第3話 契約

 よく眠れないまま、目を閉じて開く度に空が白んでいく。


 それを果てしなく繰り返し、陽の光がカーテンを通り抜けるほどになった頃、のろのろとベッドを降りる。部屋においてあった、古い姿見で顔を確認する。目が腫れぼったいことを覗けば、記憶と変わらない……いや、ちょっとだけ若くなったような?

 転生……つまり、生まれ変わったということなら、顔も性格も全く違っても良さそうなものだけど。それにやっぱり自分が死んだ実感がない。死んだ瞬間が思い出せない。でも、思い出すのも怖い。


 ノックの音がして、ほっとした。今、一人でいるのは少し辛い。返事をすると、昨日の執事が部屋に入ってくる。


「お着替えをお持ちしました。これから朝食をご用意いたしますが、お召し上がりになれそうですか?」


 正直、とても食事という気分ではない。気分ではないが、こんな状況でもお腹は空くようだ。


「……頂けるのであれば」

「良かった。すぐにお作りしますね」

「あの、それから……これ」


 出ていこうとする執事を呼び止め、指輪を差し出す。しかし彼は目を伏せると拒否するように首を振った。


「ご主人様がああ言われたのです。わたくしは受け取れません」

「でも、捨てるなんて。大事なものじゃないんですか?」

「ええ……、ですが……」


 何か言いたげに、彼はしばらく私を見下ろしていたが、やがて意を決したように口を開いた。


「ミオ様。当家と契約を結びませんか?」

「……契約?」


 執事が口にした単語を復唱すると、彼は一つうなずいてその先を続けた。


「短い間でも構いません。ご主人様の花嫁……せめて婚約者として、この屋敷にとどまっては頂けないでしょうか。その間のミオ様の生活はわたくしが保証します」

「どうしてそんなに私にこだわるんですか? 当のご本人は、それほどでもないようですけど」

「その理由も、もう少し当家にいて下されば、おわかりになると思うからです」


 まるで確信しているかのような口ぶりだ。でも、私にはそんな自信はない。結局朝になっても何一つ思い出せなかった。

 それに、もう一つ解せないところがある。


「その契約、このお屋敷と私にとって、何かメリットがありますか?」

「ではミオ様は、ここを出て他に行く宛がおありでしょうか」

「それは……」


 確かにない。けれど、条件次第では出ていくことも考えねばならない。使用人としてなら働くことはやぶさかではないが、花嫁か婚約者って、一体何をさせられるのかわからない。


「もちろん当家にもメリットはございます。従者としてこんなことを申し上げたくはないのですが、今ご主人様に万一のことがあれば、この屋敷にいる死霊を束ねられるものがいなくなってしまいます。当家の死霊使いの力は一子相伝のもの。そこで、一刻も早い後継ぎが望まれるわけなのですが」


 ほらきた――、警戒していた単語が出てきて、慌てて口を挟む。


「ちょっと待って下さい。私にその後継ぎを作れとか言いませんよね?」

「いえいえ、思ってますけど言いません」


 思ってるんかい。と突っ込みかけるが、リエーフさんが二の句を継ぐ方が早かった。


「私が思っていても、ご主人様が貴女に無理強いすることはないでしょう……残念ながら」

「残念ながら?」

「いえ、今のは心の声です。お気になさらず」


 口に出ている時点で心の声ではないのだけど。


「ですから表向きだけで構いません。それでなくとも、ご主人様もいいお歳。伴侶がいらした方が対外的にも都合が良いのです」

「それ、何も私でなくともいいのでは?」

「幽霊屋敷に嫁ぎたいご令嬢などそうおられませんし、まずご主人様が首を縦に振りません」

「だったら私でも無理ですよ、きっと」


 当主の顔を思い出す。あの冷たくて人を寄せ付けない態度は、誰にも関心がなさそうだった。


「振りますよ、必ず。というか振らせます」


 優しく微笑み、穏やかな声でそう言いながら、執事は白手袋を嵌めた両手を組み合わせるとバキボキと不穏な音を立てた。


「それでもミオ様が出て行かれると仰るならば……もうわたくしも止めません」


 何も、迷うことはないはずだった。

 彼の言う通りだ。私に行く宛などないし、この世界のことも何もわからない。せめて少しでもそれがわかるまで、ここにおいてもらえるというのならありがたい話だ。

 この家の花嫁として過ごすだけで衣食住が保証され、相手は私に干渉してこない。こんな好条件の仕事が他にあるだろうか。


 だけど……


「……もう一度、当主様に会わせてもらえませんか? それからお返事します」

「もちろんです。……ただ、ご主人様は今静養中で……」

「少し話をするだけです。それとも、夫と自由に話もできない契約ですか?」

「……かしこまりました。部屋の前でお待ちしておりますので、お仕度が済みましたらお声かけ下さい」


 そう言い残し、執事さんが退室する。いや、ご飯は食べたかったんだけどな。でも我儘を言ったのは私の方だ。仕方ない。


 彼が持って来てくれた着替えに袖を通す。シンプルで飾り気のないもので、それが豊かなドレープを引き立てている。……なんだか懐かしい香りがする。香水……? 誰のものだろう。とても好きな香り。


「……お待たせしました」

「よくお似合いです」


 部屋を出ると、待ち構えていた執事さんがニッコリと微笑む。そして、「どうぞこちらへ」と歩き出した。


「昨夜のことですが、どうかご主人様を悪く思わないで下さい。地下にはよくないものが溜まりやすいのです。どうか地下・・にはおづきになりませんよう……なんて、ちょっと洒落てみました。フフ」


 自分で笑ってるし。

 どうも緊張感に欠ける人だ。だからだろうか、近づきがたい美貌をしているのに、なんだか親しみやすいし憎めない。


 しばらく歩いて、彼は扉の前で立ち止まるとノックをした。

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