香 港 良 知

中川 弘

第1話 アジアの風


 戦争って怖い、そんなことを思ったことが、実はあるのです。


 戦争の「せ」の字も体験したことがない者が、そん書き出しで文章を綴りはじめるのですから、おおよそは知れている程度のことなのですが……。


 いつだったか、かなり前のことですが、スピルバーグ監督の映画『太陽の帝国』を見たときでした。

 

 場所は上海。

 主人公は、イギリス人少年。

 両親は、上海の租界で暮らす上流階級に属する家柄(だったかと思います)。

 少年は、自分の暮らす上海に、最も勇敢で、統制のとれた海軍陸戦隊を擁し、あの黄浦江に軍艦を浮かべている日本の海軍に憧れを持ちます。


 いつだって、どこの国だって、少年というのは、強いもの、統制の取れた、しっかりしたものに憧れるのです。


 そして、その軍が、アメリカの真珠湾に、航空機の大編隊を送り、攻撃したことをラジオニュースで知ります。

 少年の憧れは、頂点に達します。

 そして、両親から買ってもらった日の丸のついた飛行機のおもちゃで遊ぶのです。


 折も折、国民党軍が上海を奪回するために、軍を派遣してきました。

 日本軍もそうはさせじと軍を上海に送り込みます。


 上海は、蜂の巣を突っついたような騒ぎになります。


 イギリス租界に暮らす少年の一家も、戦場になる上海にいることはもはやできないと、上海から引き上げることにしました。

 租界にある邸宅をでて、港に停泊するイギリス船舶に行こうとするのですが、街中至るところ、混乱の極みです。


 その最中、少年は母親を見失ってしまい、ひとり、戦乱の上海に取り残されてしまうのです。


 ある日、日本軍の海軍航空隊基地の側で、まだあどけない日本海軍の少年航空兵が模型のグライダーを飛ばしていました。

 少年パイロットとイギリス人少年の二人は、束の間の飛行機遊びに興ずるのです。


 そして、グライダーが飛行場の端にあるクリークのそばに落ち、それを拾いにいったイギリス人少年は、そこに、数多くの武装した日本兵の姿を見るのです。


 わたしが戦争って怖いと、冒頭に書いたのは、そのシーンのことなのです。


 物陰に、身を潜めて、完全武装の兵士がいるその怖さなのです。

 兵士というのは、これから何をするのかなどと分かってはいません。ただ、そこに待機して、命令を待っているだけです。

 そこへ模型の飛行機が舞い降りて来て、そして、イギリス人少年が眼を丸くして、日本の兵士たちを見ている、ただそれだけのシーンなんです。


 スピルバーグは、ところが、その日本兵を殊更恐ろしい風には描きませんでした。ごく普通のそこらにいる人の良い男たちとして、それを映したのです。


 模型飛行機が落ちてくれば、それを手にして、拾いに来た少年に笑顔で手渡すのです。


 少年は姿勢を正して、日本兵に敬礼をします。それは、敬意からではなく、単に、飛行機を返してくれたから、そのお礼にしたのです。


 さて、そんな映画の、微笑ましいシーンがなにゆえ恐ろしいというのかと疑問をもつかもしれませんが、それには、実は、わけがあるのです。


 Our Intelligence has informed us that the Chinese Government is moving troops to the Border with Hong Kong. Everyone should be calm and safe!


 8月14日に、トランプがツイッターでつぶやいた一文です。


 合衆国の情報機関が我らに報じた。

 中国政府は、香港の国境に軍隊を移動させていると。

 皆、落ち着いて、安全を図らなくてはならないと。


 得た秘密を広言し、空港に集って抗議を続ける香港人に警告を発したのです。

 そして、偵察衛星がとらえた一枚の画像もまた公にされました。


 とある競技場に、その軍隊の車両が大挙して整列している写真です。


 スピルバーグが描いたあの日本兵たちには笑顔がありましたが、この写真には、無機物の車両が今まさに、エンジンをふかして、あの時と同じように、デモ隊に突進していく不気味な様が見えたのです。


 あの時とは、天安門のあの戦車が学生たちを轢き、兵士が銃弾を撃ち込んだあれ九す。

 

 今月末の国連総会、そして、秋の国慶節と節目を迎える中国が果たして、実力行使に踏み出すのかは全くの不透明なことですが、あの国のことです、香港人はテロリストだと非難し、加えて、環球時報の記者が、実際は中国政府の特務機関の工作員だったと言いますが、その男がリンチを加えられました。

 こうなれば、正当なる理由づけには十分です。


 果たして、天安門事件は、香港でも繰り返されるのだろうかって、アジアの風が不穏さを増して、私の頬を撫でるのです。

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