第93話 死も二人を分てない

 背中でリエーフさんの叫び声が聞こえた。だけどそれはすぐに風が唸る音へと変わる。


 成す術もなく落ちていく私の体は、このままだと無残に打ち付けられて死ぬだろう。でも怖くない。もちろん、死ぬ気もない。だってそんな覚悟なんて要らない。


 必死に目を見開き、一点を見つめる。声にならない声を振り絞って、その名を呼ぶ。


 伸ばした手の先で、群がっていた死霊が一斉に吹き飛んだ。辺りを塗りつぶすくらいの緋色の雨を、黒い影が裂く。それは瞬く間にこちらに近づいて、落ちていく私の体を受け止めた。


「本当にお前は……目を離すとロクなことをしない……ッ!」


 不機嫌な声で憎まれ口を叩きながら、血塗れの手は私の体を強く抱き締める。


 この手を。確かに感じる体温を。間近で私を覗き込む、闇色の瞳を。

 私はたぶん、ずっと前から知っているんだ。記憶になくても、魂が知っている。

 その体にきつくしがみついて、口を開く。


「ごめんなさい」

「謝らなくていい。お前が大人しく帰るわけがないとわかっていた」


 顔をしかめて、ミハイルさんが私の頬に手を当てる。頬を撫でられて感じる、僅かな、あまりにも僅かすぎる痛み。私なんかよりもっと血まみれの顔を見上げて――だけどきっぱりと否定する。


「いえ、そのことについては謝りません」


 そう言い切った私を見て、ミハイルさんが少したじろぐ。

 ……こんな状況でも、こんなかすり傷ですら気にする彼を、きっととても傷つけることになるのはわかってる。

 それでも私は目を閉じて、気配を探った。


 近くにある。さっきからずっと、私を呼んでる。

 それを感じて左手をかざすと、光が溢れて私の左手を包んだ。はっとしたようにミハイルさんが手を伸ばす。でも、もう遅い。当主かれにも止められない。


 私が、私の魂が、この指輪の持ち主だから。


「謝ったのは……貴方に貰ったこの命を使うことです」


 指輪が放つ光が、寄ってくる死霊たちを次々に消していく。

 体中から力が抜けて、口元を温かい何かが伝った。泣き出しそうな顔をしたミハイルさんが、頬に触れていた手でそれをぬぐう。乾ききった血で汚れた彼の手を、真新しい血が汚す。


「ミオ……」

「そんな顔しないで下さい。貴方が今感じている痛みは、私がずっと貴方の傍で感じていた痛みなんです」


 私には些細な傷も許さないくせに、自分は血塗れで戦い続けていた彼には、今まで知ることのなかった痛み。


「私さえ無事ならいいという考えは、いい加減捨てて下さい」

「だが俺は、三年前も、お前がここに来る前も、二度もお前を殺したんだ! もうこれ以上……俺は……!」

「違いますよ。あれは事故です」


 頭の隅にこびりついている、サイレンの音。……人の悲鳴。

 その記憶はやっぱりおぼろげなままだし、三年前のことは思い出せない。それでも断言できる。


「三年前だってきっと私の意志です。私が自分で決めたんです。記憶を、元の生活を、他の何を失ったとしても……私は貴方だけは失いたくない。だって」


 赤黒く汚れた彼の右手で、なおその存在を示す呪印に触れながら……どうか届くよう、願いをこめて、口にする。


「私は、花嫁だから」


 ミハイルさんが意表を突かれたような顔をして、二、三度目を瞬かせた。だが不意にふっと笑って、その笑みもまたすぐに消す。


「……すまん。さすがに失血しすぎて思うように動けん。お前に分けた俺の血を少し返してくれ」

「やっぱりできるんじゃないですか! だったらさっさとやって――」


 言葉が途中で塞がれる。

 いつも血の味がする短い口付けの後は、いつも意識が遠くなる。


「……それ、必要でした?」

「いや、別に。したかっただけだ」

「心残りはあった方がよかったんじゃないですか?」

「これだけでなくなって堪るか。帰ったら覚えていろと言ったはずだが」

「こっ、こんなときに……冗談やめて下さい!」

「冗談のつもりはないんだが。……こんなときだからだ。士気が上がるだろ」


 まるでリエーフさんのようなことを言って、ミハイルさんが少年のように勝気に笑う。だから、私も笑みを浮かべる。


 なんとか意識は保っているけど、体に力がまるで入らない。あとどれくらい生きられるんだろうとふと考えた。だけど後悔はしてない。

 私を抱えて立ち上がり、ミハイルさんが空を仰ぐ。窓辺に立ち、こちらを見下ろす皇帝と視線が合う。


「私は皇帝のように、死に隔たれない永遠は望みません。だけど……一つ我儘を言うなら、私の命と貴方の命は同じがいいです。限りある命の中でも、私たちを死が分かつことのないように」

「……わかった。短くとも文句を言うなよ」


 皇帝の元まで、階段のように呪印が転々と現れる。私を軽々と抱えたまま、それを足場にミハイルさんが駆け出す。


「さっさと終わらせて帰るぞ!」

「はい!」


 彼の首にしがみついて、私は迷うことなく返事をした。

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