3

 

「で、そこから俺たちが紅谷さんにお礼を言おうとしたら、人事部の黒田さんが“僕が担当に変わったから”って。あ、黒田主任ですね」

 


終業後、会社の近くの居酒屋に経理の山田君と着ている。彼はお酒が入っても素面の時と変わらずおしゃべりである。

 


「ありがとう。つまり紅谷さんは、そもそも何もやっていないってことた」

「そうなんです。結局あの後俺らは何度も紅谷さんと話そうと思ったんですが、ことごとく人事部の人たちが間に入って、結局最後にカウンター越しで話せたぐらいだったんですよね」

「カウンター越し?」

「あまりにも不穏な様子…といいますか、紅谷さんと話すことができない以前に、紅谷さんの人柄がガラッと変わってしまったように見えて…。あまりにも心配だったんで、俺ら同期で人事部の人たちがいないのを見計らって、デスクに座っている紅谷さんに話しかけたんです。そしたら、紅谷さん俯いた様子だったんですけど、声に気づいて紅谷さんこっち見て、すごく驚いた様子だったんです」

 


山田君は、ビールを一口飲み、塩漬けキュウリをひとかけら口に放り込んだ。ぼりぼりと音を立て、もう一度ビールを口に含む。



「そこで、やっと話せることとか、お礼ができるとか、いったい何があったのかって色々聞きたかったんです。そしたら」

「そしたら?」

「まわりをきょろきょろ見て、カウンターに小走りで近づいてきたんです。そして“もう話しかけないで”と」

「……」

「もちろん反論しました。なんで紅谷さんがこうなっているのか理由がわからなくて、紅谷さんも最近様子がおかしいし、俺ら紅谷さんの力になりたいって伝えました」

「…ちょっとまって。君たちと紅谷さんとの接点って研修だけだったんじゃないの?」

「そうなんですけど、当時俺らの周りの上司とか先輩って、素っ気ない人ばかりだったんですよね。何聞いても教えてくれないし、適当に返事されるし。そんな中で、研修の時も、俺らの退職届の時も、親身になって話を聞いてくださったんです。俺ら、たったそれだけでも嬉しくて。同期の中であまりにも嬉しくて泣いちゃったやつもいたぐらいですよ」

「そういうこと……」

「だから、俺らだって紅谷さんの力になりたかった。その時の紅谷さんの様子といったら、挙動不審で周りの顔色を窺って。俺が隣の経理部に移動になってからは、パーテーション越しでも紅谷さんを侮辱するような発言がよく聞こえてました」

 


山田君が悔しそうな表情を見せる。

 


「俺にもっと勇気があれば……」

「まあ、新人のうちじゃあ誰も反論できないわ。その気持ちはよくわかる」

「……」

 


山田君も助けたい気持ちがあったのだろう。だが当時は新入社員。自分の立場上行動に移せなかったのだろう。こういう“本音”を話すときだけ、思い付いた言葉を垂れ流すことはなく、考えながら丁寧に話すのだと感心した。

 


大体の話はわかった。


さて、ここからは私が恩を返す番だ。

 


財布から、日本で最も価値の高い紙切れを二枚出した。その紙を、レシートを挟んでいる会計用バインダーと一緒に挟み、山田くんに渡した。

 


「佐藤……さん」

「釣りはいらねえ」

「かっけえ」

 


山田君を一人置いて店を後にした。カウンターで飲んでいたから一人酒でも大丈夫だろう。私の経験上、山田君はこの後泣く。申し訳ないが泣き上戸が苦手である。男の子だから置いていったとしても、あの陽気さで知らない人と絡み酒をするだろう。

 



がんばれ、若人よ。





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