第4話

 翌日、いつもより早い時間に目が覚めた。

 期待していたわけじゃない。でも……もしかして、に賭けて私はいつもより早く家を出た。


「あ……」


 いた……。

 学校へと向かう道のりで、私は見覚えのある後ろ姿を見つけた。少し寄れたワイシャツ、ふわふわの猫っ毛。寝癖だろうか、跳ね上がった髪の毛すら可愛く思えてしまう。

 いったいいつからだろう。こんなふうに、他の先生を見るのとは違う目で藤堂先生を見てしまうようになったのは。

 先生なのに。

 生徒なのに。

 気付いた感情が、どうしようもなく、押さえられない。


「藤堂、先生……」

「え?」

「あっ……」


 思わず呟いた声が聞こえたのか、藤堂先生は私の方を振り返った。私の姿を見つけると、手をあげてにっこりと笑う。その頬にはいつものようにえくぼ。そんな些細なことにさえ、胸がキュッとなる。


「お、おはようございます」

「おはよ。早いな」

「目が覚めちゃって」


 苦しい言い訳だろうか……。

 追いついた私に、藤堂先生は大丈夫か? と、言った。何の話だろうと首を傾げた私に、藤堂先生は言葉を続けた。


「昨日、具合悪そうだったからさ」

「あ、えっと……」

「ごめんな、気付いてやれなくて」


 申し訳なさそうに藤堂先生が言うから、私は慌てて首を振った。違うんです。具合なんて悪くないんです。ただ、あなたへの気持ちに気付いてしまって、どうしたらいいかわからなくなってしまって、衝動的にあんな態度を取ってしまったんです。そんな顔をさせたいわけじゃないんです。

 言いたいことはたくさんあった。でも、そのうちの一つも伝えることができなくて。私は誤魔化すように笑うことしかできなかった。


「大丈夫です! もう元気ですから!」

「ならいいんだけど」

「はい! 今日もよろしくお願いします!」

「おう」


 クスクスと笑うと藤堂先生は歩き出す。

 その隣を私は歩く。

 何か喋らなければと思えば思うほど、言葉が出てこない。本当はいろいろ話したいのに。藤堂先生のこと、もっと知りたいのに。

 結局、なんとか絞り出したのは、本当に他愛もない話題だった。


「……先生って歩きなんですね」

「ああ、免許はあるんだけど車を持ってなくてな」

「そうなんですね」

「ああ……」


 上手く会話を続けることができない。クラスメートとならもっと気軽に話せるのに、藤堂先生とだと……。


「……あのっ」

「ん?」

「いえ、なんでもないです」

「そっか」


 それっきり藤堂先生も口を開くことはなかった。

 私たちは黙ったまま学校へと向かう。

 普段はお喋りな私なのに――藤堂先生の隣では、何故か言葉が出てこない……。

 本当はもっともっと話したいのに……。


「――んじゃ、俺職員室行くから」

「え、あ……はい。また放課後に」


 その声にハッと辺りを見回すと、いつの間にか学校へと着いていた。

 じゃあな、と手を振って、藤堂先生は職員室へと向かって歩いて行く。

 名残惜しげにその背中を見つめていると――突然、藤堂先生が振り返った。


「え……?」

「っ……」


 藤堂先生は私と目が合うと、慌てて顔を逸らしてしまう。そして――今度は振り返ることなく、歩いて行った。


「心臓、うるさい……」


 静まらない心臓の音が、いつまでも私の中で鳴り響いていた。



***



 藤堂先生のおかげで、少しずつ数学が楽しくなってきていた。

 そんなある日、私は昼休みに皐月先生に呼び出されていた。


「失礼します」

「おう、来たな」


 職員室に入ると、先生たちの視線が私に向けられた気がした。

 ……どうして?

 居心地の悪さを感じながら、おいでおいでと手招きをする五月先生のもとへと足早に向かう。途中、五月先生の後ろの席を見たけれど、藤堂先生の姿はなかった。


「……数学はどんな感じだ?」

「え?」

「少しはマシになったか?」

「あ、はい! 少しずつですけど解ける問題が増えてきました!」

「そうか……」


 珍しく皐月先生の歯切れが悪い。

 いったいどうしたというのだろうか……?

 仏頂面をさらにしかめると、言いにくそうに五月先生は口を開いた。


「……先生?」

「単刀直入に言う。今な、学校で嫌な噂が流れている」

「嫌な、噂?」

「放課後の教室で、お前と藤堂先生がその……いかがわしいことをしているという噂だ」

「なっ……」


 思わず言葉を失った私に、皐月先生は申し訳なさそうに言う。


「もちろんそんなことはないと分かっている。そもそも数学を教えてもらうように言ったのは俺だからな。でも、それを聞いても納得しない人がいる。……藤堂にも誤解されるような行動を本当にしていなかったかと注意したところだ」

「そんな……」


 さっきの視線は、そのせいで……?


「中途半端な状態になって申し訳ない。まだあと一週間残っているが……特別授業は終わりにする」

「え……?」

「もう藤堂先生には伝えてある。まあ、夏休みを挟めばこんな噂も消えると思うから――」

「でも……!」


 話を終わらそうとする皐月先生の言葉を遮った私に、冷たい視線を向けられた。それは五月先生からではなくて、職員室にいる他の先生からのものだった。

 五月先生は黙ったまま首を振る。そして「奥村」と私の名前を呼んだ。


「問題、ないな?」

「っ……」

「ないならこの話は終わりだ。もう行っていいぞ」

「……失礼、しました」


 トボトボと職員室から出ると、私は教室へと向かった。そんな私に向けられる視線に、嫌でも気付く。廊下で話している人が、教室にいる人が私を見ている。どうして今まで気付かずにいられたんだろう。それほどに、沢山の人が私を見てコソコソと何かを言っていたのに……。


「あ……」


 廊下の向こうから歩いてくる藤堂先生の姿が見えた。

 たしかに目が、あった。

 なのに――藤堂先生は私から目を逸らすと、何も言わず通り過ぎて行った。


「どうして……」


 その問いに……答えをくれる人は、いなかった。

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