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一人暮らしをしたきっかけは、就職先が実家から通勤するには少々不便な場所だったから。

 

大学在学中の就活でようやく内定をもらい、卒業と同時に就職をした。社会人一年目は、業務内容を覚えることに必死だったり、初めての一人暮らしで慣れない家事に追われるなど余裕のない生活を送っていた。二年目になると、少しずつ両立することができてきて、心にゆとりをもつことができていた。

 


辞めたきっかけは、些細なことだった。

 


就職して三年目、思いもよらないことが起こった。そこから職場が居づらい環境と化した。些細な出来事に加えて絶妙なタイミングが私を窮地に追い込んだ。このころから、職場を少しでも離れようと外食を摂るようになり、弁当を持っていくことを辞めるようになる。

 

就職して四年目、仕事の妨害に合う。三年目から話しかけてこなくなった同僚が、あろうことか私に自分の失態を押し付けることから始まる。上司に身に覚えのない叱責を食らい、反論すらしない私を見た同僚は次々と私に失態を降り注いだ。これも、上司の見えないところでやられてしまい、何度も叱責を食らううちに一従業員としての信頼すらなくなってしまった。

 

五年目に差し掛かる四月には、軽作業の仕事、つまり雑用であったりサポート業務しかさせてもらえなくなっていた。


その仕事すらも、覚束なくなっていた。失敗を重ね、上司に叱責を食らい、同僚には白い目で見られた。それでもそこにいなければならないと自分に言い続けて一か月を過ごした。

 

精神的に追い詰められていたことも知らない私は、気づけば何も食べずに過ごす生活を送った。いつものように出勤する為、玄関のドアノブに手をかけようとしたら激しい腹痛に襲われ、玄関で嘔吐をした。だが何も食べていない私の胃から出る嘔吐物は、唯一摂取していた水と、少しだけかじっていた期限が切れていたとも知らずに無理をして食べようとした菓子パンだけ。何度も吐こうとする身体から出そうにも何も出てこない状態が、一日中続いた。

 

玄関に伏せ、思うように動かない身体を起こそうにも言うことを聞かず、そのまま無断欠勤をした。一日中玄関に居続けた。玄関先に投げ捨てられていた私のスマートフォンには何一つ連絡はなかった。次の日も同じ症状に襲われて休むことを余儀なくされた。そして、そのまま会社を辞めることとなる。



在籍期間:五年と二か月。

 

そして、無職になった。







「変なこと思い出しちゃった」

「ん?なんか言った?」

「ううん、何も」

 

ティーポットにお湯を注いでいた時に、昔のことを思い出してしまった。

 

キッチンでローズティーを淹れようと、茶葉にゆっくりと注ぐように適温に冷ましていたお湯を注いでいた最中に脳裏をよぎった。

 

お湯を入れる手がわずかに震える。

 


「どうしたの?」

「…あっつ!」

「あら、アッちゃん大丈夫?」

「平気!ありがとう」

 

緊張のせいか、普段あまり思い出さないことを急に思い出してしまった。ごまかすために咄嗟に思い付いた“熱湯の所為”を小さく演じるため、お湯を注ぐ右手を左手でさするように淹れる。そのお陰で小刻みに震える手が収まった。

 


「わるいわねえ、急におしかけちゃて」

「いいのよいいのよ!アツにとっても気晴らしになるし」

「なんかすみません」

「いいのよいいのよ!アツもユウくんに久しぶりに会えるわけだし」

「まあ、久しぶりというかなんというか」

「そうね、おしゃべりしてたの小さいときだけだったわね~」

「そうですね。俺も男だったんで当時は男同士でわいわいやって遊んでいましたから」

 


ダイニングテーブルに三人で昔話を花開かせている姿を横目で見ながら、チョコクッキーを小皿に盛り付ける。さっきまでの緊張は少しだけほぐれ、悦子おばさんと優紀君との再会に、胸をなでおろすような気持ちに浸る。

 


「はい」

「ありがとう」

 


お盆を置き、母の隣に座る。

 


「アッちゃんも大きくなって……本当美人さんになったわね」

「そうでしょう?」

「あらりっちゃん、“私の娘だから”なんて言わせないわよ」

 


どっと笑う貴婦人たち。ああ、いつものことが隣で、間近で行われている。正面に座る優紀君も苦笑いを浮かべる。

 


「本当、世の男性が放っておけないわ、ねえ優紀」

「んあ?そうだな」

「じゃあ、アッちゃんもらっていきましょうか、ねえ優紀」

「んあ?そうだな……って母さん!」

 


またもどっと笑う貴婦人。ああ、こうして“事件”は起きたのかと理解した。優紀君は、困惑した表情を見せた。

 


「急にそんなこと言われたら紅谷が困る」

「あらまあ、真面目にとっちゃって。堅いわ~。これだから“おひとり様”になるのよ~」

「おひとり様?」

 


母と私が同じタイミングで聞き返してしまった。おひとり様に“なった”とはまさか。

 


「優紀、離婚したのよ~」

「……」

「ええっ?!」

 


今日はなんて日だろう。久々に会う幼馴染から、こうも濃厚な情報を入手するなんて。結婚していたことも知らなかったけど、まさか離婚したなんて。情報量の濃さに頭の回転が追い付かない。というか、あれだけ事件と騒ぎ立てていた母も知らなかったとは驚きを隠せなかった。もうちょっと大事な話をしてきなさいよ。

 


悦子おばさんは、クッキーを一つ平らげる。

 


「半年前に急に実家に戻ってくるって言いだしてね、それでどうしたのか聞いたら“離婚することになった”っていうのよ~私もびっくりしちゃったわ」

「それは・・・・それは」

 


またも、母と同じタイミングで唯一拾い上げた「それは」の言葉を発し、紅茶を一口飲む。

 


「ユウちゃんも大変だったわねえ」

「いえいえ、そんな大変じゃなかったですよ。離婚は紙切れ一枚ですぐできますから」

 


そう言い放つ優紀君の目が、曇っていたように見えた。離婚するにも引っ越しとか、精神的にも負担が大きかったはず。なのに愛想笑いを浮かべながらも、こうして半年ほど前の離婚話をとがめる様子もなく、頑張っている。

 


その姿が、何となく「三年目以降の私」に見えた。

 


「お」

「・・・?」

「お疲れ・・・様。よく頑張った!」

 


と、あの時の自分に言い聞かせてあげたかった言葉が浮かび、優紀君に伝えた。

 


「・・・・・」

「あっ・・・」



優紀君は、はっとした表情を見せ、私の目をしっかりと見つめた。そして視線を下方にずらし、俯き、何かをぐっとこらえているような様子を見せた。

 


「優紀」

 


悦子おばさんはにこっと、いたずらっぽく笑った。

 


「久しぶりに会ってよかったでしょ?」

 


優紀君の背中をバンと叩く悦子おばさん。そして優紀君の背中は震えていた。

 


「うん・・・」

「この子、本当は大変だったのにすぐ強がっちゃうから」

 


俯いた理由はよくわかった。涙をこらえていた。


こらえきれなかった涙の雫が、ひざ元に一瞬だけキラッと光り落ちていった。

 


「紅谷」

 


左手で目頭を押さえた紅谷君は、続けていった。

 


「助かる」

 


悦子おばさんはもう一つクッキーを口に運びながら、優紀君の背中をゆっくりとさする。

 

苦しい人にかけてあげてよかった言葉がどうか、正解なんてよくわからない。

 

でも、優紀君が少しでも元気が出たのならそれでいい。

 

と、私の胸がほっこりと温かくなった。

 

母は、横でもらい泣きをしている。

 


「ズズッ……辛かったわねえ。……うちのアツと同じよう……グスッ」

「……えっ?」

 


こうして、私が無職であること、一人暮らし先で引きこもり生活を送っていたことも同時に暴露されていくのであった。

 


母よ。





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