一、アツ子の扉

1

「敦子!手伝って~!」


私は、一人暮らしのアパートを退去し、少量の荷物を持って実家に“出戻っ”た。






 「んまっ!」

 

一人暮らしの部屋に入った母の第一声が、これだ。

 

なぜ、あの時インターフォンについているカメラを覗かなかったのかはわからない。

 

いつもなら、無防備にドアを開けることはなく、通販やネットスーパーを頼まない日は無駄な人的交流を避けるためにも居留守を使い、インターフォンが鳴ってもカメラから人をちらっと覗いては居留守のふりをして、またパソコン画面の前に戻る生活を送っていた。

 

それが、今日は無意識にパソコンの席を立ち、インターフォンを確認しないままドアノブに手をかけて開けてしまう。その“無意識”が、母を“汚部屋”に招き入れるという失態を起こしてしまうのであった。

 


「………」

「………」

 


外の光を遮るための閉め切ったカーテンは一・二個ほど上のフックが外れている。床は所々散乱した使用済みと未使用済みの混在した衣類の数々、いつ洗ったのかわからないシミの付いた枕と薄汚れてしまったシーツ、開封後のペットボトルが床に陳列、唯一この惨劇の中で誇れるのは、食べ物が散乱していないことと、虫が湧いていない(であろう)こと。

 

母が、無言になるのも仕方がなかった。

 

こんな娘に育ってごめんなさい。


 

「……とりあえず片づけよっか」

 


唖然とした表情で立ち尽くす母が、私の顔を見上げて太陽のような笑顔を見せて言った。この惨劇たる部屋を“片づける“といった母は、私に「ゴミ袋ある?」と尋ね、手際よくペットボトルを拾い出した。自分の荷物を置けそうなスペースにちょこんと起き、床に腰を下ろして片づけ始める。

 

目の前に起きていることに理解が追い付かない私だったが、とりあえず「手伝うこと」をし始めようとした。キッチンのシンクに押し込むように入っていた未開封の新しいごみ袋を引っ張り出し、母と同じように床に散らばったごみと、衣類をまとめることにした。

 


「暑いわね」

 


母はカーテンを広げ、窓を開けた。途端に部屋中に風が入り込んできた。日中の神々しい日差しが私の目を沁みさせる。目を細くしぼませて染みる痛みに苦痛を味わうものの、風がとても心地よく感じた。

 

こうして風を感じるのも、いつぶりだろう。

 

「よし!」と意気込む母は、衣類を両手でかき分けて担ぎ上げた。その様子を見て、私も片づける意欲が少しだけ湧いた。





 

床が見えるようになったのは、母が私の一人暮らしのアパートに着いてから二時間ほど経ってからのこと。床に散乱していた衣類は落ちそうにないシミに汚染されていたため、生き残っている衣類を選別し、残りを処分することとなった。生き残った衣類を洗濯機にかける。

 

床が見えても散乱しているゴミやチリを取り除くため、掃除機をかけた後に雑巾でふき取った。つい数時間前までの薄暗い汚部屋とは打って変わり、見違えるような清潔感が目の前に広がる。と同時に、部屋の片隅に置かれたいくつものパンパンになったごみ袋を見て、こんなにも部屋にゴミがあったのかと愕然とする。


 

「ほら!おなかすいたでしょ?お母さんこういうお弁当あんまり買ったことないからわくわくしちゃうわ」


 

掃除がひと段落したあたりで、母が近くにあったコンビニで昼食を買ってきてくれた。買ってきたお弁当を袋から出し、私に手渡してくれた。時刻は午後一時。世間で言うお昼時であった。もちろん、先ほどまでの私には、こんなお昼時なんて感覚もなく、唯一まともな食事といったら気が向いた時にキッチンで適当に切って炒めた野菜炒めをつまみながら食べるだけだった。

 

「おなかすいたわ。早く食べちゃいましょ」

 

待ちきれないとばかりにお弁当の蓋を開けた母。「五穀米弁当」に目を輝かせ、割り箸を早々に割り「いただきます」と食べ始めた。

 

私も同じお弁当を買ってもらい、蓋を開けて割り箸を割った。五穀米弁当、確かにおいしそうだ。五穀米の米に、煮物が添えらている。メインは魚。これは白身魚かな、なんとも健康志向なお弁当。

 

そして、五穀米弁当に箸を入れ、一口。


 

「実家、戻ってくる?」


 

母の言葉で気づくこと。


それはご飯が「おいしそう」と久しく感じていなかったことと、無性に「帰りたい」と思っていたこと、そして、今現在涙を流していたこと。

 


「・・・うっ」

「辛かったねえ」

 


母は私の肩をやさしく撫でおろしてくれた。私はお弁当を握る両手がままならず、その場で嗚咽を繰り返し、声にならない声を上げて泣き続けた。

 


「・・・うっ・・・っうっ」

「うんうん」

 


いつも母は、私が辛いときに深く聞くことをしなかった。不思議だったのは、小さい頃から辛いことがあればすぐに気づいてくれて、何も聞かずに元気をくれようとしたこと。絶妙なタイミングで、いつも勇気をくれたこと。


 


御年二十八歳。無職。紅谷敦子。

 

ここで、実家に帰ることを決心した。





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