ひと夏の楽園
バー・カルサカルの魔界側の入り口から、まっすぐに伸びた豊かな金髪と小麦色の肌の女性がやって来た。恰好はマリンブルーのワンピースにウェッジソールサンダルと軽快で人間のそれだが、青い飾りのついた大きくとがった両耳が人界の存在でないことを示している。そもそも雰囲気がただ者ではないのだ。引きずり込まれてしまいそうなものがある。おそらくは妖精の類であろう。
平日の夜10時半ということもあって、店は全体的に客が少ない。今日の店内音楽はボサノバ。いつもとは店内の雰囲気が少し違うようにも感ぜられる。
「青いカクテルを頂戴な。度数は気にしないから」
カウンターに腰掛けた少女から音楽的な響きが転がり出る。なるほど、セイレーンのたぐいだろうか。周りにいた数少ない客もちらりと彼女に意識を払ったようだ。
「そうね、海みたいなのが良いわ」
軽やかな声が歌うように言った。なるほど、せっかくなら、少し古臭いかもしれないけれど思いっきり夏っぽいものが良い。グラスを取り出し氷を入れて、パイナップルジュースやホワイトラムを取り出し、さっそくカクテルづくりに取り掛かる。その間中、水辺に住まう妖精の真っ青な瞳がこちらの手元に注目していた。
「ブルー・ハワイになります、どうぞ」
トロピカルカクテルにしか使わないピンク色の小さな傘をここぞとばかりに使って、カットしたフルーツが華やかに盛り付けられたグラスを差し出すと、美しい顔立ちいっぱいに子供のような笑みが広がった。
「すごぉい……! 青色がとっても綺麗!」
妖精や精霊、魔族といっても、種族ごとの傾向などはあれど、究極的にその性格は個人によって差が大きい。この前来た吸血鬼種の青年など、人間の描く高貴で退廃的な吸血鬼像をぶち壊すような恋に悩む陽気な人物であった。(クリスマスは必ず教会の礼拝に参加するのだと言っていた)セイレーンは気位が高いと往々にして言われるが、彼女もまたその例に反するらしい。
「見た目も可愛いし、とってもおいしいわ」
グラスの足を持ちあげてストローでカクテルを飲む様がどことなく子供のようで微笑を誘う。実際は何百年も生きていること間違いなしなのだけれども。
「こんばんは」
シェーカーなどを洗っていると、人間用の扉から青年が1人。派手ではないが、すっきりと整った格好をしている。戸惑った様子もなく扉を開けて店内に入る。カウンターの端に座っていたセイレーンから椅子をふたつ隣に案内するとさっとそこに着席する。
「こんばんは。何にいたしましょうか」
「ええっと……シンガポール・スリングを。ジンはボンベイ・サファイアで」
青年は年若く、まだ学生のように見える。しかし妙に振る舞いが落ち着いている。ジンを指定するあたり、かなり通い慣れているようだ。
ボンベイ・サファイアの水色のグラスがカウンターに置かれると、セイレーンの視線がそちらに釘付けになった。青い色が好きなのだろうか。
「水色の瓶がきらきら、綺麗」
麗しい少女のような妖精が青年に視線を向けて無邪気に笑った。「なるほどこれが幼女か」と変な納得をしてしまう。
「俺もこの瓶の色が好きで。インドが英領だったころにジンに人気が出て、そのインドの都市ボンベイから名前を取ったとか、なんとか。ああ、でもそれを考えたらシンガポールにインドを入れるって、こう……」
少女に応えるようにして青年が話しかけながら、地理的なミスマッチに苦笑している。
「失礼しますね、シンガポール・スリングでございます」
シンガポールの朝焼けを表現したと言われる白と朱色のグラデーションを差し出すと、妖精がまた顔を輝かせた。青年はその表情に釘付けになっている。
この店で人と人ならざる者が出会ったとき、人間は店を出ると記憶に靄がかかってその出会いをうまく思い出せなくなるらしい。世において霊感があると言われる人物は例外のようだが、そういうのは少数派だ。この青年も、きっとこのセイレーンの事は忘れるのだろう。
他のお客の会計を済ませると、あの少女に「マスターさん」と軽やかに呼ばれた。照明の下で、柔らかに金髪が輝いている。
「はい、いかがいたしましょう」
「彼にアプリコットの……そう、パラダイスを。私が奢るわ」
にこり、と微笑みを向けられた青年は眼鏡の奥で驚愕を表した。なにか抗議の声を上げようとするとほっそりとした褐色の指先が悪戯にその唇に押し当てられる。そして、微笑みひとつで封殺される。これだから妖精だとかの類にはどんな魔族も人間もかなわない。
「もし全部忘れてしまっても、楽園の一口で思い出させてあげる」
狐につままれたような表情を見せる青年の左耳には、彼女の青いイヤリングが光っていた。
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