第3話

「だから! なんでそうなるんだ。こっちがこうなら――」

「そっか!」

「そっか、じゃない。一回間違えたところは確認する」


 特別授業が始まって一週間が経った。放課後は毎日、藤堂先生のもとで数学のプリントを解き続けていた。藤堂先生は話し上手で、いろんな話をしながら私に解き方を教えてくれていた。けれど……。


「ホントに期末テストで挽回できるのかな……」


 休憩時間、思わず呟いた私を藤堂先生は自動販売機のボタンを押しながら、意外そうな顔で見た。


「えらく弱気だな」

「だってダメダメじゃないですか……」


 俯く私の手に、藤堂先生は何かを乗せる。これは……。


「イチゴミルク?」

「嫌いだった?」

「あ、いえ。……あ、お金」

「いいって。頑張ってるご褒美だよ」


 藤堂先生はそう言って教室に向かって歩き出す。私は、イチゴミルクと藤堂先生を交互に見て、それからにやつきそうになる顔を必死に抑えると、藤堂先生のあとをついて歩いた。


「――それで?」

「え?」

「何がダメダメなの?」


 教室に戻った私は席に着くと、机の上にあったさっきまで解いていたプリントを指さした。

 同じように向かいの席に座った藤堂先生は、コーヒーのパックにストローを刺しながら、私が指さしたプリントに視線を向けた。

 採点の終わったプリントは、相変わらず間違いだらけ。まだ赤点回避すら難しそうだ。あと一週間で本当に成績が上がるのだろうか……。


「でも、一週間前に解けなかった問題が今は解けるようになってるよ」

「えっ! ホントですか!?」

「こことか、初日のプリントにも同じような問題入れてただろ」

「どれです……か……」


 慌ててプリントを覗き込む……と、目の前に、藤堂先生の顔があった。思ったよりも長いまつげ、通った鼻筋、薄い唇、それから、目元に小さなほくろ――。


「っ……ご、ごめんなさい!」

「お、おお……」


 心臓が、ドクンドクンと大きな音を立てているのが分かる。

 落ち着け……落ち着け……。

 思わず顔を逸らしてしまったせいで流れた微妙な空気を追い払うかのように、ゴホンと咳払いすると藤堂先生はプリントを指差した。


「ほら、ここ」

「……ホントだ」

「奥村は他の教科がいいんだから、地頭は悪くないはずだ。数学は苦手意識もあるのかな? 解きながらテンパってるだろ」

「う……」


 確かにそうかもしれない。同じような数式を物理のテストで出されたら解けるのに、数学では間違えてしまう……。

 解かなきゃいけない、間違えちゃいけない、今度こそ、そう思えば思うほど間違いが増えていく。悪循環だとは思っている。でも、それでも数学の点数が取れないのだ。


「その苦手意識さえなくしてやれば十分点数は取れると思うよ」

「でも、どうやって……」

「うーん、たとえば数学と何か好きなものが結びつけるとか」


 数学と、好きなもの――。

 思わず顔を上げた私は、藤堂先生と目があった。

 数学と、好きな……。


「っ……」


 今、私、何を考えた……?

 好きなものって言われて、それで――。

 ううん、違う。今のは数学と藤堂先生が結びついただけで、好きなものと結びついたわけじゃない。

 そんなわけ、ない……。


「……どうした?」

「なんでも! ないです!」

「そ、そうか?」


 気にしないでくださいと言うと、少し不思議そうな顔をしながら藤堂先生は続ける。


「まあ最初は難しくても、ちょっとずつ苦手意識をなくしていくといいよ。あと深呼吸かな。テスト用紙をめくる前に深呼吸。落ち着いて、それから解き始める」

「深呼吸、ですか?」


 私の言葉に、藤堂先生はニッコリと笑う。藤堂先生が笑うたび、私の視線は彼の口元に浮かぶえくぼに目が奪われる。別に珍しいものでもないはずなのに、その頬に触れたくなるのはどうしてだろう――。


「自主学習で点数が取れるのに、本番になると解けないっていう子の大半は、緊張や焦りなんかから本来の力が出せないんだ。だから、一呼吸おいて落ち着く。これが大事だよ」

「そうなんですね……! わかりました。深呼吸、頑張ります!」

「……ふっ」


 私の返事を聞いた藤堂先生は、何故か笑っていた。どうして笑われたのかがわからず、首を傾げた私の頭を藤堂先生は優しくポンポンと撫でた。


「ホント、真面目だな。もっと肩の力を抜いてさ、気楽にやればいいんだよ。多少おちゃらけてる方が生きやすいぞ。俺みたいにね」

「そうかもしれないですね」

「お前、そこは『藤堂先生はおちゃらけてなんていませんよ!』って言うところだろ?」

「え?」

「えって……」


 ガックリと肩を落とす藤堂先生の姿に思わず笑ってしまう。そんな私につられるようにして、藤堂先生も笑った。

 ひとしきり笑ったあと、藤堂先生は私の方を見てぽつりと言った。


「奥村は、そうやって笑ってる方がいいな」

「え……?」

「あ……」


 藤堂先生の言葉に思わず赤くなってしまった私から目を逸らすと……藤堂先生は困ったように眉間にしわを寄せるとえくぼを浮かべて笑った。


「――なんて、な」


「…………」

「…………」


 沈黙が、私たちを襲う。

 でも、妙に甘ったるくて、気恥ずかしいこの沈黙は――不思議と嫌じゃなかった。


「……続き、しろよ」

「はい……」


 促されるようにして、プリントへと視線を向ける。

 教室にはカリカリとシャーペンがプリントの上を走る音だけが響く。

 時折聞こえてくる藤堂先生の息遣いに心臓が痛いぐらいにドキドキする。


「っ……」


 違う、そんなんじゃない。そんなわけがない。

 だって、先生だし。ついこの間まで存在も知らなかったのに、そんなこと――。


 心の中に湧き出てきた感情を、必死に否定する。

 でも、どうしても否定しきれない感情に、思わず頭を抱える。


「……奥村?」


 名前を呼ばれただけ。

 なのに、ただそれだけのことで……胸が締め付けられて、顔が熱くなる。


「どうした? 体調でも悪いのか?」


 顔を覗き込まれると――、心臓が壊れそうなぐらい激しく高鳴って、苦しい。

 こんなに近くにいるのに……。


「藤堂、先生……」

「奥村……?」


 無意識に、藤堂先生へと手を伸ばしていた。

 その手が、藤堂先生に触れた瞬間――私は弾けるように立ちあがった。


「奥村?」

「ごめんなさい! 今日は帰ります!」

「ど、どうした?」

「すみません!」


 私は鞄を掴むと、教室を飛び出した。

 廊下を駆けぬけて昇降口へと向かう。


「私の……バカ……」


 静まってほしいと思えば思うほど、心臓の音は激しさを増す。

 ダメだと分かっているのに、理性とは裏腹に、感情は叫ぶ。


「好き……」


 言葉に出してみたら、その想いは思ったよりもすんなりと、私自身の中へと入ってくる。

 違う、そうじゃないと否定してみたところで、一度湧き出た感情はどんどんと大きさを増していく。


「私、藤堂先生のことが……好き……」


 真剣な表情、笑い声、優しい笑顔……。

 思い出せば思い出すほど、胸が苦しくなる。

 藤堂先生のことを知ってまだたったの一週間。なのに、こんな……こんな……。

 行き場のない思いを抱えたまま、私は――その場に立ち尽くしていた。

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