気仙沼時代18 2014年09月17日(水)

 親戚に大人になってから会うのは久しぶりだった。


 それぞれに家族が出来てて大所帯(おおじょたい)になった。家にこんなに人が押し寄せるのは久しぶりだった。


 懐かしい、いとこの顔もその子供までも居た。


 最近読んでる本がこれなんだとか、タバコを節約するために手巻きタバコにしたんだとか、そんな話で盛り上がった。


 悲しそうにしてるのは父だけだったように思う。


 父は半(なか)ば祖父に死んでもらいたくて、祖母に生きて欲しかったんだろう。


 何かと可愛がられたのは祖母だけだった。祖父から父は愛情など一切受け取ってはいないのだ。


 率直に言おう。私は祖母が大嫌いだった。母を虐(いじ)めてこき使ってたのは祖母だからである。


 祖父も同様だが、祖父には金があった。金離(かねばな)れも良い人だった。それにこの頃ではボケて来ていて、昔のような威嚇(いかく)してくるような扱いづらさはなくなっていた。



 祖母が死んだ時、棺桶(かんおけ)にご家族の方と呼ばれて、進んで前に出る人は居なかった。


 みんなそぞろと覚束(おぼつか)ない状態で「私は家族でいいんだよな。」といった具合で集まり、祖母の棺桶(かんおけ)と一緒に車に乗り込もうとしたのは父だけだった。


 その背中があんまり小さかったのを可哀想(かわいそう)な目で見つめた私である。


 祖母の葬式は震災と重なったこともあって冷遇(れいぐう)された。お堂で立派にお経を読んでもらえたし戒名(かいみょう)もついたのだから良いのだが、霊柩車(れいきゅうしゃ)には乗せられなかった。


 白いバンに父が遺影(いえい)を持って乗っただけだった。そんな移動の最中に、次のご遺体(いたい)のために霊柩車(れいきゅうしゃ)は私らの乗る車とすれ違った。


 あんまりだと思ったが、そうだったのだ。



 私は母を手伝って親戚のお世話をした。宴席(えんせき)では碌(ろく)に食べずに配膳(はいぜん)に回った。


 私は口々に父に似て来たと言われたが、実際話すとお母さんの雰囲気だねと言われた。


 父に似てると言われて心外(しんがい)だったし、母に似てると言われて嬉しかった。



 葬式の最中(さなか)、肉類を食べられないのが辛(つら)かった。私はいとことコンビニに行って肉っ気のあるおにぎりなんかを買って来たが、まだ食べちゃだめだよ。と母に釘を刺された。


 でも、いいやと食べてしまったのを覚えている。それでか知らないが不思議な感覚に見舞(みま)われるのだった。



 親戚が帰った後も、毎晩のように、祖母が死んでから、丑の刻参り(うしのこくまいり)をされるのだ。


 丑の刻(うしのこく)と決まったわけではないのだが、近隣(きんりん)から忌(い)み嫌われ、疎(うと)まれていた家庭だったから近所の人が嫌がらせをして来るのだと、私は思った。


 仲良さそうにしてても隣の家からも外からも聞こえて来るのである。


 本来(ほんらい)丑の刻参り(うしのこくまいり)は殺したい相手が生きてるうちに、悟られないように呪う儀式(ぎしき)だが、私の耳には聞こえて来るのである。


 今考えると、これが幻聴の始まりだったかもしれない。


 私は母を連れ立って、外に人が居るだとか、この音だとか言って騒(さわ)ぐようになるし、机に座ってバイクが一斉に押し寄せて来て怖いと言い、母に手伝ってもらって外に出るとただの暖房(だんぼう)のエンジン音だったのに、私の頭には厳(いか)つい暴走族(ぼうそうぞく)のバイクの音に聞こえていたのだ。


 そんな現実と非現実の境(さかい)がこれから如実(にょじつ)に現れるようになる。


 しかしながら、私はまともだった。最初におかしくなったのは父である。


 父は発狂(はっきょう)して自我(じが)を崩壊(ほうかい)させて自分が誰かもわからなくなった程であったし、自殺未遂をしようと神社の高台に一人で駆け上がったこともあったし、母の兄が母にプレゼントしたという、土産物(みやげもの)の置物(おきもの)をライターで炙(あぶ)り出したりする。


 家の中でだ。よっぽど、母の兄が気に入らなかったらしい。


 葬式の香典(こうでん)で喜ばしいかのように10万円包まれたこともそうだし、祖母の葬式をカメラマンみたいに撮られたのも嫌だったのだろう。


 しかし、父も若い頃母の父がなくなった時、カメラ片手に葬式に出向いて色々撮って回ったらしい。


 つまりお返しされたのだ。私は母が祖母から開放されて嬉しかったし、母の兄も同じ気持ちだったことだろう。


 つまり、祖母の死は父だけが悲しく、他の家族には嬉しい出来事(できごと)だったのだ。


 祖母は今際の際(いまわのきわ)に叫んだらしい。「あの男だけは許さない。」と、それは祖父のことである。



 祖父母は時代には珍しく恋愛結婚だったらしい。祖父は祖母にものすごくアプローチしたんだそうだ。


 でも結婚してから手の平を返されて泣く泣く暮らしたそうだ。


 まぁ、脱線(だっせん)したが、父は震災で多くの親戚を失うし、最愛の祖母も亡くなるしで半狂乱(はんきょうらん)だった。奇行(きこう)が目立ち、落ち着かなかった。それを宥(なだ)め賺(すか)してなんとかしたのは私である。


 警察を呼んだこともあったが、父を見てはくれないようだった。一時期、父も病院に入る。


 だが父は酒を絶たなかったし、薬もちゃんと飲まなかった。祖母の死をどうにかして受け止めてからはなんてことない普通の父に戻ったが、一時期はどうなることかと思われたし、私が病気で苦しんでるのは祖母から父へ、父から私へと遺伝した変な血なんだとよくよくわかった。


 父は一般人として認められているが、私の方が正常だし、冷静だった。病気を自認しているし治そうと服薬(ふくやく)もしてる。でも父はそうではない。


 やっぱりどっかおかしい人だと冷たい視線を投げかけてる。



 父が自殺しようとした時、止めたのは私だが、そのまま死なせてあげれば良かった。


 というか、死んで欲しいと止めたのを後悔する日が来るのも、ここからそう遠くはない未来である。

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