったのだが、持ち帰ったのは気だるさだけだった。

 帰って来たと同時に布団へ倒れ込んだのはいうまでもない。


 そんな経験を経て、気づいたことが一つ。

 以前の自分は雪が大嫌いであることだ。


 この家は廃屋が故に、屋根のところどころから雪が入りこむことが少なからずある。

 それを見るたびに、果てしない嫌悪感が脳内を埋め尽くすのだ。

 寒いとは感じないが、「なんか嫌」というよくわからない理由で不快になる。


 それから、静かなのも嫌いだった。

 つまり、自分は冬が大嫌いなのが判明した。理由を考えるのはとうに諦めた。


「そうは言っても...まだこの雪も冬も続きそうなのよねぇ...」

 布団の中で、女はため息混じりにぼやいた。

「ああ〜〜〜〜っ!理由もわからず不快になるのはもう嫌です!早く終わってくださぁい!!」

 避けれない自然の原理にどうこう言っても仕方ないのだが、なんとなく天井を仰いで叫んでみたりした。

 当然、何かが変わるわけではないのだが。


 そんなことをしていると、

「よ〜っす、って何してんの?」

 寝転がって天井に腕を伸ばし叫ぶ女の姿に、戸惑いと純粋な疑問を投げかける男が扉を開けて入って来た。

「んあ、どうも天狐さん」

 腕を下ろして気の抜けた返事をする女。男の質問に答えられる者は、その小屋にはいなかった。


 初めて天狐と女が出会った日から、天狐は度々女の家に顔を出して、何気ない世間話などをするようになった。

 妖怪とはいえ、神様と話すことに緊張を覚えていた女も、今ではかなり肩の力を抜いて...いささか抜きすぎな気もするが、天狐と接している。


 男は布団に近づいて、頭の横であぐらで座る。

「なに、冬早く終わってほしいの?そんなことお前が言っちゃったらもうおしまい...」

「?私が何かあるんですか?」

 男の言葉に違和感を覚えた女は、体を起こして聞いた。

 途端に、マズイ、と言いたげな顔をする男。冷や汗がその焦りを物語っている。

「あー...別になんもねぇよ?」

「ほんとですか?」

「ああ。...なんでそんな疑うんだよ...」

「あなたがはぐらかすからに決まっているでしょう」

 じぃっと心の内を探る目つきに、さすがの天狐も苦笑いしか返せなくなった。

 しばらく男を睨んでいたが、ついに諦めてため息と共に立ち上がった。

「まあ、言いたくないならいいですけどね...もっとも、いつかは話してもらいますけど」

「あはは...考えとくよ...」

 笑いつつも、男の内心は安心してほっと胸をなでおろした。


「そういえば、最近全然外出てないよね」

 う、と女は言葉を詰まらせる。否定のしようがない、紛れもない事実だからだ。

「まあ、それは...ハハハ...」

 乾いた笑いしか喉から出ない。完全に相手から目を逸らし、一口茶をすすった。

 いや、出ていますよと嘘をついてもすぐにバレることはわかっていた。相手は神であり、この山の管理者。最初にも言っていた通り、この山の隅々まで把握できるのだ。言い逃れも嘘も通用しないだろう。

「なんか外に出たくない理由でもあんの?一回出たときに熊にでも襲われた?」

「いや、熊なんかいるわけないでしょう...自分でもよくわからないけど、不快なんですよ。雪が嫌いみたいで...」

「雪が嫌い?」

 欠けた湯呑みに目を落とし、冷たい茶の水面に自らの姿を写した。

「...寒いのが苦手とか?」

「いえ、寒くはないんです。多分、妖怪になってから気温の感覚が麻痺しちゃっているのではと思うんですけど」

「ふぅん...雪は、綺麗だよ。冬の風物詩。この山も麓の人間の里も、この時期はいつも雪が降る。そんな地域で生まれたのに、雪が嫌いだなんて...」

 胸の辺りでじくり、と何かが痛んだ。それは、そのタイミングは、

「雪が、綺麗だから...」

「え?なんて言った?」

「雪が綺麗だから嫌なんですよ...多分。雪を見ると、嫌悪感が湧き上がってきてしまって...」

 ジクジクと心が傷を負う。きっと、天狐が雪を褒めてしまったから、否定するのが心苦しいのだろう、と推測した。


 その様子を見かねた男は、一つ提案を持ちかける。

「じゃあさ...」


「桜でも、見に行こうよ」


 意味を汲み取れず、困惑する女の手を、男がぐいと引く。

「え、ちょっと!どこ行くんですか!?」

「だから、綺麗なものを見に行くんだよ!」

「えぇ!?」

 男が玄関の戸を開ける。

 目に映るは銀世界。あまりの明るさに眉間に皺が寄る。

「桜なんて、今の時期にはどこにも咲いてませんよ!国外にでも行くつもりなんですか!?」

 小屋の前で、女の冷たい手を離す。訳がわからず外に連れ出され、いつかと同じ不快感と嫌悪感が身を支配する。


 男が一本の葉のない木の前で、振り向きざまに笑う。静かに降る雪の中で、赤い衣が揺れる。

「国外に出なくたって、遠くに行かなくたって、見ることならできるよ」

 その赤に釘付けになって、声も出せない女。男は仕上げとばかりに、両手を広げて見せた。


「だって俺、神様だもん」


 ふわりと強い風が吹いた。女は目を開けていられず、ぎゅっと瞑った。


──────────────柔らかい香りが、鼻腔をくすぐる。

 それは懐かしくて、安心して、けれどありえなくて。

 おそるおそる目を開いた。


 チラチラと舞う白と、薄桃色の花弁。

 どうだ、と言わんばかりの顔をする男の背後の木は、葉も花もなかったはずの木は。


「さ...桜が...咲いてる...」


 呆然と見上げて、何も考えられなくなった。

 ただ、綺麗だと、そうとしか思えなかった。

「でも、どうして...?」

 雪と桜が共に踊る。それは絶対にありえない光景。桜が咲く頃には雪は溶け、雪が降る頃にはすでに桜は葉さえ落としているはず。

「だから言ったでしょ、神様だって。...まあ、ただの幻覚なんだけどね」

「幻覚...?」

 女は目の前に落ちてきた花弁を手に乗せようと器の形にした。

 が、その花弁は何もなかったかのように、手の器を通り抜けて落ちていった。

「俺は神だけど、九尾だから。九尾とかの狐類は、幻覚や幻聴の妖術を得意とするの。だから、それの応用...みたいな?」

 少し照れくさそうにはにかむ天狐。曇天の下でも美しく咲き誇る薄桃の群を見上げて、目を細めた。

「...桜も雪も綺麗だ。どちらも、無くしたくない。...こいつらがいなくちゃ、春も冬も迎えられないもんな...」

 風に溶けてしまいそうなほど、小さな声。それは女も聞き取ることはできなかった。


「そんで、どう?桜と雪の組み合わせ。個人的には名案だと思うんだよねぇ〜。...ん?」

 いつもの笑顔に戻った男が、女に感想を聞こうと顔を覗いた。


 そこにあったのは、瞳から雫を零す人間味のある顔だった。


 美しいものを見て感動するなど、記憶がなくとも、女には初めてのことだと理解できた。

「...泣いてんの?」

「っ...!泣いて、なんか...!」

 尋ねられるとなぜか意地を張ってしまう。袖で必死に拭っても、絶えず溢れ続けるばかりだ。

「...こんな綺麗なもの、見たことなくて...少しは、雪も美しく見えて...そしたら、なぜか、自分が、情けなくって...!」

 今思ったことを口に出してみた。相変わらず理由はわからない。

 けれど、それが本心だとわかっていた。


 男はそれを見て、一瞬笑みを消したが、ふっと先とは違う笑い方をした。

「だーいじょーぶだーいじょーぶ。こんなとこに来る人間なんていないからさ。どんだけ泣いても、お前をいじってくる奴はいないよ」

 幼い子供をあやすように、女の少し低い頭を撫でた。

 女はそれに安心してか、さらに涙を零した。


 誰もいない冬の花見は、日が暮れるまで続いたという。


     ◇◆◇


 冬が終わる。


 それを知ったのは、雪が降るのをやめたからではない。

 縁側に座って、いつかの日を思い出していた。

 その日は確かに、今までの辛い季節に比べたら、暑い日だった。

 けれど汗を流して冷たいものを口にしたいと思うまでではなかった。

 気温だけで考えれば。


 晴れ始める空を見上げ、なんてことない平凡な日々を思い返してみた。


 あの日、泣き疲れて眠る女を家に帰してから、少し感傷に浸っては疼く古傷を抑えての繰り返しをしていた。

 何も辛いわけではない。自分は長寿なのだ。『あんなこと』はこれまでも、これからも何十回とあるだろう。

 もはやそんな感覚など、麻痺していた。

 .........麻痺していると信じていた。


 9本もある尾を揺らし、のんきに日数を数える。

 出会ってからちょうど90日くらい。大した記念にもならない日数だ、と心の中で笑った。


 女はそれまでずっと出歩かなかったが、花見をした日から度々外へ出るようになった。

 散歩程度だし、ほんの数分だけだったが、それでも白い世界を歩く彼女は楽しそうに見えた。

 そういえば、と男は思い出す。自分も何度か彼女の家に行ったり、散歩に付き合っていた。

 この山にいる他の妖怪とも時々会ったりしていた。その度に彼女は驚いて黒い瞳を大きく見開いていたな、と思い出しては小さく笑った。


 何百年とこの山の管理者をやっていたけれど、こんなに充実した数ヶ月は久しぶりだ。男は心の中で女に感謝した。当然本人に言うつもりはない。


 やがて優しい風が頬をくすぐった。

 それに合わせて、木の枝が微かに揺れた。

 すでに曇天は消え去り、暖かい日差しの降り注ぐ青が見えた。


 それを見上げる男の視界に一点、薄桃色が入る。


「あっ...」

 思わず驚きの声が漏れる。それは、幻覚ではない。


 紛れもない『本物の桜の花弁』だった。


 考えるより先に体が動く。

 下駄を履いて急いで山を下る。歩き慣れたその道を走った。


 あれから自分は、彼女に教えてやっただろうか。

 ただ怖くて。未来を見据える彼女の目を見れなくて。

 逃げた。現実から目を背けて、今だけを見て、彼女にも今しか見せなくて。


 焦りが思考を追い越す。男は地面を強く踏んで目的の場所へ急いだ。

 なぜ気がつかなかったのだろう。すでに白い絨毯は消えかかっていたのに。

 久々の晴れを見て浮かれてしまったからか?あの子を後回しにして、この季節を待ち望んでいたからか?

 否。知りたくなかったからだ。

 頭の中ではわかっていた。自分がなぜこんなにも怖がるのか。

 けれど、直視したくなかった。


 現実を見たくなくなった。

──────あの日、山火事で何人もの同志を失ってしまってから。


「神なんて、ちっとも万能じゃない。少し長く生きただけで、何もできない。ただ見るだけしかできない役立たずだ」

 あの時、花を落とした桜の前で、自分を罵り、自分を呪い、自分を殺した。

 できることはしたつもりだった。何もできていなかった。

 残った者は皆、優しく声をかけてくれた。それに笑顔で応えた。貼り付けた醜い笑顔で。


 自分が管理者でいいのか。そんなのを名乗っていいのか。

 葛藤を続けた末、どん底の縁で堕ちようか迷うまでとなった。


 それを救ったのが、あの女だった。


 やっとの思いで桜の木の前まで辿り着いた。それはほぼ満開に咲き誇っていた。

 息が荒いことも気にせず、廃屋の扉を開く。そこには誰もいなかった。

「っ!い、いないのかっ!?おい!」

 焦燥感がにじむ声で呼びかけても反応がない。すでに手遅れだったかもしれない。


 家の外へ出て、辺りを見回すも、記憶に残る白い衣は見当たらなかった。

 後悔の念がじわじわ心を侵食する。弱いままだと、責め立てる。

 疲れや暑さが理由ではない汗が額に浮かぶ。諦めてしまいたくない、と男が奥歯を強く噛んだその時。


「そんな辛そうな顔をせずとも、私はここにいますよ、天狐さん」


 聞きたかった声がした。桜の木の影からだった。

「!!...よかった...まだ、いたのか...!」

 男は安堵して、近づこうと足を動かす。

「...申し訳ないですけど、近寄らないでください」

 一歩踏み出したところで止められた。女の姿は男からは見えない。

「...なんで?...なんか、あったの?」

「......もうすぐ...消えるからです」

 男は息を飲む。自分が最も恐れていることが、起ころうとしている。決して逆らえないことが、今進んでいる。

「...天狐さん。知ってたでしょ、このこと」

 女が探るように言葉をかける。怒っているのか、単に聞いただけか。わからないが、男には答え難い質問だった。

「...それは...隠すつもりはなかった。いつか、話すつもりだった...遅くなりすぎて、ごめん」

 男は、今までの飄々とした態度がまるで幻であったかのように俯いて話す。

 それを聞いて、大きなため息が木を隔てても聞こえてきた。

「本当、いつまで経っても、弱いままですね。あなたは...」

「はは...申し訳ない...って、えっ?」

 自分を深く知ったような口ぶりに、驚きが隠せなかった。

「...まさか、記憶が...」

「まあ、おかげさまで」

 明るい声が届く。これから起こることをまるで怖がっていない。

「私、人間だった頃は妖怪支持派のリーダーだったみたいです。それで、反対派の手で家が襲撃にあって、ここに逃げ込んだんです」

 そんな事もあったなぁというような、思い出話をするような口ぶり。今までの彼女とは打って変わってしまったようだった。

「ああ、あとですね、数年前にこの山に火を放ったのも同じ奴らのせいですよ」

 突然消したい過去の事を伝えられ、声をあげかけた。

「あの事件以来、妖怪を受け入れられない奴らの行動が活発になってしまいまして。...本当、悪い事をしてしまいました。あなたたちは、ただ平和に暮らしたかっただけなのに、人間との共生を否定され、住処を追われてなお、それさえも奪われようとしたなんて。...自分の無力さを教えられました」


 女は自分が逃げてきた日を脳裏に浮かべてみる。

 絶えない怒号。明るい家。耳の痛くなるような罵詈雑言。焼け焦げる壁。美しい月。赤く染まる視界。


 いい思い出では決してないが、その日は確かに記憶に残っていた。

「努力して、必死になって、みんなが受け入れられる世界を作ろうと手を伸ばして...そうして掴み取った現実が、こんなものでしかなくて...」

 少しずつ、女の声が震え始める。彼女がどれほど妖怪たちを愛していたか、声から滲んで聞こえる。

「...俺は、怖かった」

 ふと、天狐が口を開いた。その日に確かに感じたあの痛み、焼けた右の腕を掴んで。

「俺は死なない。けど、俺以外の...この山に住んでる奴らは、みんな...ほとんど殺された。...けど、復讐心とかは湧かなかったな。ただ、一瞬見たあいつらの...人間の暗い笑い方に、二度と会いたくないって、怖くなった」

 そこまで淡々と話して、自嘲的な笑いが浮かんだ。

「はっ...この山の管理者がなんだってんだよ...神だからどうだって...誰も助けられてなかったら、こんな肩書きも意味ないじゃんか」

 言葉の自傷。今まで散々やってきたこと。けれど、今までより痛いように感じた。

 女はそれを黙って聞いていた。


 そして、思い立って、透け始めた手を組んだ。顔の前に近づけて、祈る姿勢で。

 記憶がない中、彼は色々なことを教えてくれた。けれど唯一、私の妖怪の種類だけ、教えてくれなかった。

(彼は言った。怖いと。けれど、恐れているのは人間じゃない)

 『これ以上失うこと』。天狐たる彼が最も怖いこと。だから、自分には何も教えてくれなかった。彼が認めてしまうことが怖かったから。


 自分の救いとなった人が、春先に消えてしまうことを。


(私は知っている。自分が誰なのか。それを利用して、あのときと同じ世界を...)

 女は願った。彼から教わった、あの物語と同じように。


「...!」

 ちらちらと静かに散る薄桃に混じり、冷たいものが降ってきた。

 それは、温度を感じられる『本物』───────

「雪...?」

 狐は空を見上げて、目を見開く。

 頰に落ちてきた白は、少し皮膚を冷たくしたかと思うと、何事もなく溶けて消えた。


 その幻想のような光景には、見覚えがあった。


「ふふ、気に入ってくれました?」

 いつの間にか木の背から出てきた女が暖かく微笑んでいた。

 すでに体の輪郭が透過してしまっていた。

「...もしかして、気づいてたの?」

「いいえ。記憶を取り戻したとき、知識を頼りに。寒さに強く、暑さに弱い。そんな妖怪は、雪女しかいないって思いまして」

 女はそれをわかった時、雪に凍えて死んだ自分にはぴったりな妖怪だと思った。

 雪女ならば、雪を降らせることなどわけないと、初めて美しいものに泣いた日と同じ景色を作ってみたかったのだ。


 天狐は、また雪と桜がじゃれ合う姿を見れると思っていなかった。いつものように口角が緩み、いたずらっぽく言った。

「やっぱお前、すごいね。神様みたい」

 男の頬が濡れたのを見て、女は努めて明るく

「一番近くに、神様がいましたから」

 と、透けた顔で笑った。


「ねえ、名前だけでも教えてよ」

「私の名前ですか?...そうですね、私の名前は──────」

「......ん。ありがとう。覚えとくよ...」


      「おやすみ」




    ◇◆◇



 葉がひらりとまた一枚落ちてきた。

 そんな儚い風情を眺めながら、くいと酒を呷る。

 彼の庭は四季全てを感じることができるようになっている。3ヶ月に一回はこうして縁側に座って酒を飲みたくなるのだ。

 とはいえ、3ヶ月に一回だけしか飲まないことはほぼないのだけれど。


 ふと足音の聞こえた右側を見ると、夜空色の瞳の黒猫が、小瓶を乗せた盆の隣まで歩いてきていた。

「ん?どした、一緒に飲む?」

 猪口を少し持ち上げて誘ってみる。猫はにゃあんと一言伝えるだけで、庭を眺めるように大人しく座った。

「付き合ってくれてもいいのに。冷たいねぇ」

 ゆらゆらと揺れる二本の猫の尾を一瞥し、正面を向き直して不満そうに呟いた。


 やがて、風に撫でられて囁く木々の音だけが聞こえるようになった。

 これだけ静かになると、思い出すのはいつも同じ顔だった。


 少し下がった気温も、季節相応の静けさも、ところどころはねた長い黒髪も、溶けて消えてしまいそうなほど白い衣も、何もかもなかったように元に戻った。

 夕焼けに似た山の風景を眺めて、少し前に立てた仮説なんかを思い出してみた。


 彼女が雪を嫌いな理由。雪の降る日に死んだからとも思ったが、なんとなく自分の名前と対になるからではないかと考えている。そっちの方が彼女らしい気がするってだけだが。

 突然妖怪になっただとか、春になったら消えてしまうだとか、わけのわからないことがたくさんあったのに、最後まで笑っていた。嫌いな雪を自ら降らせた、とても不思議な元人間。

 これからの何十年何百年、そんな生き物に出会うことなどないだろう。


「お前もそう思わない?」

 隣の客に微笑んで問いかけるも、にゃんと肯定なのか否定なのか曖昧な返事をしたあと、背後の襖を開け、細い隙間をするりと抜けて音も立てずに閉めた。

「はあ、ほんとつれないねぇ」

 男は猪口にまた酒を注いでぶうたれる。



 冬が来る。


 それを知ったのは、冷たい風が頰を撫ぜたからだろうか。

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桜花と慈愛雪 @Clover2004

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