彼の事情
翌朝、会社のデスクの前でカレンダーを見ながら真希は考えていた。
半年通ったけど、悠人はおろか、会社の同僚に会ったことはなかった。
恐らく時間がずれてたんだな。いい店だったんだけどなぁ、ちょっと会社から
外れてるから知人に会う可能性は低いと思ったんだけど、どうしようか、
暫く様子を見ようか、私の行く時間と重ならなければいいんだし、なにより
あのお店を失うのは惜しい…。
「…さん」
突然、声を掛けられた。吃驚して顔を上げると、そこには、悠人が立っていた。
「すみません、考え事をしていて、なんでしょうか。」
真希は、取り繕うように愛想良く尋ねた。悠人は、拍子抜けしたような顔で、
それでも、丁寧に手にした書類を渡しながらいった。
「これ、受け付けてもらえるかな。」
真希は、書類を受け取りざっと目を通した。そして、チラリと悠人を見ると、
もう一度今度は、丹念に読み直し始めた。書類に集中しているように
見せかけて、真希は、そっと、あたりを伺った。まわりの女子社員達が、
そわそわしている。そのうちの一人が、勝負に出たようだ。真希に
待たされている悠人に向かって声を掛けた。同じ総務部の佐藤公美香だ。
「お待たせしてしまっているようですね。済みません。なんでしたら、確認が
終わった書類、私がお席までお持ちしますけど?」
努めて愛想良く、やわらかな言い回しで、かわいらしく小首を傾げるのも
忘れない。悠人は、それに対して、優しくしかしきっぱりといった。
「いや、待たせてもらうから。大丈夫です。佐藤さんも、席に戻って仕事を
始めてください。」
「はぁ、はい。」
公美香は、きっぱり言われてしまい。仕方なしに自席に戻った。
様子を窺っていた周りの女子社員達の俯いている肩が震えている。
「すみません、お待たせしました。」
真希は、悠人に声を掛け、確認を依頼された書類を渡す。
「3,4カ所間違っていました。付箋をはってありますので、お手数ですが、
そこは修正して提出し直してください。この件は担当は、佐藤になりますので、
次は、佐藤にお渡しください。」
と告げる。それを聞いた公美香が、すかさず近寄り書類をのぞき見て
媚びるようにいった。
「この程度なら、こちらで訂正しておきますよ。」
ーー 余計なことを
真希は、内心舌打ちした。確かに、軽微なミスではあるが、それをこちらで
訂正してしまっては、同じミスを繰り返すことを助長するようなものだ。
しかし、それを遮るかのように悠人がいった。
「いや、この書類を作成したのは俺じゃないんで、作成した者に
渡してちゃんと見直し、訂正するようにいうよ。ありがとう。」
前半は、公美香に、後半は、真希に向かって書類を受け取り営業部に戻く、
その背中を見送りながら、周りがヒソヒソ、クスクスさざめいている。
悠人に公美香がいなされたことを嘲笑しているのだろう。公美香は、
肉食系美女というのか、イケメンに対する態度があからさまである。
それだけならいいが、同性に対して牽制も激しく、特に後輩にはきつく当たる。
よく言うところの異性の前では態度があからさまに変わる同性に嫌われる
タイプの美人である。
「佐藤さん、相変わらずですね。市川さんがフリーになった途端ことあるごとに
絡んでいるらしいですよ。」
隣の席の小林奈々子が小声で真希にいった。
ああ、そういえばそうだ。市川を巡るスキャンダル(?)が社内を駆け巡った
のは、つい最近だ。市川は、会社の花、受付の三浦花穂と交際しており、
社内公認カップルとまで言われていた。本社で一番お嫁さんにしたい女子社員と
女子社員人気トップ10(多分3位内は確実)のエリート営業。
二人の結婚は秒読みとまで言われたのに、突然花穂が退職した。
どうやら、別れたらしいという噂が浸透するころ、取引先の御曹司と花穂が
結婚したという情報が社内に投じられた。情報の出所は、結婚式に出席した
会社のお偉方の秘書のお姉様達である。
社長達が披露宴会場で撮影したデジカメのデータを秘書達に見せながら、これは、うちの元受付嬢ではないかと聞いたから間違いはない。
どうやら花穂は、来社した御曹司に見初められたらしい。そして悠人と別れ、
御曹司の胸に飛び込んだということだ。それを聞いた女子社員達中には、
いまさらながら花穂を責め、悠人に同情し、傷心の悠人につけ込む絶好の機会と
考えているものがいるらしい。佐藤公美香のように。
ーー そうなると、あの書類の担当 佐藤さんっていっちゃたけど大丈夫かな。
真希は、ちょっと悠人の心配をしたが、まぁ彼も大人なんだから自分で
何とかするだろうと思い、手元にある仕事に意識を集中した。
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