気仙沼時代19 2014年09月21日(日)

 震災に遭(あ)って、大変だったのは安否確認である。


 私は知り合いが多い方ではなかったが、働いていたスーパーマーケットの人やケーズデンキの人たち、それにスケボー仲間や古着屋の29、クラブで一緒に踊ったALTの外国人たちといった人々の安否が心配だった。



 奇跡的に全員無事であった。スナックのママたちもフィリピン人の31もみんな元気であったし、家族を失ったとか悲しい事は聞かされなかった。それは本当に運が良かったのである。


 元々(もともと)気仙沼に居た人だったから、津波の恐ろしさをみんな知っていてちゃんと対処したということだったのだろう。ALTの外国人たちは皆、小学校に勤務していたから子供の避難(ひなん)と同時に助かったということだった。



 しかしながら、私にはまだ確認したい人がいた。彼女のことである。


 14と連絡を取って、無事だったと伝えたが同時に彼女の事が気になると伝えたが「こっちはそっち程(ほど)酷(ひど)くはないから大丈夫だよ。」と、探してもらうわけにはいかなかった。


 私はこの頃、Twitterにアメブロ、Facebookを駆使(くし)して現場の状況をとにかく人に伝えたし、原発の是非(ぜひ)や、核融合(かくゆうごう)の是非(ぜひ)について真剣に考えて投稿した。


 政治家にも手紙を書こうと決めていたが同じ手紙を4通も作る事に難儀(なんぎ)し私の見解とこれからを訴(うった)える内容の手紙はデザイナーの川崎和男さんにしか書けなかった。


 しかし、アメブロで原発関係で働いてるという方にその手紙の内容を見てもらったり、一般化してFacebookに載(の)っけて、翻訳(ほんやく)してもらい海外の方に見てもらったりまでしていた。



 するとどうだろう。ドイツのメルケル首相は原発の順次停止を確約(かくやく)した。正しい意見は受け入れられると、非力な一般人にもできることはあると知った出来事(できごと)だった。


 この頃メディアに取り上げられた小出裕章先生が私は一番まともな事を言っていて、私の心と通じる活動家だと思って熱心に彼の言葉に耳を傾けたものだった。


 同時に原発推進派(げんぱつすいしんは)の意見を聞かない訳ではなかった。確かに高騰(こうとう)する燃料費は馬鹿にならないし、今回のような災害に見舞(みま)われなければ原発は性能の良いものなのかも知れないと思わないではないのだ。もっと安全に作れるというのであれば、原発にも未来はあるのか?


 核融合(かくゆうごう)はどうなんだ。いったい原発の比じゃないエネルギーを供給できる代物(しろもの)が大破(たいは)した時、原発よりも被害が小さく済むなんておとぎ話を本当に信じていいのか?など疑問(ぎもん)が尽きなかった。自分では結論が出せないのだ。


 しかし、日本にはどちらも向かないエネルギー政策だと思う。地震(じしん)の方がなくなってくれる事は未来永劫(みらいえいごう)無いからだった。



 そうやって私は新聞配達をしながら余った時間はネットで小さな声を拾い上げては自分でも政治に対して意見を言うようになった。


 特にこの頃感じたことは若い人の意見というのは年配(ねんぱい)の人には余り受け入れられなくて、温度差があるということだった。


 年配の人には危機感(ききかん)というのがまるでなかった。家に居ても父や母と話すだけでウンザリするようなことがしばしばだった。考え方が合わないし、通じないのだ。


 やるせなかったと同時に、大きく失望したものである。



 他にあったことと言えば、M3との10年後に託(たく)した手紙がこの時27才で9年後であったが


 「来年、荒浜海岸で落ち合うことは絶望的になったな。」と、メッセージでやり取りして、「もう手紙開けるな。」


 と言ってお互いに封を切ったのだ。手紙には私が世界を敵に回してもM3は私の作った服でステージに立ちたいと書いてあった。それからおまえは少し変な奴だとも書かれていた。


 でもずっと友達だよと結んであった。


 本当に世界中を敵に回すようなTシャツを作っていただけに泣けそうなくらい嬉しかった。


 M3が私の手紙を読んで、どう思ったのかは全然わからない。というのもこれがM3との最後のコンタクトになった。その後はM3と言葉を交わさずに今に至る。


 Tシャツは一枚こっきりしか作れなかったし、M3には渡さなかった。


 仙台で21も元気に働きだしたのを見つけて21に渡し、量産しようとまたTシャツ代を貯める日々だったのだ。



 もう一つ書いておきたいのは「27才から車に乗り始めるのが一番事故率が少ないんだよ。」と言って、両親が私に車を買ってくれたことだ。「HONDAが良い。」と言いはしたが、車種を選べることはなく、三菱のminicaを買って貰(もら)った。だから私はK-Waveまで自転車ではなく自動車で行って、スケボーをするようになった。自転車では坂がきつくて大変だったのである。



 そして、時間が余ってるものだから、この車で色々と宛(あ)ても無く遠出(とおで)することも多くなった。

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