地上千五百メートル、蒼穹に最も近いとされるこの街のシンボル――セントリアタワーの屋上に彼はいた。

《フルオートマティック・ナビゲーション・システム》《FANS《ファンズ》》

　起動準備開始。衛星とのコンタクト、現在地確定の認証が必要です。世界個人特定暗証番号および《GLPIN》の入力を要求。……入力成功。認証確認完了。

　現在地

　新東京開発特区/本町/一丁目/一番/一号/Ｃ２２セントリアタワー

　目的地……確定

　新東京開発特区/本町/二丁目/十一番/二十三号/機器設計行使研究所/特別催事ブース

　想定飛行距離

　九百二十五メートル

　目標到着時間……設定

　八時五十八分

　時速十一・一キロメートルで飛行を実行します

　彼――世界焉至は、彼女――巫照美から受け取った飛行用機器（フライングデバイス）の諸設定をし、集合場所である機器設計行使研究所へ向かっているところだった。

　先程から機器内人工知能から彼の脳の感覚野へと電波で発されているガイド音声は、旧式の機器から大幅な進化を遂げ、今や中に人が入っているかのような音となっている。“音”と言ったが、もはや音などという次元ではなく“声”とも言える。しかし、未だ改善点は残っている。

　それは、感情が乗っていないこと。無感情さが、真顔で言っている感じが否めない。冷ややかな、淡々とした、無機質な感じと言うのが正しいだろうか。

　そんなことはさておき、彼らは今、飛行用機器で目的地へと飛行して向かっている。しかも、腕装着（アームウェアー）。スマートなフォルムと特殊技術（テクニック）が要求される操縦方法から、一世を風靡し、腕装着趣向者（マニア）専門店なるものまで誕生したくらい人気のあった型。

　しかし、今は世間の熱は冷め、趣向者だけ取り残された状況となっている。そんな腕装着型飛行用機器で向かっているのだが、これを渡された時の会話から焉至は彼女と一切話せていない。

　こういう微妙というか、気まずい空気に彼は慣れているのだが、慣れているはずなのだが、今は何故だかそんな空気がとても歯がゆく感じられた。

「ね、ねぇ。君は何科の生徒？ちなみに俺は行使科（エクササイザー）、なんだけど……」

　たまらず痺れを切らし、新入生同士が交わしそうないたって普通の質疑応答へ持ち込もうとする。

「ええ。そうね。私も君と同じ、行使科の生徒よ」

　その瞬間、風が活動を始め、機器の軸が揺らめく。

　彼女の艶美で暗闇より純粋な黒髪が風に煽られ、髪の毛一本単位で細やかになびく。

　その流動性を孕んだ動きに、焉至は飛行中であることをすっかり忘れて見蕩れていた。

　結果、思考が途切れたと機器に判断され、操作能力を失った。

「ほら、もう良いでしょう。目的地に急ぐわよ。ちょっと何してるのよ！そんなに近づかないで！って、思考停止（マインドダウン）！？」

「うわ、うわわわわわわわわわわわ！？た、助けてー！」

　ぼふん。焉至はすんでのところで彼女に抱きしめられ、何とか助かった。一命を取り留めたのは良かったのだが、

「何？どうかしたのかしら。まあ、いいわ。これからは気をつけるのよ！」

　別の意味で危険な状態に陥った。彼はこの十五年の人生で初めて女の子に抱きしめられた。母や親戚のおばさんたちにされることはあったが、従兄弟は全員男、女の子との接点なんて焉至にはろくになかった。だから、どことは言わないが焉至のえんじがもう死んでしまいそうになった。

　女の子の香り。全身から、特にうなじ辺りからふわふわして甘美な芳香。

　女の子の柔らかさ。あらゆるところが柔らかい。ぺちぺちと彼の身の安全を確認する手のひら、太腿、そして何より、たわわに実った双丘。たわわなのかどうかの基準は焉至にはよく分からなかったが、至極の柔らかさだった。

「あ、あぁ。分かった、よ……」

　彼はその言葉を発すると同時に、紅い二つのナイアガラを轟音と共に放流した。ぽくりぽくりと木魚の音、段々と気が遠のいていくのを感じた。

「ねぇ！ねぇ、ね、、ぇ、、、」

　…………

　………

　……

　…

　遂には思考がプツッと途切れた。次に気が付くと、彼は目的地の特別催事ブースと思しき、何やら大規模な四方を打ちっぱなしの石壁に囲まれた空間にいた。

　周囲を確認すると、沢山の新入生らしき同年代の人々。それに、様々な大人たち。きっと、先生方だろうと彼は思った。

　彼の隣はと言うと、新入生ではなく二十代後半から三十代前半くらい？の女性教師が座っていた。目を覚ました彼に気づき、こちらを向いて話し出す。

「あ、気がついたのね！入学式早々大量出血に気絶なんて、しかも機器による飛行中なんて。先生、とってもとっても心配したんだからね！まあ、男の子が女の子に連れられているのも不思議だったけれど……」

　先生は目の縁に二つの透明な水の玉をきらめかせながら、彼の肩をがっしり掴み、前後に激しく揺さぶる。それと一緒に先生も揺れる。先生の双丘が弾けんばかりに上下左右様々な方向に揺れる。基準がわからない彼でもわかった。先生のは、確実におおきい、と。もうこっちが本体でも不思議じゃない。

　そんなことを思いながら、彼は流れに任せて揺さぶられ続けた。この前後動で超高速のメトロノームにでもなったみたいだった。ある程度揺さぶると、先生は落ち着いたのか話を続けた。

「そうだ！紹介がまだだったわよね。ごめんなさい。先生、少し取り乱しちゃって。えと、我が名は美奈川才恵（みながわさえ）。汝の通うこととなる国立新東京開発特区第一高等学校の者共に治癒と安息を与える者なり…… こ、こんな感じでどうかしら？せ、先生、何だか恥ずかしくなってきたわ……」

「それはそうですよ。なんて言っても恥ずかしいことをしてるんですから。恥ずかしくならない方が怖いですよ」

　なんて言おうとしたが、心に留めておくことにした。これを言うと、先生の大人としての教師としての威厳が損なわれかねないから。

　もっと言うと、

「先生。何ですか、それ。厨二病も程があるでしょう。大人がそんなんじゃあ、ねぇ」

　なんてことも思ったが止めておいた。これはあまりにも先生が哀れに見えてしまいそうだったため。

　それに、

「顔をほのかに赤らめて恥じらっている先生が可愛いから、もうすこし見ていたいと思った」

　なんて死んでも言えない。だから、彼は無難にこう言った。

「僕は世界焉至。行使科の新入生です。これから三年間よろしくお願いします。多分、またお世話になると思います。なんと言っても、先生がこんなにも可愛いですから、用がなくても行ってしまいそうです。ところで、僕を連れてきた彼女は今どこに？」

　なんて丁寧かつ程度をわきまえた挨拶なのだろう、と彼は思った。思わず自画自賛したくなるほど完璧らしい。ずっとイメージトレーニングしておいて良かった、と昨日までの努力を振り返りつつ思った。トレーニングの範疇（はんちゅう）を超えた質問もしてしまった、と反省して次に繋げようとするのも彼の真面目さが表れている。彼がひとしきり挨拶を終えると、先生が続けた。

「焉至君ね。もう、焉至君はお世辞が上手ね。彼女については、きっと行使科のところの席よ。そうそう、私たちの少し前ね」

　彼女に多大な被害を被らせてしまったことを素直に謝りたいと思っていたが、今は無理そう。式が終わったら会えるかな。そんなことを頭の隅に置きながら、彼は先生とのやり取りを続ける。

「丁寧にありがとうございます。でも、先生のこと、お世辞なんかじゃないですよ。才恵先生は本当に可愛いです。ほら、そうやって恥じらっているところとか、まさに」

「もう！またまたぁ！」

　才恵先生はぽかぽか俺の肩を小さく叩きながら言った。こんな調子で彼は先生と会話を楽しんだ。その後、彼が携帯機器（モバイルデバイス）で時刻を確認すると、九時半だった。集合時間の三十分後。入学式の開始時刻だ。そう思っていると、会場内に放送でアナウンスが入る。

「貴方方、設計科・行使科・普通科の各七十名。計二百十名は今日、四月一日我等が国立新東京開発特区第一高等学校に入学する訳ですが、準備はよろしいでしょうか。旧式含め、全機器の電源をお切り下さい。準備は出来ましたでしょうか。では、早速ではありますが、入学式を執り行いたいと思います。私は本日司会を務めさせていただきます、本校教頭、樫原秀治郎（かしはらしゅうじろう）と申します。宜しくお願い致します。では、本校校長からの挨拶です。本馬悠一（ほんまゆういち）校長、宜しくお願い致します」

　司会のなんとも強面で声色まで厳（いか）つい樫原教頭の合図で会場が一気に静まり返り、呼吸音さえ消え失せた。そんな中、舞台袖の方から長身美白好青年、眉目秀麗といった印象を受ける人物が現れる。

「えー、今年からこの新東京開発特区第一高等学校の校長になった本馬悠一、二十五歳です。独身です。彼女募集中です。あ、なんかそれっぽいこと言わなきゃな…… えっと、みんな頑張ろう！！」

「「「「「「「「えーーっ！？」」」」」」」」

　一同騒然の校長挨拶は、ものの十数秒で終わった。