甘酸っぱいやつ

「あ、あったあった」

 やっと見つけた目当ての本。

 日曜の図書館は昼下がりの生温い空気に包まれている。

 秋口のエアコン温度がそれを後押し。

 硝子窓の向こうには、植えられた緑と足下の白い玉石と、午後の柔らかな日差しが絵みたいになっている。

 高校の図書館よりも少しだけ広い市立図書館は、建て替えられたばかりでまだ比較的新しい。

 毎週通ってやっと手にした探し物が嬉しくて、口角を上げながら目次を開く。

 何となく気になって不意に目線を上げると、本棚の本の開けた隙間の向こう側に、圭介くんがいた。

 本棚に腕組みを乗せて凭れながら、にやにやと私を見ている。

「ゆきじゃん」

 少しだけ小柄な彼は、精悍な顔が毎日の陸上で日に焼けていて、いつもの短髪に今日は少しだけワックスがついている。

 あまりにも突然の現れ方に思わずビクッと身体が跳ねた。

 幽霊にでも出会ったみたいな心臓の音がする。

「な……なにしてんの」

 小声で本棚の向こう側に問いかけると、わりと普通の声量で

「それなんの本?めっちゃ分厚いじゃん」

と返ってきた。

 いつもは学校で制服を着ているから、私服姿の圭介くんは初めて見た。

 チェック柄の濃いくしゃくしゃのシャツが見える。

 案外お洒落なんだなあと思いながら、不意に自分の格好が気になった。

 青の細身のカーディガンに、白と黒のストライプスカート。

 変じゃないだろうか。

「これ、心理学の本」

 閉じて表紙を見せると、げえ、と嫌そうな顔をした。

「俺そんな文字ばっかりのやつ無理」

「そうかな、わりと面白いけど」

 表紙を自分に向け直してまじまじと見てみると、確かに圭介くんは好きじゃなさそうだな、と思った。

「無理無理。なあ、ゆき今日化粧してんじゃん。誰かと待ち合わせ?」

「違うよ、麗奈と来てて。あっちで雑誌読んでる」

 マスカラ滲んだりしてないだろうか。

 急に目元が気になって仕方ない。

「れな?誰だそれ」

「幼なじみ」

「ふーん」

「圭介くんは一人なの?」

「そこで翔太が漫画読んでる」

 指されたほうに振り返ると、なるほど翔太が壁際の椅子に凭れて漫画らしきものを手にしている。

 でも一向にページを捲る気配はない。

「あれ寝てんじゃないの」

「まじかよ」

 日溜まりの中で微動だにしないその姿は、どう見ても昼寝中だ。

 圭介くんは信じられないような様子で慌ててそこを覗き込もうとしている。

「起こしたら?」

 聞くと、少しだけ考え込んでから、なぜか窓の外に目線をずらした。

「いいよ、面倒くせえ」

 場所を変えるつもりはないみたいで、私たちはまだ本棚越しに向かい合っている。

 私、移動しないほうがいいのかな。

 でも特に、話すことないんだけど、どうしたらいいのかな。

「ゆき、学校の時と雰囲気全然違うのな」

 圭介くんが物珍しそうにじろじろと見てくる。

「化粧してるし、髪縛ってるし」

「学校にここまで化粧して行ったら駄目でしょ」

「なんで?わりとみんなしてんじゃん」

「なんか嫌なの」

 わりといろいろ見てるんだなあ。

「ふーん。なあ、明日その頭で来てよ」

「なんで?やだよ」

「いいじゃん別に。それ触りたい」

「は?」

 その髪型って、ただ後ろで纏めてるだけ。

 でもいつもと違う髪型で学校に行くのって、なんだかちょっと勇気がいる。

 触りたいっていうのは多分、圭介くん後ろの席だから、授業中とかつついて遊びたいってことだと思うけど。

「いいけど、ぐちゃぐちゃにしないでよ」

「絶対だぞ。約束だからな」

「うん」

 圭介くんが嬉しそうに笑うと、遠くから派手な靴音が響いてきた。

 多分麗奈だ。

 雑誌に飽きて私を捜しに来たに違いない。

 私がそっちを見ると、圭介くんもその靴音を理解したみたいだった。

「じゃ、ね」

 本棚越しにもう一度圭介くんを見ると、指先だけでひらひらと手を振ってきた。

 私が移動するまで、圭介くんは結局一歩も動かなかった。

「ああゆきいたいた。まーたそんなん読んでんのお?飽きないねえ。ねえねえお腹すいたからさあ、ごはん食べ行こうよー」

 案の定靴音は私に近付いてきて、そこには他の誰よりも派手で誰よりも賑やかな、なんともこの図書館にはあまりに似つかわしくない麗奈がいた。




「俺さあ、卒業したら医者になるんだ」

「そうなの?凄いね」

「だろ」

 圭介くんは一生懸命、人の毛先を使って三つ編みの練習をしている。

 無理に引っ張ったりはしなくて、全然痛くない。

 もうすぐ昼休みが終わる。

 みんな思い思いの時間を過ごしている。

 窓際の後ろの席で二人、机の上には、生物の教科書が出してある。

 背もたれを最大限利用して、頭を後ろに傾けると、少しだけ耳が圭介くんに近づいた。

 体を横向きにして圭介くんの顔を見ると、焼けた肌にくっきりとした白眼が映えていた。

「俺んちさ、実家が町医者なんだよね」

「へえ、そうなんだ」

「でもうちは兄貴が継ぐからな、俺はいらないんだ。だから医者になってどっか遠くで自由気ままに働いて、そんで二度とここには帰ってこない」

「……二度と?」

「二度と」

 言いきった圭介くんは、なんだか真剣だった。

 それは、三つ編みに真剣なのか、二度と帰らないと言ったことに対してなのかは、よく分からないと思った。

「でも、同窓会とかあったら来るんでしょ」

「行かねえよ。誰とも会いたくねえもん」

「……そうなんだ」

 それは私、次、なんて言ったらいいのかな。

 理由とか、聞いてもいいのかな。

「なにしてんだお前ら」

 チャイムがなって、隣の席に翔太が戻ってきた。

「よっしゃ出来た見てこれ、めっちゃきれいな四つ編み」

「「四つ編みぃ!?」」

 よく見るとものすごく細い毛の束が圭介くんの指先に摘ままれている。

 もしかして4本使っての四つ編みだろうか。

「やっべ、ほどきかたわかんねえ」

「ちょっと最低なんだけど」

「あ、先生来た」

「ゆき残念」

「圭介くん最低」

 翔太が来たら圭介くんは声色を上げて話題を変えた。

 私もそのまま前を向いた。

 圭介くんは、時々内緒話みたいにいろんなことを打ち明けてくれる。

 言うなよって念押ししてから、夏休みにバイクの免許を取ったこととか、不良に絡まれそうになって全力で逃げたこととか、卒業後の進路、とか。

 ぱらぱらと教科書を開くと、すぐに先生のどうでもいい世間話が始まった。

 窓の向こうは気持ちがいいくらい晴れていて、校庭にはどこかのクラスが紺色の体操服に着替えてだらだらと歩いている。

 眠気を誘う頭の中でぼんやりとした思考がぐるぐると回り出す。

 私、さっきなんて言ったら良かったかな。

 思ったこと素直に、言ってみたら良かったかな。

 会えなくなったら私は寂しいよ、とか。

 誰とも会いたくないって、それって私も?とか。

 私には、圭介くんが必要かもしれないんですけど。

とか。

 言えないんだけど。

 秘密を教えてくれる圭介くんに、私の秘密は打ち明けられないんだけど。

 だってこの距離が遠くなったら嫌だから。

 女子の中では、近いほうにいるって思うから、この気楽なままでいたい。

 ああこれは布団の中まで引き摺るパターンだなと思いながら、同時にほどけなくなった髪を切るべきか抜くべきか考える。

 意地でほどいてしまうのは、なんだか嫌だ。

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