4
「兼業?」
「そう。やってみようと思って」
水族館から帰宅した。疲れていたので母と二人で外食をすることにした。日中お留守番をしていた父は、雄二郎おじさん(悦子さんの夫でユウちゃんのお父さん)と居酒屋に行っている。
自宅から徒歩では飲食店が立ち並ぶ場所から少し遠いこともあり、車で運転をして母と外食をすることにした。行先は、無添加の野菜を取り扱っているという健康食を重視した飲食店である。
ご飯・サラダ・主食など、すべてバイキング方式であり、好きなものを皿やお椀に盛りつけ席に置く。どれも健康食重視の食べ物ばかりで、一度父を連れて来店したときには「少し物足りないな」と言っていた。あくまで個人の意見ではあるが、こういう店は男性よりも女性受けが良い気がする。
「さっき面接を受けた二社から電話があって、二つとも内定をもらったの」
「あら!」
「それで、午前に受けた会社に就業しようと思うんだ」
その理由は簡単だった。
選択ができる自由があることはとてもありがたいことだった。初めに電話をもらったのは、あの日午後から面接を受けた会社だったが、どこかぶっきらぼうに「じゃあこの日に出勤して」という趣旨を一方的に伝えてきた。勘が働くとはこのことなのかと、「少し考えさせてほしい」と伝えると、先方は急に態度を改めてきた。
そして、電話を切ってから、外食先を決めるために一階に降りようとした所、もう一社から電話がかかってきたのだ。
電話を出て、内定をいただけたことを伝えられる。その時の電話先にいた人が、面接時に対応してくださった二人の内一人の方で、この人が「就業されていなかったのですか?」と質問をした人だということは、声でなんとなくわかった。
電話先で、ぜひうちに来てほしいといわれた後、佐藤さんという方は続けていった。
「応募して頂いた雇用形態は正社員ですが、もし長い時間就業することが難しいというお悩みがありましたら、まずは無期限の非正規雇用者としてはどうかなと思いまして」
「お気遣い頂きありがとうございます。ですが御社にご迷惑ではないかと」
「いえいえ。むしろこれほど経験をされている方をお迎えすることが、御社にとっては奇跡と言いますか…ははっ。それで、紅谷さんの様子を拝見したところ、もちろん人柄も弊社に望ましいと面接官でも職場でも話題になりまして。ただ僕も、就業をしていなかった経験がありまして、そのあたりはご無理を働かせるかなと」
「ご経験があるのですか?」
「はい。僕も働きたくないなと思って無職だった時期があったんです。そのあとに就職したのが弊社で、その時の面接して頂いた人が僕の今の上司だったんですが「落ち着いたら正規職員でいいから、とりあえずしっかり慣らしてからはどうか」って、その時言ってくれたんです」
「そうなんですね」
「なので、リハビリというのも兼ねて、紅谷さんが落ち着いたころに正規職員になるというのはどうかなと。あっ!僕の勝手な意見ですけどね、ははっ」
「ありがとうございます」
「もちろん、正社員からの入社でも構いません。ただ、今後も紅谷さんに長く働いて頂きたいという思いがありますので、ゆっくり考えていただいても大丈夫ですよ」
と、電話が終わって返事を保留状態にした。現状保留状態であったとしても、すでに答えは決まったようなものだった。
「よかったじゃない、それじゃあ決まったようなものね」
「うん」
「それで、兼業ってのは?」
「うん、あまり無理はしないようにと思ってるんだけど」
もう一つ、兼業を考えているのが、「ライター」という仕事だった。
就業時間が朝の八時半から十七時まで。土日祝日休みで非正規雇用になると、八時半から十五時になる。夏季休暇・年末年始などの長期休暇を入れて、年間休日百二十日になるという勤務体制であるということを電話口で確認した。
そこで、休日に細々とライターの仕事をやってみたいと思っていた。
「もちろん、大変だとは思う。それに、内定がもらえないと思っていたからライターの仕事から始めようと思ってたの、でも」
「やってみたいんでしょ」
母はそう言って、白身魚を口に放り込んだ。
「頑張りなさい。ただし、無理はしちゃだめよ」
「うん!」
これから、覚えることがたくさんあることに不安がないとは言い切れない。就業することが難しいかもしれない。働いていない期間が長かったのに、急にこんなことをして、無理がたたるかもしれない。また、倒れてしまうかもしれない。
でも、自分が“やってみたい”と思った気持ちを、なんとなく忘れちゃいけない、逃しちゃいけないと思った。
「いただきます」
こんなにも「おいしい」と思える今の生活を、もっと鮮やかなものにしたい。
月曜日。
非正規雇用として「アトリエ・kyouji」に人事・労務関係の事務職として入社することになった。来月の一日より、出勤する。
そして今日、ユウちゃんに紹介してもらったプロデューサーと打ち合わせをするために、名古屋の「サクラビル」の三階に来ていた。
三階にある「株式会社 ゴーウィズ」という出版会社に行く。
受付の方に通された応接室の椅子に座って待つ。
“コンコンコン”
ドアをノックする音がして、席を立った。すると男性が「お待たせしました~」と入ってくる。
「待たせちゃってごめんなさいね、会議が少し遅れてしまって」
「いえ、こちらこそ。今回はお仕事のご紹介を頂きましてありがとうございます」
「こちらこそとんでもないわん。優紀君から紹介してもらった人がどんな人かってテストライティングをしてもらったら、予想以上で驚いたわ」
と、「あらやだお名刺渡さなきゃ!」と、名刺を取り出す。
株式会社 ゴーウィズ エリアマネージャー
小野義経さん。通称:ヨッシー。
「ヨッシーって呼んで頂戴」
顔の前で手を重ね合わせ、ヨッシーさんはそう言った。
「それでね、さっそく依頼のお話をしたいんだけど」
と、ヨッシーさんはホッチキスで止められたプレゼン資料を手渡してくれた。「広告雑誌記事の執筆」と書かれた内容には、ヨッシーさんの会社の記者が取材をした内容を記事として手掛けるというもの。
株式会社ゴーウィズは、女性向け雑誌を刊行している出版会社で、女性向けファッション雑誌「トラベルQ」、愛知県のお得情報を紹介している「ウィズ得」などを展開している。ユウちゃんはこのゴーウィズで取り扱っているオフィス用品の営業担当で付き合いがあるのだという。
そして、今回私が担当するのは、ゴーウィズが新しく刊行した「ティクティク」という、ウィズ得と似た情報を取り扱う雑誌のコピーライターである。
私のライターとしての就業日数は、土日の日中。雑誌の発売は月に一回で、取材した内容が自宅に届いてから記者と電話で打ち合わせをする。そして二日から三日ほどで記事を取りまとめ、それを校閲に回すというものである。
「敦子ちゃんが土日に執筆すると考えると、大体平日のどこかで録音データとか送れるようにしておいて、そこから月曜日までに記事を書ききれるかなって」
「はい、テストライティングの文字数前後ぐらいでしたら、その日にちで大丈夫だとおもいます」
「それじゃあこの仕事の流れで決まりね。あとは納品してもらうタイミングを依頼する記事の本数によって、報酬とか平日納品日とかを調節してもらう形で良いかしら?」
「はい、問題ありません。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ!期待しているわよ~!」
と、本当は質問してみたい小野さん本人の事情についてを伏せながらも、ライターの仕事は来週の金曜日より始まる事となった。
自宅に帰り、まず初めにやらなければならなかったことは、パソコンを起動することだった。ネット環境はすべて整っているため、自宅にあるパソコンで仕事をするための準備をしなければならない。
自室にあるパソコンの起動スイッチを押そうと人差し指をボタンに添えた。
「・・・・・」
引きこもっていた期間は、たった一・二か月程度だった。玄関で倒れてから部屋を出ず、ただ生きるために買い物を通販でしていたころの生活は、感覚的に“たった一・二か月しかたっていなかったんだ”と思った。
その生活で、欠かせなかったのがパソコンだった。買い物をするときも、ゲームをするときも、何をするときも必ずパソコンの前に座りこんでいた。
怖い。
ボタンを押す自分にためらう。
「仕事がしたい」
「自分を少しでも変えさせて」
「変わりたい」
自然と出てきた言葉で、自分に勇気を自分でかけた。
そして、ボタンを押した。
カチッと、言った。
動かなかった。勇気を押したスイッチは、カチッといったもののボタンに光の色がつかなかった。疑問に思い、何度も押したがつかない。電源は入っていた。
そこで、急きょパソコンを購入する事態となる。デスクトップのパソコンを購入し、そこから接続して今。
私の、引きこもりの軌跡は跡形もなくなり、代わりに新しいパソコンを迎えることとなった。
先ほどまでの私事は、思い返すと恥ずかしいというか、時間を戻してほしいと願ってしまうばかりだった。
「あ、そうだった」
ユウちゃんに、仕事の打ち合わせが終わったことと、お礼を伝えるためにメッセージを送った。
「お疲れ様。
無事、打ち合わせ終わったよ!
ヨッシーさん、面白い人だね笑
来週の金曜日から受注することになったの
がんばる!本当にありがとう!」
すると、すぐにメッセージがきた。
「おつかれ!
義経って呼ぶと、マジ切れするから気を付けてね笑
がんばれ!あと飯いこ!腹減った~」
メッセージを見て、クスッと笑う。
「少しずつ、変われるかな」
母に、「ユウちゃんとご飯行ってくる!」と言い、そのままの恰好で少しだけ化粧を直し、玄関を開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます