(12) 世界随一の宿屋マスター
モイズ神殿に至る最後の難所、厳しい山岳地帯の崖に沿う細長い道は、巡礼者の間で『
麓の宿屋でもらったガイドブックに書いてあった。ヒロシィは観光客気分で熱心に解説を読み耽るなかで、あの長ったらしい道にそんな大層な名前が付いていたことに驚いた。何となく鯉の滝登りのエピソードに似ている。どこの世界でも近い発想はあるのだなと感心して、一人神妙に「なるほど」と呟いてみたりもした。
「その昔話ってね、本当は
買い物を終えたウェルウェラが、宿屋の共有フロアでガイドブックを眺めていたヒロシィを見つけるなり、夢のないトリビアを披露した。思わずヒロシィは周囲を見回す。室内とはいえ、モイズ大神殿を中心とした敬虔なるトットゥリの街の宿屋だ。不用心極まりない発言だったが、幸い店主も他の宿泊客もいなかった。土産屋でも売っていた掌サイズのマガリナ像が、カウンターに鎮座しているのみである。
「愚者の金、か」
ヒロシィは分類すれば愚者であるため、鉱物の違いはよく知らない。黄金に似た価値の低い鉱物だという点だけ理解して、とりあえず思わせぶりにウェルウェラの言ったことを繰り返してから「なるほど」と頷いてみせた。
この頃、ヒロシィとラカン、そしてウェルウェラの三人は、十傑の一、ファスワンに何とか辛勝していた。出会った当初、追いかけっこをしていた時期に比べれば大分打ち解けている。もはや堂々と仲間だと言える関係であった。しかしながら、生来ヒロシィは女子の友人が少ない性質であったため、そんな事を公言して良いものか、躊躇の念を拭いきれずにいた。
「ラカンはまだ買い物?」
「なんかペナントが欲しいんだって」
「またか。なんであんなもの集めてるんだろう」
「さあ。そういえば、昔お世話になった武器屋のおじさんも、旅人と交換したりして集めてたわね。三角のやつ」
言われてみればヒロシィの親戚のおじさんも集めていた気がする。ペナントには、中高年を引き付ける魔力でもあるのだろうか。ラカンの数少ない趣味をとやかく言っても仕方ないので、ヒロシィはウェルウェラと共に宿屋で待った。と言っても、大した用事はない。街に着いたのが中途半端な時刻であったため、今日の用事は食事をしに行くだけである。
「そうだ、先にこれ書いておきましょうよ」
どうせ後で書くんだし、とウェルウェラが懐から羊皮紙を取り出し、ヒロシィに手渡した。枠線が引かれただけの、日に焼けた羊皮紙だ。どこか懐かしく、心臓を針でぷすっと刺したような小さな痛みを覚える。
「これは?」
「履歴書よ」
「り、履歴書?」
その言葉を聞いた瞬間、ヒロシィの背筋に悪寒が走った。どんな呪術よりも素早く、全身に重苦しい倦怠感が襲ってくる。
「モイズ神殿って、転職の聖地なんだろ? どうして履歴書なんて必要なんだよ」
「どうしてって、転職なんだから当たり前じゃないの。魔法戦士になりたいんでしょ?」
「いや、それは、まぁそうだけど。え、転職って履歴書が要るの?」
「そりゃそうでしょ」
「もっとこう、パーっとさ、祈ったら光が集まってきてチャラララーンみたいな、そういう感じの……」
「ちょっと何を言っているのか分からないけど」
ウェルウェラは異質なものを見る目でヒロシィに鋭い視線を送る。どうやら違うらしい。ヒロシィは、いまいちこの世界のシステムが分からなかった。魔王や魔物が存在し、戦士や魔法使いは活躍しているのに、妙なところで元の世界の現実に近い。まるで好き勝手適当に書き散らし、細部はwikipediaを切り貼りしたレポートのような、ちぐはぐな感触があった。まさかあの女神、面倒な部分だけ地球を
「履歴書を持っていかないと、転職できないの?」
「いいえ、別にできるけど」
できるのか。しかし、考えてみれば戦士になりたければ剣を持って街の外に出て魔物を倒せばいいし、魔法使いになりたければ杖を買って魔導書で勉強すればいい。恐らく、この世界における転職の神殿が果たす役割は、神社への願懸けや決意表明に近いのだろう。実際、ウェルウェラが続けた説明は、ヒロシィにも理解できた。
「心持ちが全然違うでしょ。生き方を変える前に自分を見つめ直すのよ。祝福を授ける側も履歴書を読んで、新たな門出を女神マガリナに報告するわけ。それでまぁ、女神の加護を授かることで新しい職に邁進できるわけね」
「なるほどなぁ、気の持ちようか」
マガリナ教に懐疑的なウェルウェラすら、モイズ神殿での祝福については受け入れている。それぐらい当たり前の行為のようだ。
ヒロシィは田舎者を装い大袈裟に頷いてみせたが、女神マガリナの加護は実在する。実際ヒロシィは直接の命を受けて、あらゆる毒や呪いの軽減、基礎回復力の飛躍的向上、習熟度が100倍になる等の加護を与えられているのだ。ヒロシィほどではないにしろ、祝福にも僅かながらの効果があって、その成長感覚の集積が、女神への信仰に繋がっているのかもしれない。
そんな他愛もない会話の後、ラカンが帰ってきた。教会の刺繍が施されたペナントを自慢げに見せびらかし、履歴書は明日までに書けば良かろうと言われて話は打ち切れられた。ラカンはどこからか噂を仕入れてきて、驚異的な若さで大聖女になった僧侶がいるらしいという話をすると、そういえばハーフエルフであるウェルウェラの実年齢は一体、という素朴な疑問をヒロシィが口走って、その場で火炎魔法が飛んだ。
宿屋に戻り、履歴書に向き合う頃には夜も更けていた。ハシビロだけはどこの街に行っても、夜空に浮かんでいる。
前世、ヒロシィは余暇と怠惰を愛するニートとして平穏無事に暮らしてきた。履歴書というものは視界に入れるだけで胃痛を起こしかねない危険な存在であったため、書いた経験は一度もない。それだけに、どうにも気が乗らなかった。習熟度の加護のおかげで、この世界の文字は書けるようになっていたが、それでも名前の一つすら書きたいとは思えず、腕を組んでうんうん唸るほかなかった。
「どうした、何になるか迷っているのか」
ラカンが見かねて声をかけてくる。ラカンは武道家に転職し、ゆくゆくはバトルマスターになるらしい。
「まぁそんな感じ。魔物使いとかも良いよね。倒した魔物を仲間にして戦ってもらえるなら、楽じゃないか」
「俺たちは将来、魔王を倒すのだぞ。魔物を生み出している張本人に、魔物をけしかけても勝てんだろう」
「じゃあ暗殺者なんてどうかな。壁に隠れてさ、一撃でサッと」
「魔王は強力な配下がうようよいる城の中にいるのだぞ。第一、お前一人で隠れてどうする。俺たち三人が正面突破していたなら、結局バレバレではないか」
「うぅ、それもそうか」
「大人しく魔法戦士にしておけ」
履歴書への嫌悪感を誤魔化すために挙げた職業候補だったが、なるほどアドバイスとしては的を得ている、とヒロシィは感心した。リストを見るに、職業の候補は薬草調剤師、鍛冶屋、踊り子に狩人など様々だったが、魔王討伐に向いた職業となると限られている。
深呼吸し、腕に力を込め、えいやと気合を入れて、ようやくヒロシィの履歴書は完成した。転生した事情は書けないので、遥か東の田舎町に生まれ育ち、親を亡くして親戚のつてを辿り空き家を得て、独り暮らしを始めたことにした。二年間、宿屋の主人として暮らしたのち、一念発起して戦士となり旅に出て今に至る。半生をまとめてみれば、シンプルなものだった。
書き終えてからふと気付いたが、加護によって習熟度100倍の状態で宿屋を2年間営んでいる。宿屋経営の手腕はもはや老舗を一人で切り盛りできる域に達しているのではないか。ひょっとして、この世界随一の宿屋マスターなのでは。
ヒロシィには思い当たる節があった。野営の準備を、ラカンとウェルウェラがヒロシィにやらせたがるわけだ。他の雑事を全てやるからと、いつも役目を押し付けられていた。丁度いい洞窟選びから牧草の敷き方、朝食を用意するタイミングまでもが完璧だったに違いない。
しかし、残念ながら宿屋の経営は魔王討伐には役立たない。必要なのは暴力を行使する技能だ。そのためにヒロシィは魔法戦士として、更なる剣技の高みを目指す。女神マガリナも、基本的に戦士職を勧めていたので間違いはないだろう。魔王は魔法の耐性が強いので、剣技でもって直接斬るのが良いらしい。
翌日、早朝にモイズ神殿を訪れた。列ができる前に済ませてしまおうとウェルウェラが提案し、二日酔いのラカンの背を押しながら三人で向かった。標高が高いからか霧が深く、門前を掃除する修行者たちもまばらだった。
「受付、まだ開いてないんじゃないか」
「大丈夫でしょ、女神さまの加護なんて年中無休よ」
「女神というのは、過酷な労働環境なのだな」
三人が受付を探してキョロキョロしていると、霧の中から一人の小さな女の子が現れた。幼い顔立ちだが、立派な法衣を着ている。七五三みたいだな、とヒロシィは思った。
「冒険者たちよ。貴方たちからマガリナ様の大きな加護を感じるのです。昨日から増大していた違和感の正体は貴方たちだったのですね。ひょっとして、転職に来たのですか?」
見た目のわりに鷹揚な喋り方だ。親御さんの真似をしているのかもしれない。前半の話はよく分からなかったが、転職に来たのはその通りである。微笑ましい気持ちでヒロシィは応じた。
「そうなんだ。正門で受付があるらしいんだけど、窓口がなくてね。お嬢ちゃんは地元の子? どこにあるか知らないか?」
「な、何を言うのですか! 私はこう見えても成人しているのです!」
「ふふふ、そうだぞヒロシィよ。見た目で人を判断するものではない。立派なレディとして扱わねば失礼というものだ。さ、飴をあげよう。こっちにおいで」
「子供扱いしないでほしいのです! 私はテルモア・バルサミコス。マガリナ聖教会屈指の大聖女なのですよ!」
大聖女を名乗る少女はその場で地団駄を踏んで怒りを表現した。さては、昨日聞いた噂の大聖女に憧れているのだろう。この街の子供からすれば、ヒーローのような存在なのかもしれない。
「まだ早いので、転職受付は観光窓口でやっているのです。案内するからついてくるのです」
テルモアと名乗る少女は、返事を待たずに正門の方へ歩いていく。ヒロシィたちは言われるがまま、後をついていった。
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