(11) マガリナ様に誓って
その夜、泥魔人に圧し潰される夢を見た。
あれはそう、十傑の二、マッドロブダスの沼地へ向かった時のこと。泥魔人の大群に襲われて、右も左も蠢く泥の塊、足元は底なし沼で、上から泥が降ってきて散々だった。ラカンもウェルウェラも腰まで泥につかり、おや、これはひょっとして助からないのではと思ったその時、大聖女テルモアが現れた。
「全く貴方たちと来たら、長旅に補助役の僧侶が必須なのは常識なのですよ! この大聖女、テルモア・バルサミコスが道を照らしてあげるのです!」
岩肌の上に立つ僧衣の少女(26歳)は、太陽を背に浴びながら高々と杖を掲げた。すると杖から浄化の光が迸り、魔素を含んだ泥は粘性を失って、ヒロシィたちに絡みついていた泥魔人が苦しそうに呻き声を上げ始めたのである。
今にして思えば、どうして前の街のモイズ神殿で出会った大聖女が、タイミング良く駆けつけてくれたのか。確かお礼を言った後、すぐにまたマッドロブダスの配下が襲ってきて、そのままなし崩しで仲間になって今日に至っている。
いつかの酒屋で、女神マガリナのお導きだとか何とか、それらしい説明を聞いた気がする。しかし冷静になって考えてみると、あのいい加減で大雑把な指示しか出さない女神が、そうまで的確な導きをするだろうか。
「ヒロシィ、いつまで寝ているのです。早く起きるのです」
湧き出た疑問が輪郭を得たその時、泥魔人を髣髴とさせる圧迫がヒロシィの上に乗しかかってきた。夢心地だった意識が急に現実に引き戻され、目を開けるとテルモアがヒロシィに馬乗りになっていた。泥魔人より感触が柔らかい。
「ああ、おはよう」
「おはようなのですヒロシィ」
テルモアは笑顔で応じた。重いのでどいてくれ、とは言いづらくてヒロシィは他の二人の方を見る。ウェルウェラは寝具を片付け、ラカンは干し肉を焼いてパンで挟んでいた。
「よく敵の本拠地で暢気に寝ていられるわね。感心するわ」
「そう言うな、胆力があるのは戦士の長所だぞ」
「ヒロシィ、早く起きて像を洗いに行きましょう! マガリナ様からの要請、すぐにやらないとバチが当たるのですよ!」
女神マガリナから乞われて転生したにも拘らず、二年間ずっと田舎村で宿屋の主をしていた身としては耳が痛い。テルモアにぐいぐいと引っ張られてヒロシィはようやく起き上がった。
テルモアが三人を急かし、朝食が終わるとすぐに魔王城の庭園へ向かった。昨日と同様、一匹の魔物すら現れない。魔王が死んでも魔物は残るはずだが、やはり昨日の総力戦で皆散っていったのだろう。魔王城が立地的に険しいし、よくよく考えてみれば創造主の根城に外から侵入する魔物はいないのかもしれない。
「何回見ても酷いな」
庭園の毒噴水に立つマガリナ像を見上げてラカンが呟いた。べったりと塗られた金色の塗料、侮辱的な落書き、破壊された衣服が見事に調和し、どこからどうみても馬鹿にされている。
「さぁ、洗うのですよ。ウェルウェラ、早く『ウォ・シュー』をかけるのです」
「待って待って、毒の噴水で近づけないでしょ。貴方たち、ボサッと立ってないで土で埋め立ててよ」
ウェルウェラの言葉にヒロシィとラカンは顔を見合わせた。予想外の重労働だが、他にやることもないので無言で頷くしかない。
「スコップなど用意してないんだがな」
「ラカンは斧があるじゃない。ヒロシィも、その剣で土をほぐして、盾に乗せてかければいいでしょ」
信じられない発言にヒロシィは耳を疑った。王家の聖剣と聖盾を、まさかそんな風に扱おうなど考えもしない。ラカンも露骨に嫌そうな顔をしていた。十傑の九、ヴァルガンから奪い取った古代王朝の
「すごいよ、土がザクザク掘れる」
「こっちもだ。まぁ、
複雑な気持ちを抱きながら、ヒロシィは黙々と作業に没頭した。魔王を斬り伏せるはずだった聖剣を、まさかこんな用途で使うことになろうとは。魔王から我が身を守る聖盾を、まさかこんな用途で使うことになろうとは。剣で土を掘り返し、盾に乗せた土を毒の沼地に投げ入れる度に、ヒロシィはそれを思った。
ようやく毒の噴水の埋め立てが終わり、ウェルウェラが水魔法『ウォ・シュー』でマガリナ像を洗浄していく。やはりと言うべきか、塗料も落書きも取れなかった。揮発した毒や雨風にさらされても残っているのだ。頑固な汚れなのは間違いない。
「私の手で綺麗にしてみせるのです。ウェルウェラ、継続的に『ウォ・シュー』をかけ続けてください。ヒロシィもラカンも、
「待ってくれ。腰が、思ったより腰にきた。すまないが少し休む」
ラカンが苦悶の表情を浮かべ、肩で息をしながら前屈みになる。ヒロシィも全身に薄っすら汗が滲んでいたが、年長者のラカンを責める気にはならない。ラカンは倒れた石柱に腰掛け、ヒロシィはテルモアの指示に従って作業を開始した。現地語で「痴女」と描かれた脇腹を重点的に擦る。石像とはいえ、臀部などデリケートな部分を擦るのは抵抗があるなと感じたが、心の中に留めて作業を続ける。
「そういえばテルモア、確認したいことがあるんだけど」
「なんなのです?」
金色のしつこい塗料をごしごしと擦りながら、ヒロシィは尋ねた。昨日ウェルウェラに聞いたのと同様に、テルモアにも魔法の諸条件を聞いておく必要がある。
「索敵呪文の『イ・ルーカ』を使ってくれたろ。あの光るやつ。おかげで周囲に敵がいないと安心できたけど、あれって具体的には何を見ているの?」
「敵意なのです」テルモアは即座に応えた。
「厳密に言えば、緊張感やストレスを感じている生物から揮発した魔素の成分に光子をぶつけて、返ってきたスペクトルの濃淡を魔法で自動判定しているのですよ。角度と強さから大体の方角や数も分かるのです。詳しい理論に興味があるのですか?」
「ごめん、もっと分かりやすく頼む」
ペラペラと喋るテルモアを見て、ヒロシィは彼女が驚異的な若さで大聖女まで登り詰めた天才だという事を今更思い出した。しかし、ヒロシィは学問を愛してこなかったため、あらためて謙虚な姿勢で、平易な説明を求めるしかない。
「ええと、例えばウェルウェラとテルモアが喧嘩していたとして、同じパーティであっても敵意を見つけられるの? あと、隠れている敵とか、鎧や水中にいる敵、味方の魔物使いが手懐けている魔物なんかはどう?」
「ちょっと、なんで私がテルモアと喧嘩するのよ」
「昔あったろ、どっちが一個しかない蜂蜜パンを食べるかで揉めて」
杖から洗浄の水を出しながら抗議してきたウェルウェラだったが、触れられたくない過去だったらしく、ヒロシィがそう返すとあっさりと帽子を深めに被り黙った。あれは大人げなかった。成人した女子二人とは思えぬ醜い争いだった。ヒロシィは間に挟まれて仲裁のためにオロオロしっぱなしで、結局事情を知らないラカンが偶然新しいのを買ってきて仲直りできたのだ。
「順番に説明しましょう」テルモアはコホンと咳払いし、教師のような口調で柔和な笑顔をみせた。見た目は少女なので、昔これぐらいの少女が教師をする漫画を読んだな、とヒロシィは懐かしさを覚えた。
「最初の疑問ですが、術師の仲間は判定から外れるのです。『イ・ルーカ』はマガリナ様の魔法原理をお借りしているので詳細は説明しかねるのですが、答えはシンプルに無反応なのです。味方の魔物使いの魔物も、味方判定されるので『イ・ルーカ』では反応無しなのです」
味方パーティであれば、関係性や人間魔物に拘らず反応しない。テルモアは人差し指を立てて説明した。
「あとは隠れている敵ですが、うーん、基本的に光が届く範囲にいれば分かるのです。中立の存在であっても、いきなり光を浴びるわけですから、生き物としての反射があって、それで一応は分かるのですよ。鎧や水中は実験したことはないのですが、鎧である以上は関節に隙間があるでしょうし、水中は光さえ届けば大丈夫なのです。でも、最後の間には飾りの鎧も深い池もなかったのですよ」
「それもそうか」
「他に聞きたいことはありますか?」
「そうだな、あ、じゃあ『イ・ルーカ』ってどれぐらい難しい呪文なの? テルモアを100としたら」
「せいぜい20ですね。教会の聖教師なら誰でも使えるのです」
「そっか。まぁ索敵だから、そうじゃないと困るか」
「それでも、他でもないこの大聖女テルモアの『イ・ルーカ』なのですからね。効果範囲も光の強さも通常の倍以上なのです。あの最後の間には我々に危害を加えようとか、隠れてやりすごそうなんて敵意のある輩は一人もいなかったと断言できるのですよ」
テルモアが自信満々に頷いてみせた。
「さ、手が止まっていますよヒロシィ。日暮れ前までにはマガリナ様の像を綺麗にしましょう。そうすれば、今日もご報告でお会いできるのですよ」
「ごめんテルモア、最後にもう一つ訊きたいんだけど」
一心不乱に海綿で胸部を擦り続けるテルモアを見て、ヒロシィはふと、先ほど見た夢を思い出した。泥魔人に襲われた絶妙のタイミングで助けに来た大聖女は、不思議な顔でヒロシィを見上げる。
「なんなのです? 魔王が殺された密室の謎なら分からないのですよ」
「テルモアが俺たちを泥魔人から助けてくれたのって、あれ、俺たちの後をつけてたんじゃないか?」
テルモアは手を止めない。海綿でマガリナ像を擦る度にシャカシャカと音がした。『ウォ・シュー』の洗浄効果が泡となって小さなシャボン玉を作り、ふわりと飛んで行く。マガリナ像の背後に回るヒロシィには、テルモアの表情は見えなかった。
「どうして今頃になって、そんな事を聞くのです」
「マガリナ様に、これまでの冒険の日々を辿ることが密室の謎の解明に繋がると言われたからさ、気になる事を一つ一つ確かめていこうと思っているんだ。確か、テルモアの夢枕にマガリナ様が助言をして一人旅を思い立って、偶然俺たちに遭遇したって話だったけど、それにしたって奇遇というか、出来すぎというか」
「マガリナ様のお導きなのですよ。以前、そう言ったのです」
「本当に?」
「本当なのです」
「マガリナ様に誓って?」
「うぅ」テルモアの手が止まる。大聖女として、信仰する神には背を向けられないのだろう。数秒の苦悩らしき唸り声の後、テルモアは像の脇腹からひょっこりと顔を出した。
「いじわるなのですよヒロシィ。それを言われてしまうと、誤魔化せないのです」
「じゃあ、やっぱり?」
「そうはまぁ、そうなのですが、そもそもモイズ神殿で私を仲間に誘ってくれなかったのが悪いのですよ。あれだけアピールしたのに、全部スルーしたではないですか」
「そんなことあったっけ」
ヒロシィは目を瞑り、記憶を辿った。マガリナ聖教会の本拠地、モイズ神殿はマネッシ山脈の麓にある。転職の聖地である。
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