めだまのはなし

 午前3時、自室のデスクでパソコンに向き合いカタカタとキーボードを叩く。締切間近のレポートのため、まだ眠るわけにはいかない。しょぼしょぼとする両目に目薬を点し、濃いめに淹れた珈琲を飲もうとした、のだが。

 血走った目玉がひとつ。

 ぷかりぷかりとマグカップに浮いていた。

「……」

 言い訳させてもらえるならばその時の私は普通ではなかった。より詳しく言うと連日の寝不足で判断能力が鈍っていた。

 おもむろに先程使った目薬を手に取り、蓋を外してマグカップに一滴。充血した眼球に染みわたるうるおい成分。

 うむ、と頷いて私は作業に戻った。明日……というかもう今日、昼12時までにはこのレポートを提出しなければならないのだ。大まかには書けたのであとは参考文献を整理して誤字脱字をチェックしてから提出だ。あと一息、頑張ろう。

 目玉からは戸惑いが伝わってきた。それはそうだろう、私だって逆の立場なら戸惑う。しかし本当に構っている暇はなかったのだ。同じく充血した目玉のよしみで許してほしい。

 それからしばし。

「終わ!った!!提出!!!」

 書き上げたレポートを添付したメールの送信ボタンをぽちっと押して、ミッションコンプリート。午前5時のことだった。

 そのまま糸が切れたように崩れ落ちて眠りについた私は、目玉のことなどすっかり忘れていた。




 寝落ちる寸前に設定したアラームのけたたましい音に起こされたのは11時過ぎ。6時間ほど眠り続けてだいぶすっきりとした頭にて。

 目玉……あったよね?

 そろりとマグカップを覗くも、冷めた珈琲が半分ほどたぷたぷと揺れるのみ。寝ぼけて見間違えたんだろうなとマグカップを流しに運び洗う。目玉が入っていてもいなくても、目薬は滴下してしまったので念入りに。洗剤をすすごうと蛇口を捻り、何の気なしに排水部に目をやった。

 そこにあったのは、暗がりからこちらを伺う目玉。昨晩よりも心なしか充血が改善しているような。

 しかし時すでに遅く、洗剤混じりの水が吸い込まれていく。目玉は恨めしそうな雰囲気を纏ったまま、瞬きの間にふっと消えた。

 眼球に洗剤は痛かろう。すまないことをしたなと申し訳なく思ったが、よくよく考えてみれば他人の家の流しに断りもなく転がっている時点で想定されてしかるべき事態ではなかろうか。そういうわけで、気にしないことにした。




 今日の講義は3限から。昼食を食べてから家を出ることにして、昨日の残りのスープと冷凍のご飯をレンジであたためている間に、スクランブルエッグを作ろうと卵を割る。

 ころりと転がり出る充血した目玉。

「……目玉焼きかな」

 目玉は怯えた雰囲気を漂わせて消えた。

 卵の中身、返してほしい。

 仕方なくもう一つ割ったら双子だった。そういうことじゃない。スクランブルエッグは美味しかった。



 講義は終わって夕暮れ時。家に帰る道すがら、無性にアイスを食べたくなったのでコンビニに寄った。アイスは最後に選ぶとして、ふらふらと店内を回る。最近のコンビニは色々と売っていて見るだけでも面白い。いかの塩辛に惹かれたり缶詰のビーフシチューを眺めたりしつつ、ふと目に留まったのは飲料コーナーのタピオカミルクティー。流行っているのは知っていたが、実は今まで飲んだことがなかったのだ。一度飲んでみようと思いひょいとカゴに入れ、次いでバニラアイスを選んで会計を済ませた。

 家に向かって歩きながら、小腹が空いたもので少々行儀は悪いが先程購入したタピオカミルクティーを飲む。つるつるもちもちしているタピオカがころころと口に転がり込んでは喉を滑り落ちていく感触はなかなか楽しい。三分の一ほど飲んだところで、タピオカはどれほど残っているのだろうと透明なカップの側面を眺める。

 目が、合った。

「……、」

 無言で家路を急ぐ。幸い3分かそこらで家に着いた。流しにカップの中身を空けるとタピオカに混じって転がる目玉。

視線を合わせ、じとりとねめつけて、

「食べ物に混じるのは、許さん」

 我ながらドスの効いた声が出た。目玉は小刻みに上下している。もしかして頷いているのだろうか。

 しかし見ているこちらの目が痛くなりそうなほど充血している。ミルクティーに浸っていたのだ、当然だろう。どうにも気になってしまったため生理食塩水を作ることにした。作り方は簡単、1 Lのペットボトルに1 gの食塩を入れて水を目一杯入れる。本当は0.9 %なんだけれど、まぁ簡易なものだから良いだろう。とぷとぷと生理食塩水をガラスのコップに湛えたところ、瞬きした少しの間に目玉がぷかぷかと浮かんでいた。気持ち良さそうな雰囲気が漂ってくる。たとえて言うならば、温泉の広い湯船に浸かったときのような。


「塩加減は如何ですか」


 つい声をかけるとくるりと一回りした目玉が嬉しそうに上下する。良い塩梅か、それはよかった。


 しかし、だ。何だって付きまとうんだろうかこの目玉。というか何をしているんだろう私は。少々我に返って遠い目をしながらポーチを探る。ちょっと目玉を見すぎたのか目が痛くなってきた気がするのでスッキリしたい。

 そう思ったところで何というかこう、きらきらとした視線を感じる。主に手元に向かって。

 そこには目薬。昨晩のものとは違う、少しスーッとするタイプだ。

「これがほしいの?」

 思わずそう問うと、小刻みに上下する目玉。

 そうか、やたらと私の周りに出現したのは目薬が欲しかったからか……。どうやら最初のあれに味をしめたらしい。

 懇願の視線に負け、コップに浮かぶ目玉に目薬を点した。

 先程にも増してくるくると回って嬉しそうにする目玉。うっかり可愛く見えてきてしまったぞ、私にも目薬が必要だろうか。

 しかし今更だが、この瞼も眉もない目玉だけの存在がこうも器用に感情を伝えてくるのはどういった仕組みなのだろう。目は口ほどに物を言う、とは言うがこういうことではないような気がする。

 何だか疲れてしまったのでコップは直接日の当たらない窓際に置いて、日常に戻ることにした。冷蔵庫を覗いてありあわせのもので晩御飯を作って食べ、洗い物をして風呂にはいる。そうしながら時々窓際のコップに目をやったが、いる。まだいる。ずっといる。余程お気に召したらしい。

 何度伺っても代わり映えせずぷかぷかくるくるとしているので、もう気にしないことにした。そうこうしているうちに日付も変わる、明日は朝から講義だし寝てしまおう。ベッドに潜り込んで窓際に視線をやったところ、目があった。

「おやすみなさい」

 いや、つい挨拶してしまったが何を自然に受け入れているんだ私は。……しかし出現期間で言うと最長記録だ、な、……、


 気付いたら朝だった。なんという快眠。仮にも得体の知れない物体(目玉)とひとつ屋根の下だったというのに。何なら普段より明らかにすっきりとした無理のない目覚めだった。我ながら肝が太すぎないだろうか。

 ベッドから降りて窓際のコップに歩み寄る。いた。何となくそんな気はしていた。昨晩と変わらずぷかぷかくるくるしているのだがしかし、心なしかドヤ顔をしている気がする。あるのは目玉で顔は無いのだが。


 ……もしや、この爽やかな目覚め。


「あなた、何かしてくれたの?」


 訊ねたところ、先程よりも目玉の誇らしげな雰囲気が増して上下にちゃぷちゃぷしはじめた。なんと、まさかの快眠グッズなのか。すごいな目玉。見た目がちょっと難ありだが、このすっきりとした目覚めが得られるならそのくらい幾らでも目をつぶろうじゃないか。目がゲシュタルト崩壊してきたぞ。それはそれとして、何かを期待する視線を感じたわたしは少し笑って小さなボトルを手に取った。

「よく分からないけど、ありがとうね」

 ぽたり、と目玉に目薬を点しながらそう言えば、目玉は嬉しそうにくるくると回ったのだった。





 以上が、少し変わった日課を始めることになった理由である。なおこの日課は今も続いている。かの目玉は寝る前にも点せるというそこそこお高い目薬が好みらしいが、そんなものばかり毎回あげられない。学生の懐事情を慮っていただきたく。とはいえ1日二度、夜寝る前にはそのお高い目薬を、朝起きたときはすこしスーッとする目薬をあげることにしている。日々の目薬と毎日取り替えている生理食塩水のおかげか、今や初対面で酷く充血していたのが嘘のように透明感のある潤いアイである。


 ちなみに目玉の日常だが、いつもコップにいるわけではない。どうやら昼間はどこかに出掛けているようで、空のコップが残されている。どこに居るかは知らないが、日々色々と学んでいるような気配を感じる。というのも、少し前から私がレポートや課題をしていると、誤字脱字などのチェックをしてくれるようになったのだが、ここ最近になって以前はスルーしていた英文やグラフまで添削してくれるようになったのだ。間違っていたり不自然だったりすると、釈然としない……とでも言いたげな視線を飛ばしてくる。たいへん助かるが原理は未だに分からない。分からないがまあ良いだろう。


 今日も私はすっきりと目覚めては、ガラスコップに浮かぶ目玉におはようと声をかけ、目薬をぽたりと点す。

 ところで、もはやどうでもいいことではあるんだが。これは、誰の目なんだろうな。

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