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「お願いします」
「ありがとう、ところでさ」
申請書類を渡した私の手をさするように握ってきた。汚らわしい手で触るな。私の手を触っていいのは佐藤様だけよ。
「今日さ、ご飯行こうよ」
「ふふっ…ありがとうございます。今日はちょっと予定があるので。申し訳ありません」
「なんだつれないなあ」
「すみません」
握る手を仕方なく優しく振りほどく。黒田主任のこうした軽々しい感じが苦手、というか嫌い。
デスクに戻り、次の業務に取り掛かる。この席の右側引き出しにある「マニュアルファイル」を開き、次の手順をマニュアルを参考にする。このマニュアルファイルというのがとても有能で、わかりやすくできていることから転属してすぐに、同じ部署の人たちがてんやわんやしていた事態をこのファイル一つで解決できるほどだった。
そして、このファイルを作ったのが前任の紅谷敦子さん。
「(私じゃあこんなマニュアル作れない。こんな有能な人がなんで)」
転属したのは紅谷さんが退職をして半年ほどたったころ。私は総務部にいた。
突然上司に呼ばれて「お前、確か社労士持ってたよな」と尋ねられた。持っていることを伝えると、早々にその場で上司が社内電話で誰かに話す。そしてその一か月後に人事部への転属が決まった。
転属してすぐは大変だった。人事・労務関係の知識があっても手続きや業務内容の所作はその会社によって違う為、経験者に聞かない限りまるで素人同然。
転属して一日目には「もうわかるよね」と滝沢さんにどっさりと資料を渡され、書類の処理を任された。何を聞いても「担当じゃないから」とあしらわれたことで焦りを感じた転属二日目。たまたま引き出しを開けると「マニュアル」と書かれたファイルを見つける。
そのファイルを開くと、わからないことをすべて記載したもの。とても分かりやすく書いてあり、細かくアドバイスも書かれていた。
このおかげで、私は人事部で“動ける人”となった。そして高々と“俺の可愛い部下”といっていた黒田主任に嫌悪感さえ抱く。全く何も知らなかった奴が何を言ってるんだと、内心鼻で笑っていた。
「風間ちゃーん」
パーテーション越しで手を振る山田。
「…何?今いそがしいんだけど」
「んもうっ!つれないなあ」
「佐藤さんは?」
「いつも風間ちゃんは佐藤さん佐藤さんって」
「当り前じゃない。愛しているんだから」
「俺にもその愛を向けて」
「山田あああ!何さぼってるんだ仕事しろおおお」
隣の経理部の先輩にさぼっているのがばれたのか、彼はパーテーションの影に「ああっ」という気持ちの悪い声を発しながら消えていった。
ああ、しつこい。
そして業務に戻る。デスクの横で爪をいじっている滝沢さん。もうそろそろ仕事しましょうよ。そして前には黒田主任が一応仕事をしているように見えても、どうせネットを開いて遊んでいるのだろう。
山之内部長は、この光景を見て何も思わないのだろうか。
総務部にいたころ、朝礼で人事部の木下主任の当然の転勤発表に驚いたが、それよりも木下主任の穴を誰が埋めるのかという話題で持ち切りになった。
当時は、紅谷さんが適任だと思っていた。人事部の中でも期待されていた人材で、特に入社数年にして新人研修の担当になったあたりで他の部署の人からも評判が高かった。私も入社一年目で研修を受けたとき、後に初めて研修を受け持った人だったと聞いても信じられないほど、研修内容も適格で分かりやすかったのを今でも覚えていた。
そして、あの時も。
過去のことを考えながら、静かに業務を終わらせた。就業まであと一時間ほど。
「風間」
「はい」
「ちょっといいか」
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