第5話

 結局、そのまま藤堂先生と話をすることなく夏休みを迎えた。

 うだるような暑さの中、涼しさを求めて行った図書館からの帰り道――見覚えのあるシルエットが目に入った。


「藤堂、先生……」


 私に気付くことなく藤堂先生はどこかへと歩いて行く。

 こんなにも近くにいるのに、話しかけることすら出来ない。


「なんで……」


 好きだと、気付かなければよかった。

 そうしたらあんな噂なんて笑い飛ばせたのに。

 今だって、何も考えずに話しかけることができたのに……。


「っ……」


 溢れ出る涙を隠すように、しゃがみ込む。

 足元のアスファルトには、ポタポタと零れ落ちた涙が黒いシミを作っていた。


「藤堂、先生……」


 名前を呼んでみても、あの時のように藤堂先生が振り返ってくれることはない。

 胸が、苦しい。

 こんなにも、こんなにも好きになってるなんて、思ってもみなかった。


「こっち、向いてよ……せん、せ……」

「――どうした?」

「え……?」


 顔を上げると、そこには――心配そうに私を見つめる、藤堂先生の姿があった。


「どうし、て……」

「……呼んだだろ」

「っ……」

「奥村の声が聞こえた気がして、振り返ったらしゃがみ込んでたから。……大丈夫か?」

「だいじょ……っ……」

「お、おい!」


 慌てて立ち上がった私は――目の前が真っ暗になった。

 倒れる……! そう思った私は思わず目を瞑る。

 けれど――。


「え……?」


 いつまでたってもアスファルトとぶつかる衝撃が来ることはなく……不思議に思ってそっと目を開けると、私の身体は藤堂先生の腕の中にあった。


「大丈夫か!?」

「は、はい……」


 慌てて離れようと藤堂先生の身体を押しのける……けれど、勢いよく動いた私を再び眩暈めまいが襲う。


「っ……」

「……送っていく。歩けるか?」

「え……?」

「家、こっち? それとも……」

「だ、大丈夫です!」


 藤堂先生に迷惑をかけるわけにはいかない……。

 慌てて離れようとするけれど、そんな私の腕を藤堂先生は掴んだ。


「無理するな。……行くぞ」

「あ……」


 強引に、でも優しく私の腕を握りしめたまま藤堂先生は歩き始める。

 その手の温もりが、ひんやりと冷たい私の腕に伝わって……。


「藤堂、先生……」


 これ以上は、ダメだ。

 私のせいで、藤堂先生に迷惑をかけてしまう。

 そう頭ではわかっているのに……一度走り出した感情は、止めることができない。


「おくむ――」


 なかなか歩き出さない私を不審に思った藤堂先生が振り返ろうとした瞬間――私は、その背中に抱き付いた。


「好きです」

「え……?」

「藤堂先生のことが、好きです」


 藤堂先生が、息を呑むのが分かる。

 拒絶される――そう思った私は、必死に笑った。


「なん、ちゃって! ビックリした?」

「奥村……」

「だ、ダメだよーちゃんと笑ってくれなきゃ洒落になんなくなるじゃん」

「っ……」

「ちゃんと笑って、それで……ちゃんと……」


 泣くな。

 泣いちゃ、ダメだ、


「ちゃんと、フッてくれなきゃ……」


 必死に堪えようとした涙が、頬を伝う。


「諦め、られないよ……」


 涙を拭おうと藤堂先生から手を離す。必死で笑う私を――振り返った藤堂先生は抱きしめた。


「な……」

「――黙って」

「っ……」


 藤堂先生の心臓がドキドキと音を立てているのが分かる。少し汗ばんだシャツから、藤堂先生の臭いがする。私を抱きしめた腕の力が痛くて、心地いい。ずっと、ずっとこのままいられたら……。


「せん、せ……」


 どれぐらいの時間そうしていただろうか……。

 じっとりとした暑さに顔を上げると――困った顔で微笑む藤堂先生の姿があった。


「……帰れるか?」

「はい……」


 さっきまでの出来事が嘘のように、私たちは歩き出す。

 どうしてあんなことをしたのか聞きたかったのに、何も言えないまま――。


「ありがとうございました」

「あんま無理するなよ」


 じゃあな、と言って藤堂先生は背を向けた。


「あの……っ!」

「――ごめんな」


 思わず呼び止めた私にそう言うと……振り返ることなく藤堂先生は去って行った。

 ごめんねの意味が分からないまま、私はその背中を見送ることしか出来なかった。

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