火のないところに
ーー 変な1週間だった。
よくわからない週が過ぎ、待ちに待った週末がやってきた。
18時15分過ぎ、eauに飛び込んだ真希は、目の前のフルートグラスを
うっとりと見つめながら考えた。
ーー まぁいいやどうでもいいことだもの。それよりもこれよ。
グラスを傾けスパークリング日本酒を味わう。初夏の草原の香りとフルーツの
みずみずしい香り、その二つが合わさったような、澄み切った香りだった。
キンと冷えたその酒は、すっきりとのどごしが良い。グラスを持ち上げ、
注がれた酒をみながら真希はつぶやいた。
「不思議…。どうして、グラスに注ぐとほんのり青みを帯びて
みえるのかしら?」
「甕のぞきの青。」
と、マスターがいった。
「え?」
「日本の伝統色の色の名前で、藍染めの染め始めの色の名前ですが、由来は、
大きな甕に水満たしそれを覗くと水は無色透明のはずなのにほんのり青く
見えるんですがその色を示した言葉です。日本酒も無色透明、ものによって
やや黄味を帯びて見えますが、この酒は、不思議と青く見える。
それを甕のぞきの青と私たちは、呼んでいます。」
「素敵…。なんか、神秘的ですね。」
「ええ、いい酒です。」
マスターはにっこり笑った。そこでママさんも口を挟む、
「真希さんは、今年は付いていたわね。なかなか、このお酒の発泡酒に2回
遭遇するのは難しいのよ。去年から、待ち焦がれていた甲斐があったわね。」
「はい、また来年も会えるよう願っています。」
この日は、別の酒蔵の新酒を紹介され、ママさんと日本酒に合う料理について
話をし、20時前に腰を上げた。恐れていた悠人とは会わなかったので安堵した。
先週は、たまたま彼が早く来店してしまったのだろう。今週会社でやたら
遭遇したのは、eauへ来店する時間を外して欲しいという相談をしたかった
だけだろう。真希は、マスターがくれた瓶から剥がしたという「菫青」の
ラベルを見ながら、一人納得した。
週明け、月曜日は、書類仕事が多いため総務部は忙しい。
「今日は、まだ現れませんね。」
午後2時を過ぎた頃、隣席の奈々子が、真希に向かっていった。
「へ? 誰が?」
「あぁもぅ、市川さんですよ。」
「市川さん? 提出する書類がなければこないでしょう?」
「いや、なくても、来てたでしょう? 先週は…。」
奈々子がイライラしながらいう。その態度にちょっと怯んだが、真希は
取りなすようにいう。
「営業のエースだもん、忙しいのよ、外出しているかもよ。」
「午前中は、社内にいましたよ。」
「はぁー、奈々子ちゃん、その情報どこから。」
「色々。」
「ソウデスカ。」
「ほんと、真希さんってば、人ごとですねぇ。私独りで一生懸命になって、
はぁー。」
「(よくわからないけど)アリガトウ、そろそろ、仕事に集中しよっか、
今処理しているの、取りに来ているみたいよ。ほら。」
促すように視線を向けると、奈々子もそちらを見て、慌てて処理を進める。
よしよし、通常モードに戻った、この子は、真剣になると仕事は早いし、
的確だから、真希は、ようやく仕事に意識を向けてくれた奈々子を
見てほっとした。
しかし、奈々子はそれで終わらせる気は全くなかったようで、定時後、
真希を強引に会社から少し離れたファミレスに連れ込んで聞き取りを始めた。
「それで、一体何があったんですか?」
「何もないわよ。」
「何もないわけないじゃないですか。ねえ、真希さん。市川さんは営業の
エースで忙しい人です。それが、1日に何度も総務部に顔を出す。
もう、総務の女子達大変ですよ。彼が、誰を目当てに来ているのかって。」
「それが、私とは限らないじゃない。」
「まだ言います?私ずっと見ていたんですよ。市川さんが総務部に
入ってきたらどう動くか。」
「奈々子ちゃん…(仕事してくれ)。」
「何かありましたよね。切っ掛けになるようなことが、何です。」
「うーん、期待するようなことではないんだけどね。」
真希は、奈々子の勢いに押され、悠人にeauで会ったことを話した。
「ねっ、大したことないでしょう?」
話し終わった真希は、奈々子の顔を覗き込む。奈々子は、少し考えていたが、
独り頷くと、
「わかりました。お二人のことは暖かく見守らせていただきます。」
「奈々子ちゃん、何を言っているの?」
「大丈夫です。総務部に関しては、私に任せてください。二人の邪魔は
しないように手配しますから。」
「いやいやいや、奈々子ちゃん、二人の邪魔も何も、私たち何もないから。」
その後、奈々子は、真希が何を言おうと取り合わなかった。
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