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私はね、あの時のことを忘れたことなんてなかった。


たった一人ぼっちの会社で、唯一心を寄せられたのは紅谷さんだけだったから。









「あの、これよかったらどうぞ」



休憩室で突然手作りのおにぎりをもらった。お昼休憩中に休憩室で新規の顧客のデータベースを目を通しながらエナジードリンクを飲む私に、彼女は笑顔でおにぎりを一つくれた。



「あの……これお昼じゃ」

「あっ!中の具材は梅ひじきです。お嫌いでした?」



いや、具材じゃない。聞きたいのはなぜおにぎりを見知らぬ女にくれたのかってこと。そして私はどちらかというと梅ひじきは好きな具材だということを伝える方が先なのかしら。



「お昼ご飯なくならないの?」

「大丈夫です。私小食なんで」

「あ…そ。じゃあいただくわ」

「はい!頑張ってください!」



そういうと彼女は、頭を下げてその場を去っていく。ラップに包まれたおにぎりをもらい、あっけに取られていると、気づいたら時刻は十二時半。会社を出ないとまずい時間になっていた。



「あっ!急いで出なきゃ!」



資料を慌てて鞄にしまい、もらったおにぎりを潰さないようにと手でやさしく握ったまま会社を出て取引先に向かった。


電車に乗り継ぐ時間にはまだ間に合うため、徒歩で駅まで向かう。その道中にいただいたおにぎりを食べながら歩こうと、歩きながらラップをほどいていく。

口元に持っていくと、ふんわりと酸味が漂う梅の匂い。そして程よくしみこんだひじきの佃煮のような深い匂い。


まともな人のご飯なんて、いつぶりだろう。


営業職で外回りが多い私は、外で営業をして帰社後はデスクワークと、いつも時間に追われる生活を送っていた。そのため、朝は簡単な菓子パンで済ませ、お昼は顧客とランチ。アポがない時には外で適当にファーストフードを摂り、夜はお酒を飲んで寝る生活だった。


激務に激務が重なりこの生活スタイルが定着する。


同居している弟には「姉ちゃんこんな生活送ってるとウエディングドレス着れないよ」と注意を受けた。でも、結婚する相手がいない以上私に女性らしさは必要ないとも思っていた。化粧も営業用にしているだけで、普段はすっぴんで街を歩くほど。


弟も自炊が苦手で、お互いがお互い自炊が苦手だということを知っている母から「とりあえず二人で生活して“生きる”術を見つけなさい」と言われたが、結局自炊は上達しない。唯一していることと言えば、洗濯と掃除のみ。



「新鮮……」



一口、おにぎりを食べた。


途端に、涙がこぼれた。



「働きたく…ないなあ」



愚痴もこぼれた。









「ただいまー」

「お邪魔します…」

「ささっあがって!あれ?剛将まだ帰ってないのかな?」


あの後、早々に外回りを終え、帰社してすぐにあの女性を探した。どの部署かもわからなかったが、たまたまオフィスをぐるぐると歩き回っているところに帰宅しようとしていた彼女を発見し、捕獲するのだった。



「さっきは…ゼエゼエ…ありが…と…ゴホッ…う」

「だ…大丈夫ですか?」

「平気…ちょっと走ってたから…ゴクゴク」



急いで水を飲み、息を落ち着かせた。女性は変なものを見る目で私を見る。それもそう。どうして大の大人が息を切らして血眼になっているのかと尋ねたいのだろう。



「ハアハア…さっきのお礼がしたくて」

「さっきの?」

「……おにぎり」

「ああ!いえそんなお気になさらず」

「すっっっっごくおいしかったんだわ!」

「あ…ありがとうございます!」

「感激して……泣いた」

「えっ??!!」

「だからさ」

「?」



と、もう一度あのおにぎりを食べたいが一心で、自宅に連れ込んでしまったのだ。彼女は紅谷敦子さん。入社二年目の人事部にいる女性だった。



「自炊…の仕方ですか?」

「そう。私弟と二人暮らしなんだけどね、料理だけがどうしてもだめなんだよね」

「なるほど…」

「家でもまともなご飯作ったことなくてさ」

「そうなんですか?全くそう見えなくて驚いてます。私勝手に苦手なものはないって思っていました」

「そんな完璧超人じゃないよ~営業は別だけど」



と、他愛のない話で盛り上がった。


こうして人と楽しく話すのは何年ぶりだろう。アルコールもなく、簡単なスナック菓子とジュースで心が休まるほどの会話を楽しんでいる不思議。



「さて…」

「?」

「せっかくこうして私、佐藤さんの家にお邪魔させていただいたのですから、何かおつくりしましょうか?」

「えっ?!いいの?!」

「もちろんです!何がいいですか?」

「和食!あと肉じゃが!」

「はいはい」

「なんかお母さんみたい…」

「私、こう見えても佐藤さんの年下ですよ」



笑いの絶えない、そんな楽しい時間を過ごした。ちょっとしたきっかけから、こうして紅谷さんと出会うことになる。この日から親しき友人として、お互いが空いている日に食事を楽しんだりすることが増えた。


私にとっても、激務の励みになった。




そんな矢先、私は出張の辞令が降りた。


「出張かあ」

「二年って短いようで長い…あれ?長いようで短い…」

「どっちもどっちだよ~。あ~紅谷さん一緒にいく?」

「行きません」



出張の辞令が降りてすぐ、紅谷さんと一緒に近くのバーでお酒を楽しんでいた。寂しさを紛らわしたい。そして、仲良くしてくれている友人とのしばしのお別れは…



「辛い」

「やめるわけじゃないんだから、それに戻ってくるんですから我慢してください」

「うう…」



紅谷さんは私の頭を撫でて「よしよし」という。


でも、酒に呑まれている私は気づいていた。



「最近、お弁当持ってきてないの?」

「あ……そうですね」



ここ最近、会社帰りに待ち合わせをしていると、いつも持っていた保冷バッグを持っていないことが度々あった。あれだけ料理が大好きな紅谷さんが珍しいなとも思ったけど、外食に凝っているのかなとも取れた。



「最近…ちょっと外食にはまっていて」

「そ……っかあ」



ここ最近紅谷さんの元気がない。何だろう、初めて会った時のはつらつ感が心なしか消えているような気がした。最近仕事が大変なのかな。



「もし」

「…?」

「何かあったら私に言いな」

「…はい」



頭をさすってくれていた手を放し、グラスの手前に手を置く。紅谷さんの視線は少しだけ思い詰めた人がする目をした。だが、すぐに視線を私に戻し笑顔を見せた。

はにかんでいるようにも見えて、悲しみをこらえているような顔。



「でも、何もないです。…私も寂しいので、すぐに帰ってきてくださいね」



それが、紅谷さんの会社にいた頃を見た最後の姿だった。







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