扉の向こうは普請中

大野城みずき

扉の向こうは普請中

 小学五年の夏休みを迎えた。

 朝、うれしさとともに、わたしは、眠りから覚めていく。

「今日は、夏休み初日。本日、わたしは、わけあって、新しい部屋を手に入れることになっている。うれしい女子部屋」

 おうちの外にスズメ鳴く中、わたしは、自分の部屋で目が覚めた。ふとんから手を伸ばすと、時計は七時を回っている。

 今日は、お昼ご飯のあと、わたしは、家の中ではあるけれど、別の部屋に引っ越す。

「いや、新しい部屋を手に入れるといってもいい」

 では、なぜ、引っ越す予定になったかというと、それは、ママの部屋が、わたしの身に転がり込んでくることになったからだ。

「今現在の」

 わたしの部屋は、居間の隣部屋で、しかも、ふすま一枚で仕切られているだけだ。だから、この引っ越しは、うれしくてしょうがない。

 ママ、だいすき!

「断じて言う。居間の隣、それも、ふすま一枚で仕切られただけの部屋は、個人的な部屋になりえない。まちがっても、自分の部屋などと呼ぶな。さあ、起きよう」

 わたしは、寝床から出た。そして、

「自分の部屋っ、女子の部屋っ」

 と声をはずませて、ふとんを畳んだ。

「さてと、部屋の入れ替えの前に、まず、持ち物をまとめておかなくっちゃ。というわけだから、汚してもいい服は、……っと」

 わたしは、ジーンズをはいた。着替えをすませて、わたしは考えたのだ。

「部屋は、お昼ご飯のあとに、ママから明け渡してもらうことになっている。だから、その前に、ミニ引っ越しのための準備をするのだ」

 わたしは、さっそく、荷造りに取りかかった。

「わっせ、わっせ、の、せっせっせ」

 持ち物をまとめていると、気が高ぶってくるではないか!

「笛だ」

 わたしは、笛を見つけてしまった。鳴らそう。

「ピーっ、ピ。ピっピっピ」

 そして、わたしは、右手を左胸に当てて、

「部屋の入手時間は、昼食後である。ハッ!」

 って、ピシッと背筋伸ばして軍隊寸劇しちゃった、一人で……。恥ずかちっ!

「もとい、もとい。おちついて、いそごーね。にづくり、にづくり、せっせっせ」

 午前中、わたしは、荷造りに精を出した。


 お昼前になった。

 荷造りを終えて、仕上げにかかる。

「それっ」

 引っ越し荷物を一箇所に集めた。

「拍手! パチパチ。自分の持ち物が、みごと、引っ越しの荷物になっているよ。カンドー!」

 そう思いながら見ていたら、お腹がすいてきた。

「そりゃ、そうだ。朝、ほとんど食べてなかったし。おまけに、今の今まで、体、動かしてたからなあ」

 わたしは、部屋を後にして台所に向かった。


 テーブルにお昼ご飯を並べて、

「さっさと食べてしまおう」

 わたしは、はやめに昼食をとる。

「時間がたくさんほしいからね。ミニ引っ越しは、これからなんだから」

 口に運ぶ箸の動きが、自然と速くなっていく。

「ごちそうさま、っと」

 わたしは、食べ終えたお皿を手に持ちつつ、その場を立って、台所の洗い場に向かった。

 一枚、また一枚と、水を流して汚れを落とす。

「はい、おしまい」

 何もかも片づけて、わたしはママを探す。

 すぐに見つけて、呼び止めた。

「ママ」

「な〜に」

 と返事をしたママは、洗濯中だったけれど、せわしなく動かしていた手を止めて、こっちを振り向いた。

 わたしは、

「はやく」

 と口で、

「はやく」

 と身振りで、

「はやく」

 と目で、ママをせかした。

 すぐに、ママは、

「いよいよね、ミキ」

 そう言って、ぬれた手をエプロンでふきふきしながら、「待ちに待ってました!」の部屋に向かって歩いていくのだった。

 わたしは、その後についていった。いつどこで聞きつけたか、後ろから、アカリお姉ちゃんもついて来た。

 アカリお姉ちゃんは、

「自分の部屋、わたしも、うれしかったなあ」

 とかなんとか言っている。

 一方、わたしは、

「アカリお姉ちゃんは今年、高校一年になって、わたしなんかにかまってる暇、あったかな」

 と思いつつ歩いていく。

 部屋の前まで来て、立ち止まって、ママが、

「ついに、ここは、今からミキの部屋ね」

 とドアを開けた。

 ママの部屋が、わが身に転がり込んできた瞬間だ!

「ママ、ありがと〜。だいすき!」

 入り口のドアの前で、わたしはママに飛びついた。

「はいはい。ありがとうね、ミキ」

 しょうがないわね、という声だけれど、わたしに抱きつかれたママの顔は、穏やかだ。

 そのようすを横に、

「ミキも、ついに自分の部屋ね」

 とアカリお姉ちゃんが、少し懐かしそうにわたしを見ている。もちろん、お姉ちゃんは、すでに自分の部屋を持っている。

 やがて、ママが、わたしの背中を、手のひらでポンっポンっとたたいて、

「部屋はひととおり掃除してあるわよ。必要な物は、はやく運びなさいね。だらだらしてると、今日中に終わらないかもよ」

 って、うながしたので、わたしは、は〜い、と軽く返事をして、抱きついていた手をほどいた。

 ママから離れて、さっそく、引っ越し気分も最高潮、荷運びに取りかかった。

 そのとき、お姉ちゃんが、「やっぱり、手伝おうか?」と言ってくれた。けど、どこに何があるか、わからなくなるのが嫌だったから、困り果てたらお願いすることにした。

 よし、まずは、大きな物から運ぶか! そのあとに、小物類を……、っしょっと。


 お昼から、ミニ引っ越しが始まった。

 わたしは、大きな荷から取りかかり、その荷を一つずつ新しい部屋に運び入れる。そして、手ぶらになって、元の部屋に戻る。

 このとき、あることを思った。

 今日は、まだパパを見ていないなあ。パパ……か。パパ……。まさか、そんなことはないと思うんだけど……。


 行き来しつつ、大きな荷を、抱えて運ぶ。

「っしょっと。大きな持ち物は、これでよしっと」

 最後の大きな荷を運び入れた。

 きびすを返して、またまた、元の部屋に戻り、次に、中くらいの荷を、脇に挟みつつ運ぶ。

 運びながら、わたしは、さきほどの「パパ」のことを、また思い出すのだった。

 パパ……、パパ……。

 いつだったかな? 居間で、ママとお姉ちゃんと三人で和気あいあいと、たわいない話をしていたら、その話の途中で、ママが、わたしに、こう言った。

「ミキも、もう五年生で、そろそろ、まあ年ごろというか、そういう時期だしね。自分の部屋、あったほうがいいかな。それに、パパのこともあるし」

「パパのこと?」

 このとき、わたしは、なんの話だろう?と思った。

 すぐ改めて、ママを見たんだけど、反応がない。「なら、横を向いて、アカリお姉ちゃんだ」と思って、お姉ちゃんを見た。

 そしたら、アカリお姉ちゃんも、わたしを見たよ。

 けど、その当のお姉ちゃんは、黙ったまま、わたしをちらほら見るだけで、なにもしゃべらない。

 そして、その次に、ママの顔をなにか探るようにして見てたな。

 しばらくしてから、お姉ちゃんは、

「あ〜、そういうことか」

 って、わたしをよそに、うなずいていたよ。

 そんなんだったから、わたしは、一人置いてきぼりだって思って、すぐに、

「なに? どういうこと? ねえっ」

 って、お姉ちゃんとママに向かって、顔を突き出したんだ。

 そしたら、ママが、

「まあ、大丈夫とは思うんだけどね。でも、万が一ってこともあるから……」

 って、やっと口を開いてくれた。だけど、この答えじゃあ、どうにも、わからなかったから、

「万が一って、なにが?」

 って、また聞いた。

 けど、

「う〜んとね」

 ママは、相変わらず反応が悪い。

 だから、わたしは、アカリお姉ちゃんを頼ったよ。

「お姉ちゃん、どういうこと?」

 そう聞いたら、

「えっとね、パパが、ミキに、手を出しはしないかってことよ」

 って、お姉ちゃんは、ママと同じような表情をしつつも答えてくれたな。

 でも、わたしは、まだ、ぼんやりとしか、わからなかったから、

「手を出すっていうのは、えっと」

「エッチなこと」

 アカリお姉ちゃんの、この言葉を聞いたとき、わたし、ほっぺが、じわ〜ってなっちゃったよ。


 ――こんな「パパ」のことを思い出しつつ、新しい部屋に、次から次へと荷を運び入れていく。

 やがて、部屋に夕日が差し込んできたのだった。

「っしょっと。荷運びは、あと、小物類だけっ、と」

 わたしは、じっくり自分の部屋を見渡してみた。

 寝具に、洋服に、勉強机と本に、文房具、それに、身の回りの物。こうして見ると、意外といっぱいあるんだね。まあ、とにかく、さっさと、終わらせよ。


 日が暮れた。

「とりあえずは、これでよしっ、と」

 窓の外がすっかり暗くなったころ、部屋から部屋へのミニ引っ越しは一段落した。

 荷物を運び入れてホコリが立ったから、軽く掃除もした。

「今日から、ここで、一人で寝るんだね。一人、か……」

 寝床を見て、そう思った。

 夜のご飯は、アカリお姉ちゃんとママとパパ、家族みんなで食べた。

 そのあとのお風呂は、気持ちいい。

「ミニ引っ越しの疲れが、とれるなあ。ああ、年寄りっぽい声が、お風呂場に響くよ」

 そして、わたしは、今日の夜から自分の部屋で、一人で寝る。


 部屋が整って数日がたった。

 青い空の下にセミが鳴いて、夏休みは真っ盛りだ。

 そんな中、わたしは自分の部屋で、のんびりと、というか、実のところは、机に向かってぼけーっとしたり、ごろりと横になったりして、半分は寝て、半分は起きて、というふうに過ごしていた。

 やがて、よくわからないものを胸に覚えた。

 わたしは思う。こうして自分の部屋でぼんやりとしてると……、この前までは居間の隣部屋で、しかもふすま一枚で仕切られていただけだったから、アカリお姉ちゃんとママとパパと家族四人でまさに一緒に暮らしてるって感じだったけど、今この部屋にいると、この家に一人で暮らしてるって気になってくるような、しないような。う〜ん、なんだか変な感じだな。でも、周りの音や目を気にしなくていいようになったから、これはこれでいいんだけど。それと、パパのことは、頭の片隅にでもとどめておくか。さて、せっかく、誰の目も気にしなくていいんだから、手鏡を……っと。

 わたしは、横になったまま、机の引き出しから手鏡を取り出した。そして、自分の顔を見つめる。

 う〜ん、アカリお姉ちゃんとまではいかないけど、わたしもどこか少しは大人っぽくなったところ、あるかな? 目とか、おでことか、口元とか、顔の輪郭、前髪を含めた髪型、それから、なんといっても、全体の雰囲気! あと、言葉遣いも大切だね。でも、大人っぽくっていっても、どういう大人っぽさがいいんだろ。女子に受けるのがいいのかな? 男子に受けるのがいいかな? 大人っぽすぎてイジメられることだけは、さけないといけないな。ちょっと大人っぽすぎるからっていって、仲間ハズレとか、ほんっと、やだやだ。けど、そんなことばっかり考えてると、ただ周りに合わせてるだけになっちゃうし。は〜ぁ、意外とむずかしいなぁ。あんまし、みんなとおんなじで、「誰でもいいや」って言われるような存在になったりすると、一度も男子と付き合うことなく小中高の学校生活が終わっちゃう、なんてことになって――、おぉ、想像したくもない! はぁ、学校生活っていえば、勉強があるな。でも、勉強より人間のほうが大切かなぁ。勉強って、知識とかにはなるんだろうけど、人を好きになることや、思い出なんかとは違う感じがするし。人を好きになって、思い出だけが残って。でも、そういう残そうとしたはずの思い出が、仲良しグループとだけでした、っていうのは、ちょっと。

 そうだ、なんか困ったときは、お姉ちゃんに聞いてみよっかな。アカリお姉ちゃん、自分じゃ、フツウだって言うんだけど、実際のところ……、思い出しちゃったら、あんまし当てにならないように思えてきたよ。やれやれ、ためいき。

 それにしても、わたしも、そろそろ、自分らしさってのを考えないとなあ。二年後には、中学生になるんだし。例えば、中学生の初日に自己紹介なんてのが、もちろんあって、まあ、その自己紹介は形式どおりの、つまんないのでいいんだろうけど、問題はそのあとだね。形式どおりの自己紹介が終わったあとの、ちょっとした休み時間とか、放課後すぐとか、そういう時間に自分をどう見せるかが、本当の自己紹介だったりするんだよ、これが。それで、そういうときにハメ外したこと言って、相手もどう対応していいのやら困って、挙げ句、この人とはあまり関わらないほうがいいかも、なんて顔見知りすぐに思われたら、もう終わりだもんね。その印象がクラス替えまでずっと続くという希望のなさといったら。いや、もしかすると、卒業するまでずっと、てなことにも……。おまけに、相手本人はもちろんとして、プラス、わたしのハメ外した発言を人づてに聞いた他の人もが、SNS使って、例えば、グループはずしとか、正体不明のアカウントとかで、あることないこと付け足して書き込んで、それがみるみる広まって、とか。いやだよ、まったく。どんな人でも、陰口をたたくのは上手だからね。それで、わけわからないうちに、みんなから無視されたり……。最後には、いじめとは認められないイジメで死んじゃうことになって……。それはつまり、ウソのイジメでも死ぬんだね、人って……。人が人を殺して、人類は自滅する……か。あぁ、この日本という国のどこかで、これらのそういうことは、毎年、起こることなんだろうけど、わたしには、その災いが降りかかってきませんように。

 ぱんっ、と手を合わせて、わたしは、横になったまま神頼みのかっこうをした。それから、寝返りを打ち、手鏡を持ち直す。そして、わたしは、改めて自分の顔をまじまじと見た。

 人の災いが降りかかってくるのは、いやだからね。今のうちから自分らしさをちゃんと心得ておこうかな。う〜ん、でも、だいたい、自分らしさって、どこから考え出せばいいのかな。自分らしさっていうぐらいだから、ありのままの自分そのもの、って感じかな? そうなら、本当に最初っからってことかな? でも、産まれてすぐのことなんて覚えてないし、ママのお腹の中にいたころのことも、考えなきゃいけないのかな。それだったら、ママからいろいろと話を聞かなきゃいけないな。それと、小さいころの写真とかも見ないと。そのあとの自分は、自分で覚えてるけど、でもそれも、なんとなくって感じだから、ママやアカリお姉ちゃんに聞いて、こまかく確かめなきゃいけないか。パパにも聞いてみよっかな。

 わたしは、手鏡に映っている自分の顔を、また同じようにまじまじと見た。

 それにしても、この鏡ってのは、ほんっとに、ただ自分の顔が映ってるだけなんだよね、これ。でも、なが〜く見ていると、とぎれとぎれに不思議なことがあって、例えば、ちょっとばっかし、ブサイクかな?って思うと、なんだかほんとうにブサイクに思えてくるし、逆に、わたしの顔って、もしかしたらきれいかも、ってほんの少しでも思うと、ほんとうにそんな気がしてくるし。う〜ん、そういえば、さっきの自分らしさって、小さいころの写真を見ようと思ったり、ママやお姉ちゃんに話を聞こうと思ったりしたけど、なんだか、いかにも、こしらえようとしてるって感じがするな。わざわざ、話を聞きに行くんだし、小さいころの写真を、部屋の奥から出さなきゃいけないんだし。まるで、得体の知れない犯人を探し出そうとしてるみたいに思えてくるよ。いざ、ありのままの自分を探し出してこしらえる! ありのままをこしらえる! ありのままをこしらえるって、わたし、日本語、だいじょーぶだよね? 「こしらえ事」っていうのは、たしか、「つくりごと」っていう意味だったはずだよ。まあ、とにかく、自分らしさって、鏡に映ってないところまで見なきゃいけないから、なにやら不思議な気分になってきて、むずかしいなあ、まったくもう。

 自分の部屋を持ってからというもの、わたしは、部屋でのんびりとしているとき、こういうことを考えることが多くなった。

 コンコン、とノックする音がした。「ミキぃ〜、ちょっといいかな」って、アカリお姉ちゃんが来たみたいだったから、わたしはすぐに立ち上がってドアを開けた。

「来週のお盆、今年はけっこう親戚が集まるみたいで、それで、ママが、ちょっと手伝ってほしいことがあるって言ってるから。だから、っとお?」

 お姉ちゃんは言いさして、わたしの部屋をぐるりと見回した。

「へーぇ、ずいぶんと、ミキらしい部屋になったじゃない」

「どこが?」

「どこもかしこも、ぜーんぶ! かな。それより、いそいだ、いそいだ」

「ちょっと、どこが」

「それはね、……とか、……とか」

「えー、そんなこ……ない……うけど」

「……それから、……」

「……かなあ」

 結局、来週の盂蘭うらぼんに向けて、ママの手伝いをしているうちに、そのまま、この日は暮れたのだった。


 わたしは、自分の部屋で夏の夜を明かす。窓越しにちょうちんが見える。そして、朝を迎えた。

「今日は、にぎやかになりそう」

 寝床から起き、手早く着替えて、ドアを開けて部屋を出た。

 今日は、盂蘭うらぼんの日だ。

 わたしたちの家に、遠くから、親戚のおじさんたちがやって来る。

 その集まる人たちを説明すると、まず、ママのお義兄にいさんには、二人いて、今日やって来るのは、上のヌルイ伯父おじさん。そして、そのヌルイ伯父さんのお母さん。それに、下の伯父さんの子どものタダシ兄さん。タダシ兄さんは、わたしとアカリお姉ちゃんのいとこにあたるかな。それから、あとは……、まっ、「集まる」といってもそんなに多くはないんだけどね。


 お昼前から、少しずつ親戚のおじさんたちが集まりだした。わたしは、アカリお姉ちゃんと一緒に、ママを手伝う。

 そして、昼過ぎに、みんなでテーブルのごそうを囲んだ。

「今年も、こうしてみなさんと顔を合わせることができました。カンパイ」

 パパの音頭で、お盆の集まり会が始まった。すぐに、ママ、パパ、親戚のおじさん、そういった大人の人たちは、改めていろんな挨拶を交わしだした。

 しばらくして、だいぶ落ち着いたかな、と思っていたら、

「ヌルイお義兄にいさん、最近、お仕事はどうですか?」

 と、ママが、ヌルイおじさんに酌をはじめた。

 すると、ヌルイおじさんは、あ、これは、どうもすいませんね、というしぐさを見せてから、

「まあ、なんとか、やってますよ。忙しいだけが取り柄の仕事ですがね。毎日、毎日、体を引きずりながら通勤して、それなのに、なんの病気もかかりゃしねえ。たまには、入院でもして、ゆっくり休みてえってくらいですよ、ほんっとに。おう、そういえば聞くところによると、オマエ、また仕事、やめたらしいな」

 ヌルイおじさんは、絡むような勢いで、タダシ兄さんのほうに話し相手を変えた。

「まあ、そうですが」

「ったく、よくもまあアッサリと言うよ」

 ヌルイおじさんがそう言うと、タダシ兄さんはまっすぐ見据えて、

「自分のポリシーに反することはしたくなかったんです。すぐ周りにホイホイ流される中身のない人間になんか、なりたくありませんから。自分らしさをなくしてまで生きるのは嫌ですよ」

 わたしは横を向いて、隣の席にいるアカリお姉ちゃんにひそひそと話しかけた。

「お姉ちゃん、ちょっと」

「うん、そうだね。すこし、張り詰めてきたよ、空気が」

 わたしたちをよそに、ヌルイおじさんが、タダシ兄さんを諭し始めた。

「まあ、そう言うのは聞こえはいいが、オマエ、たしか大卒で、としは、二十五ぐらいだったっけか?」

「そうです」

「そうですってんなら、ちったあ考えてみろよ。その自分らしさっていうのは、つまりは近代的自我といったところだろ?」

「まあ、そういうところです」

「なら、その近代的自我ってのは、藩や家といった集団から切り離して自分自身がどうあるかってもんだよな」

「それで、合ってると思います」

「よし、そんなら、順番にたどっていこうや。まず、その『集団』ってのは、今の時代で考えて子どもから大人の順にたどっていくと、大多数の人間が、まず家族という集団、次に学校という集団、その次には仕事先の大企業なり中小企業の集団に属するってなって、おまけに、生きている間はどこかの国家という集団に常におさまってるだろ」

「たいていは、そんなものですね」

「なら、そんなものですねの次!『集団から切り離した自分自身』ってのは、その人の性格らしきものだったり、あるまとまった考え方だったり、って精神的なものだろ。そしたらオマエ、物理的に体は何らかの集団に属しているのに、精神の心はその集団から切り離して外に出てなきゃならないんだぞ、これ。だろ? これじゃ、心と体がバラバラになるのは当然の帰結だろ。近代的自我をつくろうとすればするほど、集団の内にある体と、その集団の外にある心との距離が、どんどん大きくなって、それで、心と体はいよいよバラバラになるってわけさ。オマエ、そのうち、精神病でも患うぞ」

 わたしは、またアカリお姉ちゃんにこそこそと話しかけた。

「お姉ちゃん、キンダイテキなんたらってなに? それに、精神病だってよ?」

「わたし、今年、高校に入って、たしか、近代的自我って話、聞いたことあるような」

「お姉ちゃん、知ってるの?」

「ま、なんとなく、ちょっとだけかな」

 わたしたちのこそこそ話の遠く、隅っこで、パパは、黙って手酌をしている。その間にも、ヌルイおじさんとタダシ兄さんの、張り詰めた話は続く。

「大丈夫ですよ。精神病だなんて、大げさな」

「大げさなもんか。自分らしさ欲しさのために心と体がバラバラになって、そんな状態で平気でいられる芸当のできるヤツなんて、そうはいねえさ。それともなにか、集団と一体になっていながらにして、近代的自我をつくろうってか。そんな器用なマネ、いったい誰ができるってんだ。だから、大方のヤツは、なあなあにやって適当にごまかしながら生きるんだよ。そんでまあ、適当にごまかせなかったヤツが、心と体がバラバラになって体調不良を起こし、精神病扱いされた挙げ句、生産性なき社会不適応者のナマケモノの烙印らくいんを押されるってオチさ。ま、だから、こんな近代的自我やら自分らしさやらは、適当でいいんだよ、こんなの。まあ、ボ〜っとしすぎて、集団にすっかり取り込まれちまうのもだめだろうけどな。例えばよ、国家の理屈と一体になって、戦争によって生きがいだとか、本当の自我だとかを見つけた、なんて人間が大量生産されたら、すぐにでも総力戦の全面戦争になりかねないからな。それと、さっきの、『適当』を具体的に言うなら、そうだな、ま、例えば、人の話を聞いているような聞いていないような、理解しているような理解していないような、ってな感じだろうな。だいたいが、この国は、日本文化と欧米文化のツギハギ状態で、永遠の普請中なんだろうから、そういういい加減な態度ぐらいがちょうどいいんだよ」

 ヌルイおじさんが言い終えると、タダシ兄さんは、

「そうやって自分らしさをはじめとして、何もかもなあなあにして、生きる目的も特になく、結局のところ、欲望をただなんとなく満たすだけの人が多いから、世の中の矛盾はいつまでたっても、なくならないんです」

 と言って不服そうだ。すぐに、ヌルイおじさんが、オマエさあ、ってな顔つきで説き伏せようとする。そこへ、横からママが入ってきた。

「二人とも、まあまあ……。せっかく、お盆の日に、こうして集まったんですから、もう少し……、ね。さあさ、今日の日のために、おいしいお酒を、こうして用意してあるんですから、さ、お義兄にいさん、どうぞ、どうぞ」

「あっ、こら、すいませんね。いや、コイツがですがね、ちょっと」

 ヌルイおじさんは、ママのお義兄にいさんで年上なのに、そのママには低姿勢だ。

 ママは、ヌルイおじさんに酌を続ける。

「それにしても、今度の東京オリンピック、楽しみですわねぇ」

「そうそう、うちの母ちゃんなんて、青春時代のころの昭和の東京オリンピックは、秋のきれいな青い空の中を飛行機が飛んで、それはそれは、もう、って言ってなにやら遠くを眺めていてですね、この前。さぞかし、感慨深いものがあるんですよ。なあ、母ちゃん」

 ヌルイおじさんのお母さんは、笑うだけの返事をした。ママから聞いたことだけど、だいぶ物忘れが進んで、あんまりしゃべれないって言ってた。

「んっ、なんだ? タダシ、なにか言いたそうな顔だな」

 ヌルイおじさんがそう言うと、タダシ兄さんが話しだした。

「今度の東京オリンピックはとくに、また日本人の『近代的自我なんて嫌だ、集団に溶け込んで一つになるんだ、集団と一体化するんだ』という見ようによってはなんとも痛ましい表情が、応援や声援とともに、ズラリと並ぶんでしょうね」

「そりゃ、オマエ、東京は地方出身者の集合体でもあるんだから、そうなるさ。実家を離れ、故郷を後にして、一人暮らし。だから、オリンピックの国内開催地が東京というのは、人間の寂しさという面から見ても、いいことなんだよ」

「そうかもしれませんね」

「そうかもじゃなくて、……に決まってるさ」

「……それにし……」


 といった話が、日の傾くまで続いた。そして、夕暮れになって、お盆の親戚の集まり会は、お開きになった。

 わたしたちは、みんな、靴を履いて玄関前に出た。

「ほんとうに、今日はごちそうになりました」

「いえいえ、また、来年も、どうぞ」

「アカリちゃんも、ミキちゃんも、来年また、さらに、きれいになってるよ、きっと。じゃあね」

 ヌルイおじさんは、少し千鳥足だ。

「いやですよ、もう。お義兄にいさん」

 手を添えて、ママが、そう言う。

 親戚のおじさんたちが帰っていく。

 わたしは、見送りながら、アカリお姉ちゃんに話しかけた。

「ねえ、お姉ちゃん」

「なに?」

「さっきの、キンダイテキジガとかなんとかの話、なんだったの? わかった?」

「ああ、あれね。まあ、ところどころはわかったっていうか。でも、ミキは、まだ小学五年だから、わからなくてもだいじょうぶだよ。それにしても、あ〜、進路かあ」

 アカリお姉ちゃん! 目が遠いよ。わたしは、お姉ちゃんを見て、心の中でそう思った。

「目の遠くなったアカリお姉ちゃん、戻ってこい!」

 そして、あることを思い出した。

 そういえば、この前……。

 わたしは、それを話してお姉ちゃんをこっちに戻そうと思った。

「ねえ、お姉ちゃん、この前、彼氏とデートしたって言ってたよね?」

「うん、そうだけど」

「どんなことしたの。ちょっとでいいから、教えてよ」

「それは、いいけど、また明日ね」

「今日がいい!」

 見ると、アカリお姉ちゃんは、こっちの世界に戻ってきたようだった。

「ちょっとどころか、じっくり話してあげるから、明日ね。ミキが、新しい部屋を持ってから、ゆっくりと話、あんまし、しなくなったってのもあるし」

「ほんと? じゃあ、明日にする。ぜったいだよ!」

 玄関を閉め、静まり返った居間に戻って、わたしたち家族は、みんなで後片づけにかかった。そのあと、わたしは、眠くなって自分の部屋に戻った。

「キンダイテキなんたらの話、よくわかんなかったなあ。お姉ちゃんは、少しわかってるようだったけど……。でも、わたしには、ちっともわかんないから、もうどうでもいっか」

 今日の夜も、一人で寝た。


 明くる日、わたしは、デート話の約束を忘れずに覚えていた。

 寝床から起きて、軽く着替えながら、

「デート話、デート話っ」

 とボタンをかける手も、どこか浮つき気味だ。

「よしっ!」

 ドアを開けて自分の部屋を出た。


 朝ご飯を、家族みんなで食べる。

 箸を口に運びつつアカリお姉ちゃんと話しているうちに、デート話は、お姉ちゃんの部屋で聞くことになった。

「ごちそうさま、っと」

 わたしは、食べ終えたお皿を手に持って台所の洗い場に向かう。

 水の流れる音を聞きながら、

「わたし、まだ、一度も男子と付き合ったことないけど、どんな感じなのかな」

 と手をぬらす。

 一枚、また一枚とお皿をすすぐ。

「はい、おしまい。いざ、デート話!」

 すべて洗い終えて、お姉ちゃんを待った。

 しばらくしてから、

「じゃ、聞かせてあげましょうか、ミキ」

 アカリお姉ちゃんはそう言って、自分の部屋に向かっていく。

 わたしも、お姉ちゃんの部屋に向かった。


 アカリお姉ちゃんの部屋に入ったなり、わたしは、

「ねえ、はやく、はやく」

 と、お姉ちゃんをせき立てた。

「まあ、そう、あわてなさんなって」

 お姉ちゃんは、なにやら、わたしをじっと見て、

「ミキ、わたしの部屋って、ミキのとけっこう違うでしょ?」

「うん、まあ、わたしは小学五年で、お姉ちゃんは高校一年だもんね。自分の部屋を持つまで、お姉ちゃんの部屋、あんまり気にしてなかったけど」

「でしょ。そこがね、昨日きのう、言ってた『近代的自我』の」

「お姉ちゃん! そんなキンダイテキなんたらより、デートの話!」

「はいはい。わかりましたよ。せっかくだからと思って、昨日きのうの夜、ミキにもわかるようにって考えたのに。まあ、いっか」

「そう、いいの、いいの」

「それでは、デートの話といきますか」

 アカリお姉ちゃんも、わたしも、お互いに向き合って座った。

 そして、お姉ちゃんは話しだした。

「ん〜と、どこから話そうかな。といっても、学校帰りにいっしょにちょっと洋服を買いに行っただけなんだけど。この町、唯一のショッピングモールにね」

「いいなあ。わたしも、そういうところでデートして、いっしょに買い物したりフードコートでおはなししたりしたいなあ」

 そう言いながら、わたしは、未来の自分のデートぶりを想像してみた。どんな感じかな? なにはさておき、まずはちゃんと話を聞いてくれる人がいいかな。それに……、

「それでね、ミキ」

「うん」

 お姉ちゃんが話を進めるので、わたしは聞くことに集中した。

「そのデート話なんだけど、先にね、彼の洋服を見て回って、その次に、わたしの洋服を、彼と二人で話しながら選んでたんだけど、そのときに彼が、『こうして女物の服を見てると、懐かしいというか、落ち着くというか、まるで、女の世界から追放された元女のような気分になってくる』って言ったの」

「わたしのクラスの男子に、そういうこと言う人、いるかなぁ?」

「ミキは、まだ小学五年でしょ。たぶんいないわよ、そんな男の子。それでね、彼がそんなこと言うから、へーえ、そんなふうに思うんだあって、横顔を見てたら、彼ね、女性下着売り場の方を横目でちらっと見たの。だから、わたし、少しからかってやろうと思って、『ははあ、君は、さては、産み落とされたときの、母親の体液が、まだ体にた〜っぷり残ってるのかな?』って言ってやったんだ。そしたら」

 わたしはもう、黙って聞くことにした。

「そしたら、彼は、んと、『そうかもしれない』って言って、そんなに焦った感じはなかったんだよ。そんなんだから、わたし、もうちょっと言ってやっても大丈夫かな?と思って、勢いづいちゃって、『じゃあ、君を、追放される前の女の世界に戻すために、わたしの唾液と体液でい〜っぱいにしてあげよっか。あっ、わたし、体育会系で男っぽいって言われることあるから、逆に、キスするたびに男らしさが移って、君は、女の世界から追放されたとかいう気分はしなくなるかもよ? まあ、どっちにしろ、わたし、頭くるくる回して胸トキメクだけの恋愛なんて、やだからね。オコチャマじゃないんだし』ってなことを言っちゃったよ。……ミキ? 聞いてる?」

「聞いてるよ! だいたい、その彼氏さんは、なんでお姉ちゃんと付き合ってるの? 他の女の人とちがう何かを感じ取ったから、その彼氏さん、お姉ちゃんと付き合ってるんでしょ?」

「彼が、わたしのどういうところを好きに思ってるかってことね?」

「そう、それ。男の人がどういうところを見てるか、知っておきたいし」

「そうね〜。たしか、前にわたし、彼に聞いたこと、あるんだ、『どうしてわたしと付き合おうって気になったの?』って。そしたら、彼、言うには、『昔、剣道やってたことがあってさ。で、その、剣道って防具つけてるから、相手の顔の表情ってわかんないんだよ。それで、どこを見るかっていうと、例えば、体の動かし方だったり、それも、動く初速の速さとか、軌道とか、緩急のかかり具合とか、それから、心拍数とか、呼吸するときの体全体の膨らみ具合とか。わかる? アカリ。そんな感じだから、顔の見た目とか、そういう平面的なところは、あんまり細かく見ないんだ、自分の場合。でも、全体の体つきは見るかな、顔も含めて。骨格やら、その骨格の縦横比やら、それと、一つ一つの骨の縦横比も見るかな? それから、三次元的というか立体構造の輪郭とか。そういうのが、よかったからかな。あと、全体的な雰囲気もいいかな。なんか、三、四種類のいい雰囲気があって、それが、不規則に変わったりするところとか』って言ってたな、彼。わたしも体育会系で、スポーツの一対一の対戦をするから、わからんでもないけど、そういうの。向かい合っただけで、自分と相手の実力差とか、相手がどう攻めてくるかとか、すぐにわかったりするから。まっ、わたしの運動神経の動きの良さにかれたのかもね。プラス、全体のバランスがいいのかな?」

 そのまま、アカリお姉ちゃんは、わたしの目を見つめて、

「わたしの彼、ちょっぴり変でしょ」

 そうだよね、って同意を求めてきた。お姉ちゃんの目、力が入ってるよ!

 わたしは、どう返していいものやら返事に困って、そして、「わかる、わかる」とも答えられずに、お姉ちゃんを見ていた。

 そしたら、そのお姉ちゃんは表情を変えた。

「なに? そのビミョ〜そうな目は! そうか、ミキは、まだ小学五年だったね。まあ、このデートのときはちょっとばっかし、調子に乗ったというか、勢いづいたところがあったけど、でも、いつもはそんなことなくて、少なくとも、彼と違ってわたしはフツーだよ。フツウ!」

 お姉ちゃん、少し怒っちゃったみたい。

「バイバイ、お姉ちゃん」

「ちょっと、待ちなよ、ミキぃ」

 引きとめようとするお姉ちゃんを振り切って、わたしは部屋を出た。

 今度は自分の部屋のドアを開けて、自分の部屋に入った。

 わたしは、窓越しに外の景色を眺めて、ぼーっとしてみる。セミは、まだ鳴いている。

 そのあと、部屋の入り口のドアを見つめた。

 昨日、ヌルイおじさんとタダシ兄さんの、キンダイテキなんたらっていうよくわかんないことがあった。今日は今日で、アカリお姉ちゃんの部屋で変なデート話を聞いた。忘れかけてたけど、パパのことも……。ほんと、このドアの向こうは、ヘンテコなことでいっぱいだよ。

 不思議な世界なのかな、小学五年のわたしには。

 おまけに、わたしはわたしで、自分の部屋で考え事をしてると、自分らしさとか謎めいてくるし。

 う〜ん、よくよく思い返してみたら、今こうして自分の部屋にいるけど、この自分の部屋に外から戻ってくるとき、ドアを開けたその向こうは自分の部屋だし。そして、そのわたしの部屋には、不思議に思えてくる自分らしさがあって。

 もしかして、お姉ちゃんからしたら、わたしのこの部屋も、わたしのことも、どこか不思議だったりするのかな?

 なんだかもう、あっちのドアの向こうも、こっちのドアの向こうも、それに、どっちからはいりしても、不思議なことがいっぱい出てきそうで、バタンと倒れそうだよ。

 わたしは、その場にバタンと横になって、大きく伸びをした。

 よしっ、明日も、あさっても、その次の日も、ガンバルぞー!

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扉の向こうは普請中 大野城みずき @oonojou_mizuki

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