ノ参 『疾進スキルアード部隊』

 

 

 

……………




……………




 火国が誇る鋭い爪先は、水国を掴んで締め付ける。

 緩やかに後退しながら、水国は国土を奪われていく。


 表面上、互角に抗っている様には見せているのだ。

 少なくとも新兵などにはそう見えているだろう。

 ただ水国はその時その時に全力を注いでいるのに対し、火国にはまだ余力が充分に残されている。


 しかし以前は此まで火国の一方的では無かったのだ。

 水国のX001隊が機能していた頃は、火国は水国への侵略に攻めあぐね、

 どれ程の兵を駆り出そうとも、水国の切り札である魔法使い達に事如く薙ぎ払われてきた。


 X001隊は、当時魔法使い三塔長でもあった『クレア=ミシェル』が指揮していた最上の隊。

 この隊を主軸とした魔法使い達の強固な連携で、火国の大軍は水の国土に微塵も踏み入る事が出来ないでいた。


 戦を仕掛けた火国の上層部は、予想外のX001隊の躍進には隔靴掻痒の思いだったろう。


 だが、水国の盤石な状態は瞬く間に終焉を告げ、ある時を境に徐々に押され始めた。


 今から二年と前。

 滔々、X001隊が火の軍勢を前に敗れ去ったからだ。


 あのクレア=ミシェルも、その戦にて討たれてしまった。


 何時もと何が違った戦だっただろうか…


 火国が寄越した兵の数は普段と程変わらず、X001隊も普段通りの動きで戦場を奔走していた。

 クレア=ミシェルも、他の魔法使い達も別段体調が悪かった訳でも、アクシデントに苛まれた訳でも無かった。


 唯一、違ったのは、この戦に投入された新顔の火国兵士。


 真黒な鎧と兜で身を隠し、

 漆黒の剛剣が、魔法を、魔法使い諸とも断ち切った。






『ワドゥー』はこの日を境に、水国の中で仇敵となる。

 

 

 



「なあ、お前は昨日も今日も明日も明後日もそうやって兜の中でダンマリなのか?

 いや責めてる訳じゃない。実に良いよ。お前はそれで良いんだから。必要な時に必要な分の戦果を上げておくれ」



 鼻唄交じりに放った声が馬車の中に透き通る。


 しかし声を掛けられた黒兵は、今のも返事を返さない。ただ腕組みして次の戦場を待っている。

 声を掛けたのは上官だ。しかし彼を咎める事は無い。



「それにしても堪らないね。俺みたいな天才が辺境地制圧へ赴かなくちゃいけないんだから。

 こんな田舎臭い場所に来ると火国が堪らなく恋しくなる」



 馬車が行く。現在は水国X005隊が居る地帯からやや北東寄りを走っている。

 何事も無ければ目的地まで後二時間と掛からないだろう。


 この馬車の乗員は馬引きの兵を除けば計五名。

 所属は火国が誇る師団の一つ『疾進』

 今度の戦における総司令とその取り巻き達が乗り合わせている。



「ああ、離れて初めて気付く身近な大切さ、か。くっ、くくくくく!」



 武人とは思えない金色に染めた髪と身体の香り。武具には派手な装飾。そして性格。

 ミハエル=スキルアードは今から生き死を賭けた戦へ赴く人とは到底思えない。


 しかし、これでも彼は少佐の位に就いている。



「あ、あの、…スキルアード少佐、此度の戦における敵兵の資料なのですが、どうか事前に一読を………」



「なら読み上げろよ。気が利かない奴は嫌いだよ俺は」



 一人を除いて、息が詰まりそうな程重苦しい馬車内。


 意を決して開いた口、吐き出した言葉はミハエルにこうしてアッサリと返される。

 しかしミハエルの近衛三騎士その一人であるノアは、思ったよりも邪険に扱われずホッと胸を撫で下ろしていた。


 ミハエルが聞いてくれるだけでも、ノアには僥倖なのだ。



「わ、分かりました。では…」



 用紙を机の上で叩き、ノアは咳払い一つ残し席を立つ。


 ノアの左右には他の近衛三騎士が居る。

 

 彼等はミハエルの性格を知っているので、自ら進んで話を切り出すような真似はしない。

 ノアも出来れば彼等に倣ってそうでいたいのだが、参謀的な位置に居る彼には所詮無理な話。


 迂闊な一言が危険。


 ミハエルの機嫌を損ねる事が一番の恐怖だ。



「先ず敵兵数なのですが、沢山が各所から集って来る形なので確定的な数字が出せません。

 最終的にかなり多くの数になると予想され、水国もそれなりに抗うつもりです」



「無駄な足掻きしてくれちゃって、まぁ…

 一匹一匹が劣る兵を掻き集めて勝負になるつもりでいるのがもうね」



 ヤレヤレとミハエルが手の平で空を扇ぐ。



「確定的な数字こそ出せませんが、それでも我が軍の八千には届かないと言うのが見解です」



「開戦時は五千だ。後続三千はこれに間に合わないから、戦の最中に合流と言う形になるぞ」



 そう口を挟んで来たのは、ノアとは別の近衛三騎士。ゼノ。


 痩身で童顔のノアに対して、偉丈夫な体つき。それに似合った逞しい面構え。

 水国X005隊で言えばウィルグと血色が似ているか。



「そこ、なのですが、少佐。…やはり先に三千を合流させてから臨んだ方が宜しいのではないですか?」



 苦い表情を見せるノア。


 火国も八千もの兵を一挙に動かせる訳ではない。

 一番遅れる三千については見方を変え、保険と言う形になっている。



「良いんだよこれで。五千と言う絶好期にクソマヌケ共が喰い付かない訳がない」



 ミハエルはつまらなさそうに、爪の間のゴミを払いながらこう答えた。


 火国は手筈通りに、五千が揃い次第開戦する。

 三千がかなり遅れていると言う情報は既に向こうへ流れているだろう。


 いや、流れる事を敢えて見逃している。



「俺はノロノロと戦を続ける気は雫程も無いんだよ。

 ゴミの溜まり場を一掃して早々に落ち着きたいね」



 望むのは短期。長時間膠着したりジリジリと攻め削るのは美しくない。

 最短で最大の戦果、それを成する切り札を彼は持っている。


 この話はこれで終い。先のノアの提言は一蹴され『次に行け』とミハエルは目で先を促す。



「で、では次に、注意すべき敵兵について纏めました。

 初めに、この戦で駆り出されるだろうと予想させる『奇術使い』は計六名」



「六人? 十は持ってくると思ったが、やけに少ないねぇ」



「少ないのさ、実際にな」



 反応したのは先程も言葉を交わしたゼノ。

 

 被せるようにして、ミハエルがその疑問に答える。



「危険性から順に

 005隊隊長『アーゲット=フォーカス』

 022隊隊長『テレサレッサ=レスタ』

 022隊副長『メドゥーサ=ヘルヴィア』

 005隊副長『フリシア=アイデルフィアー』

 省略した残り二名とフリシア=アイデルフィアー以外は『三塔』と言う格上の奇術使いです」



 そう言うと、ノアは手元の束から何枚かを小分けして、各人に手渡す。

 他の近衛は受け取り、ミハエルとワドゥーには卓の上にそれを置いた。

 


「筆頭すべきは、この眼鏡を掛けた痩身の男。

 005隊隊長にして今回の敵軍の総司令。名をアーゲット=フォーカス。開戦前から存在する奇術使いです」



 ノアが敵名を挙げる。基本的にこのアーゲットの首を取る事で『疾進』は勝利を納める。

 司令塔を失えば戦など維持出来はしない。

 だからこそ、一筋縄でいかない事は、皆が承知している。



「奇術は『フェイズ』を得意とする様です。

………ただ、その効果範囲や他にどの様な戦い方をするのかは不鮮明です」



「不、鮮明…、どういう事だ? …しっかり調べ上げたのだろう?」



 ワドゥーと共に口を閉ざしていた最後の三騎士も、此で漸く会話の機会を得た。


 滑らか過ぎるミハエルや平凡なノアの声とは違い、こちらは随分と枯れている。

 名は、アーゼ。55だから場では最年長だ。

 やや縦長い顔立ちの右目の顳辺りからザックリと疵後があり、それが多いに目立つ。


 無駄話だが、この三人は何時でもミハエルの側に仕えられるよう中尉の座に留まっている。


 ノアならば、もう少し高い場所も目指せそうなのだが。



「それは勿論。しかし昨今アーゲット=フォーカスは何故か奇術を極力使用しておらず情報が集まらないのです」



 きっとノアは、それこそ血眼で情報を集めた筈だ。

 彼が活躍すればする程、この部隊は勝利に盤石になる。


 だが、アーゲットの情報だけは胸を張って出せる程には完成しなかった。



「成程、ビビッて手の内を隠してるチキン野郎って事だ」



 もしかしたらミハエルの言う通りなのかも知れない。

 極力敵に情報を与えない為に、そういった対応も充分に有り得るだろう。


 尤も実際の所は、彼には想像も付かない理由なのだが。



「ならば尚更、各人アーゲットとぶつかる時は御注意を。

『フェイズ』と言う奇術に捕まると厄介です。人すら操ると言われるぐらいなので。

 五体の何処かが封じられただけでも、戦場では命を落とし兼ねません」



 そう、例えば利き腕の自由を奪われると攻撃が難しい。


 その戸惑いに掛かる刹那が自身を殺す。


 例えば方足が動かなくなると、かなりの制限を乗せられる。


 避ける事も逃げる事も困難窮まってしまう。



「何を心配してるんだか。こちらには『魔法使い殺し』が居るんだから、万が一にも負けは無いんだよ。

 言わばこの戦は如何にして速くアーゲットの首を断つかの話でしかない訳だ」



 その言葉によって、発言者のミハエルを除く全員の視線が一挙に黒騎士に集まる。

 微動だにしないその者は、ただ浅く呼吸を繰り返すだけだ。



「アーゲットについては恥ずかしながら以上となります。

 こいつだけ目を配っていれば他は楽に掃討出来るでしょう。では私からはこれで」



「おいおいおいおいちょっと待て、残りの三塔二人については何も無いのか?」



 ゼノの言う通りだ。ノアはアーゲットだけ注意を促し、他の魔法使いには触れず、話を切り上げようとしている。


 二塔はいいとしても、022隊の三塔二人について何も言わないのは流石に手の抜き過ぎだ。



「ああ、名は一応挙げましたが、022隊については戦に参加しない可能性があります。ちょっと策を講じましたので」



 ノアは手早く手元の資料を整えて脇に抱える。



「策?」



「はい。少佐から一個隊をお借りしました。ボールドネット中尉の隊です。所定の日時に突き止めた022隊の仮宿を襲うよう言ってあります。

 多少の足止めにはなるでしょう。そしてその多少で戦に間に合うかどうか、と言う所です」



 シレっと言ってのける。



「ボールドネット中尉か~…、よく行く気になったなあの人」



 ゼノは頬を掻きながら、顔を気持ちばかり上げる。


 022隊は火国が言う所の『奇術使い』が四人も固まっている恐ろしい隊だ。

 だからなのかは知らないが、隊は他と比べたら圧倒的少数で、それの二倍も持っていれば楽に打ち倒せるように見える。


 そこら辺を使い、上手くノアが口車に乗せたのだろう。



「人聞きの悪い事を考えていませんか? あの方が手柄を欲していましたので、私が道を指し示してあげた迄です」



 ゼノの顔に現れていたのだろうか、考えていた事をノアに見透かされてしまった。



「おーおーこのノア君め地獄への道を示した癖によくもまぁ抜け抜けと………

………それより少佐って確か『ゼロスリー』をボールドネット中尉に差し上げてましたよね?」



 ふとゼノは思い出す。此に来る前、火国の城でボールドネットを見掛けた時、

 彼は腰に、ミハエルの剣である『ゼロスリー』を下げて、鼻唄混じりに歩いていた。


『ゼロシリーズ』と呼ばれる剣は、一定の官級にしか与えられていない言わば秘剣だ。

 それをミハエルが他の者に渡すのは考えられない事態だが、この後直ぐゼノはミハエルに会っているので、謎は即氷解する。



「ああ、あげたよ。ノアの策はとても可哀相だったからさ。餞別って奴だ」



「可哀相って…少佐も私を虐めないで下さい。

 そもそも私は、策の内容と隊を貸して下さいとは進言しましたが、どの隊かを選んだのは少佐自身ですよ」



 少しむくれながらノアが、アーゼとゼノの間に座る。


 ミハエルはニヤニヤと一人笑いながら、



「だってさ、嫌いだし要らないんだもの。彼。

 上辺だけの忠誠心、気持ちの悪い自尊心、今の地位に居続けられると思っている阿呆な慢心、俺より年上だから変なコンプレックスでも持ってるんだろうね、嫉妬臭がもう堪らない。

 そして何よりもそう、顔が美しくないね。岩より酷い醜い面、くっ、くくくくくく!」



 居ない誰かに向けて、ミハエルは饒舌に悪口を巻くし立てる。


 陰湿にネチネチと、彼は濁った言葉を所構わず吐く。


 それは時に気に入らない部下であったり、同格の将校であったり、時には副師団や師団長までも誰かれ構わず、だ。


 よく味方を此まで蔑めるな、とノアとゼノは共に適度に相槌を打ちながら、胸の中で苦々しいものを感じる。


 ボールドネットはミハエルに反感的な態度を取った事など二人の記憶に無い。

 寧ろミハエルには笑顔しか見せていなかった気がする。


 感覚が鋭いのだ。心内で己を嫌っている者への。

 自分から敵を作りにいっている癖に、彼は自分に少しでも嫌悪を抱いている者を嫌う。


 だから本当、兵達の間でミハエルの評判はよくはない。

 嫌いと言うよりは、畏怖の対象。



「そんな彼にね、奇術使い相手に戦うならって事で不要になった『ゼロスリー』をあげたんだよ。

 そしたらアイツ俺に気に入られたとでも思ったのか、嬉しそうに受け取って俺に始めて心の底から礼を言ってたよ。くっ、くくくくくく!

 あん時はもう、公務に手が付けられない程に笑ったね。

 要らない『ゼロスリー』を要らない奴にやった迄なのに

 ゴミをゴミ箱に棄てたらゴミ箱が感謝するってね! く、くくくくくくー―――くくくく!!!!!」



 ノアはボールドネットを心の底から気の毒に思う。


 同じ団内であったが、そこまで親交があった訳じゃない。

 それに彼も負けず劣らず評判が悪い将校だ。


 だが、上官に此まで言われる程ではない。

 仕事もしている。慢心などしていない。彼は地位を守る為に、功績を欲した。


 奇術使い四人なんてミハエルにノア達近衛を合わせても足りないぐらい凶悪だ。結末は無惨に殺されるに決まっている。

 そんな場所へ、彼は逃げる事なく行った。


 頭は足りていない。きっと自分が捨て石にされたとは思ってないだろう。

 それでも、危険である事の認識はあったし充分承知していた筈だ。



(………策を提した私が言える口ではありませんが、願わくば生きて帰って来て欲しいものです。

 生きてさえいれば、此度の戦の影の功労者なのですから、少佐も邪険には扱えないでしょう)



『疾進』のスキルアード部隊は、心が疎かな粗暴者ばかりだ。

 それに比べれば、彼には誰かを憂う心がある。それはやはり若さ故なのだろうか。


 表では、未だミハエルが上悦に悪口を零し続けている。留まる事を知らない。



 その時、馬車が一段と揺れ、急にその進みを止めた。



「うわっ…!?」



 ミハエルは横のアーゼが抑えているので無事だ。

 ワドゥーはそこに固定でもされているかの様に、こんな事態でさえ動きを見せない。

 ゼノは器用に窓枠に掴まっていて揺れを楽に耐えた。


 ノアだけが、変な方向へ転げ落ちてしまった。


 別にギャグ担当な訳ではないが、彼に咄嗟を立ち振る舞える程の身体的技能が無いのだから仕方がない。



「何だってんだ、急に」



 ゼノが眉をへの字に曲げながら、馬引きが居る前方を見る。


 そしてミハエルはと言えば、顔面を明らかな不快の色が染めている。


 饒舌に話していた時に腰を折られたのだ。この場に居る誰もミハエルの話を遮る権利を持っていない。

 瞬く間に彼の機嫌が悪くなっているのが、見て取れる。



「か、確認して来ますっ」



 だから真っ先にノアが動いた。


 あと数手遅れていたらゼノも同じ事を言っていたに違いない。


 前に話した通り、ミハエルの機嫌を損ねる事が恐怖だ。

 不機嫌となった彼が、どんな無理難題をノア達に要求してくるか分かったものじゃない。


 原因の排除は火急、且つスマートに。


 荷部屋から一人抜け出して来たノアは、溜息一つ吐き、馬引き兵までの狭い道を進む。



「何があった?」



 背凭れに手を置き、ズイっと身を乗り出す。

 馬引きは急に声を掛けられてビックリしたのか大きく上体を退け反らした。


 馬車は依然止まっている。


 ノアは馬引き兵の話を聞くより先に、己が目で現状を把握しようと前方を見渡す。


 が、ノアには馬車を止めるに足る理由が見付からなかった。


 すぐに馬引きの兵がノアに手振りを交えながら説明する。

 彼はそれを黙って聞いた。前方の橋を見つめながら。



「………で、橋に差し掛かったが、避難して来ただろう水国民が先に居た。その集団はまだ橋の中程の所で、渡り切っていない、と」



 馬引きが頷く。現状は今ノアが言った通りだ。


 先にはかなり長い橋があり、横幅は馬二匹がギリギリ納まる範囲。そこは別段問題は無い。

 上と下でかなり高低がある。崖同士を繋げたのだろう。


 そして肝心の馬引きが馬を止めた理由、それは、この橋の中腹辺りを三十程の集団が渡っていると言う事だ。


 此はもう水国の領内、ならあの集団は水国民に他ならない筈だ。

 近々戦が展開されるのは知らされている所だろう、この近辺の住民が安全な町等へ避難移動しているらしい。


 橋は渡れない。言ったように馬二匹がギリギリ収まる幅だ。

 あの水国民達が橋を渡り切るまで往生しなければならない。


 ノアは難しそうな顔をしながら、顳を掻く。


 ミハエル少佐に空いた十分程度をどう納得させるか考えているのだろうと、馬引き兵は思っていた。


 そして充分に考えが及んだのか、馬引き兵を見てノアが口を開く。



「で? 馬車を止めなきゃならない理由は何処にあるんだ?」



 初め、馬引き兵は言われた内容を理解出来なかった。


 ノアは真剣な顔も、怒りの顔も浮かべていない。ただ不思議そうに首を傾げる仕草迄して、そう言っている。

 本気で、馬車を止める理由を捜し当てられないから、馬引き兵にそれを聞いている。


 馬引き兵は言い淀んだ。


 自分との間に隔絶された見識の齟齬がある事を、馬引き兵は一瞬にて理解した。


 そんな彼を尻目に、ノアは人差し指で先を指し示す。



「通行の邪魔なら轢いて行けばいいだろう。こんな取るに足らない理由で馬を止めるな馬鹿者。

 ハァー………、少佐には私が上手く言っといてやるから、さっさと走らせろ」



 言って、相手の返事を待たず、額に手を充てながらノアが荷部屋の方へと戻って行った。


 自分が擦れた考えなのか、と馬引き兵は顔を引き攣らせて今のやり取りを思考の中で吟味する。

 中尉が言う以上それは絶対であり、ミハエル部隊の中でも一際優しいノアが命ずるなら、何よりも信頼に足る。


 己はまだ新兵だ。だからと言って的外れな行動が全て寛大に許される訳ではない。


 自分が擦れていた。


 そして、ありがたいと思った。


 馬車を止める愚行を犯したが、ノアが救ってくれた。


 これが自分の元に確認に来たのがゼノやアーゼならば、言い分を聞いた後、首を跳ね、馬引きを引き継いでいただろう。


 目前では戦争相手とは言え、戦えもしない罪なき人々。

 この者達は『奇術使い』じゃない。自分と同じ人間であり赤い血が流れている。


 彼等も後ろの馬車に気付き、早く橋を渡り切ろうとしている。

 ただ、年寄りや子供も中にいるのか、思うようにいかない様子。



「スゥ―――………」



 来てくれたのがノア中尉だった幸運を噛み締め、彼は良心との葛藤に決別する。


 手綱を握り絞める。痛いぐらい強く、力強く。


 この時、新人は本当の意味で『スキルアード部隊』の一員となった。



「オおおぉおおオおォッッッ!!!!!!」



 再び、馬車は動き出す。



 悲鳴、咆哮、確かな手応えを噛み締めながら。



 何事も無い、行く手を遮る何事等あろう筈が無い。






 この調子なら、目的地まで、後二時間と掛からない───

 








 

 

 

 

 


 


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