6
「さて、と」
咳ばらいをする坂崎さん。この状況を落ち着かせるために、言葉を放つきっかけを図っていたようだった。
「とりあえず、“知っていただきたいキャスト”はそろいました」
「……え?」
「木下君?まだ退職届の受理はできないよ?君が一番わかっているんじゃないか?」
「……そうです、ね」
「君はようやく正気に戻ったんだ。一度人生も“リセット”している。その上で、君が何を守りたかったかを、しっかりと伝えるために、わざわざこの席を用意したんだ」
「……わかっています。自分を見失っていました」
「よろしい」
坂崎さんと木下さんが何を言っているかわからなかった。理解できているのは、落ち着いた木下さんと坂崎さんだけ。ほかの人間は全く分かっていない様子だった。
「皆、座り給え。コーヒーを用意しよう」
「……?」
みんなでソファーに腰を据え、しばし沈黙を待つと、また秘書部の女性がコーヒーを持ってきてくれた。というか、この人はこの人数分用意できている時点で、すべての話を聞いているのではないかとも感じた。
そして、コーヒーを飲んで落ち着いたところで坂崎さんが話し始めた。
「さて、この事件の発端は、一本の電話から始まった」
坂崎さんはしばし言葉を考えているようだったが続けて話し始めた。
「その電話はこうだ。「お宅の社員がうちの人と不倫をしている、と」
木下主任は伏せた。だが
「私は、社内調査をした結果“うちの社員”がかかわっていたことはあったとしても、“うちの社員じゃない者”が主犯であるという結果に至った」
「……え?」
「その事実を、主犯格に最も近しい人間に聞いてみたところ、罪悪感を強く持ち退職を志願してきた。だが会社にとっては失いたくない人材だ。だからこそ引き留めた。すると自身が醜態をさらしたという体で転勤をせざるを得ない状況である“状況”を作ってほしいと提案してきた」
「……」
「それは、自分の身内の問題が会社という組織に迷惑をかけてしまうことを懸念した上での提案だった。本人の意思を尊重して、今回の噂をあえて“部署内”に広めることにした」
「……それは」
木下主任は、伏せたまま顔を上げなかった。
「紅谷君、君には嘘をついていた」
「…嘘…」
「一つは君しか協力者がいないこと、もう一つは君に事実そのものを伝えていなかったこと」
「……」
「その結果、紅谷君とともに木下君も精神的に病んでしまった。それはお互いがお互いを守ろうとした結果といっても他言ではない。計画に呑まれてしまったことは、双方の責任でもある」
「……おっしゃる通りです」
「もちろん、今回協力してもらった黒田君と滝沢君にはきつく言い聞かせた。二人ともやりすぎだ、と。二人とも反省して、それ以降はきみの帰りを待ち望んでいたよ。…そして紅谷君が山之内君と木下君のために頑張りすぎれば頑張りすぎるほど、木下君は本当に自分を陥れたいのではないかと疑い始め、自暴自棄になっていたということ、だ。結果的に計画を始めに立てた自分が落胆したという結果になった」
「……」
「だが、そのこともここで和解し、解決したのはありがたいことだ。だが、今回の件も含め、この事実が明るみに出れば、会社として都合が悪い」
坂崎さんは、言った。
「紅谷君、この件が明るみになるきっかけを会社としては作りたくないんだ。幸い、今会社は穏やかな状況にある。余計な荒波を立てたくない。事実がどうであれ、君には戻ってきてほしくないんだ」
「坂崎さん!」
佐藤さんが声を荒げる。
「お言葉ですが、紅谷さんほど仕事ができる人材はいません!このようなことごときで紅谷さんの足かせになるというのは…」
「佐藤さん」
私は、何も思わない。私は、もう戻る場所がある。
「いいんです」
「…でもっ!」
「私だって、佐藤さんとまた一緒に働きたいです。でも、私がいないことでスムーズになるなら、私はそれがいい」
「…」
佐藤さんは涙をこぼした。
「それに、私には今帰る場所があります。だから、坂崎さん」
すべてのことを聞いて、私は心なしか穏やかな気持ちになった。自分の罪悪感が少しだけ消えたような気がした。
まだ、解決していない問題だとしても、私は少しずつ前を向いて生きていきたい。
「退職して何年も経っていますが…今までお世話になりました」
ソファーから立ち上がり、頭を下げた。坂崎さんは、首をゆっくりと縦に振った。
「だが、肝心なのは今後のことだろう」
山之内部長が重い口を開いた。
「ええ…紅谷ちゃん…。ごめん」
「いいんです。今までのことを繋げたら、木下さんが私のことを想ってくれていたんだなって…思ったら…」
これから、私は変わらなければならない。
だから、一歩ずつ、一歩ずつ、前へ進む。
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