第2話 屋敷の当主

 誰かの、呼ぶ声がする。


 ふと目を覚まして、体を起こす。



 ――ミオ、と。


 誰かが囁くように名前を呼ぶ。


 やっぱり気のせいじゃない。

 素足のままベッドを降りる。月明かりが眩しいくらいで、灯りがなくても歩ける。

 部屋の扉を押すと、あっさりと開く。人の気配はない。


 ……どうせ死んだのなら、今更、怖いものなんかない。


 そんな投げやりな気持ちもあったけど、名前を呼ばれれば普通に気になる。

 ゴクリと息を飲み、部屋の外に出る。


 それにしても、なんて大きなお屋敷なんだろう。手が回りきらないのか、あちこち荒れていて、職業柄掃除をしたくなってしまう。……その仕事にも、もう行けないのか。

 どこか他人事みたいに考えてしまうのは、やっぱりまだ信じられてないからだろう。この状況を。

 

 また、呼ぶ声がした。

 ふらふらと、声が聞こえる方へ足を向ける。

 この声、さっき来た執事のものとは違う。だったら誰? 記憶に欠片もない結婚相手? それとも……、私をこの状況から助けてくれる味方?

 そんな人、いるのかどうかわからないけど。


 声の方へ歩き続けると、下へ降りる階段を見つけた。窓からの景色を見るに、ここは一階のようだし、地下への階段ということになる。入口には幾重にも鎖がかけられていて、いかにも立ち入り禁止という感じ。


 ――こっちへおいで。


 今度は名前ではない。呼ばれている、確実に。

 息を吸って、吐く。

 鎖をかけられているだけだから、潜れば通れる……よね。

 しかし、鎖に触れたその瞬間、ピリッと静電気でも走ったように指先に熱を感じた。それも、鎖に触れていない左手。

 思わず手を上げてまじまじと見る。指輪が微かに光っている――


「ここで何をしている」


 ――ふいに背後で声が上がる。心臓が飛び出るかと思った。

 執事とも、私を呼んでいた声とも違う。もっと低くて、もっと……冷たい声。

 恐る恐る、振り返る。


 気配もなく突然現れたその人は、闇に溶けそうな色をしたひとだった。


「す……すみません。でも、声が」

「この屋敷にいるのは死人ばかりだ。死人の声に従うな」

「でも、私の名を呼んでいるんです」

「余計悪い。得体の知れん声に名前を呼ばれて素直に応じる馬鹿がいるか」

 

 正論だ。正論だけど、さも呆れたように馬鹿だと言われては、こちらも言いたいことがないでもない。


「既に得体の知れない場所にいて、わけのわからないことだらけなんです。いちいち脅えていたら正気を保てそうにないので」

「相変わらず口の減らん……」


 何か言い返してくるかと思ったけれど、彼は手袋で覆われた右手を額に当て、そう呟いただけだった。


 相変わらず、と。あの執事もそう言っていた。

 ……あまり、いい気分ではない。私が知らない相手に、私を知った風に言われるのは。


「貴方は誰ですか」


 そんな少しの不満を滲ませて問いかけると、彼は口を開きかけてやめた。そのとき初めて、彼の息が荒いことに気が付いた。今まで気がつかなかったのが不思議なほどに、立っているのも辛そうだ。


「あの、大丈……」

「ここの当主だ」


 大丈夫かと私が問い終わる前に、彼は短くそう答えた。その意外な答えに、安否を問うのを忘れた。


 え、じゃあ、この人が……私の?

 いや、何かの間違いだろう。執事の言うことを信じるなら、私が覚えていないだけで、相手は覚えているはずだ。それにしてはあんまりな態度じゃないか。


「ご主人様! ……と、ミオ様!?」


 何も言えないでいる間に、別の声が私たちの間を駆け抜ける。

 最初に会った執事が、私を見て驚いたように目を見開いた。だが一瞬のことで、思い直したように当主の体を支える。彼が持っている灯りは頼りないロウソクの火だが、月明かりよりははっきりと二人を照らしている。


 死霊使いというから、もっとこう……陰惨なイメージだったけど。こんな夜中なのにカッターにスラックス、ベストをかっちり着込んでいて、髪も短めで……ごく普通の男性に見える。でも家を継ぐには少し若すぎるような。整った容貌はしているけど、目つきが鋭いせいで、かっこいいというより少し怖い。


「まだ起き上がらない方が……」


 執事がそう言うところをみると、やっぱり体調がよくないのだろう。しかし、彼――自らを当主と称した黒髪の青年は、リエーフさんを片手で制すると私を睨みつけた。


「地下に立ち入ろうとした馬鹿がいたものでな。俺はいいからこいつを部屋に連れていけ」


 もう少し言い方というものがないだろうか。むっとして私が言い返す前に、リエーフさんが顔に似合わぬ怒鳴り声を上げた。


「坊ちゃん、それが久々に会う奥様への態度ですか!?」


 それと同時に、支える手も急に離したものだから――いや、別の要因かもしれないが――、当主が思いきりバランスを崩して倒れた。だがすぐに起き上がると、無言のまま、ためらいなく執事を殴りつける。


「ちょっと、暴力はやめて下さい」

「そうですよ坊ちゃん。今はちゃんと痛いんですからね」

「すまん、癖で。だが自業自得だろ。……いいかお前。あいつの言うことは真に受けるな」


 私の方を向き、執事を指差して当主がそう口にする。それを聞いて、少しほっとした。


「じゃあ、やっぱり間違いなんですよね? 私がここの花嫁だとかいう話は……」

「…………」


 思わず口にすると、彼はそれきり押し黙ってしまった。その隙をついて、執事が私の前にずいっと体を滑り込ませる。


「間違いではありません!」

「リエーフ」

「坊ちゃん、どうして……!」

「記憶がないんだろう。突然そんなことを言われれば困惑するに決まっている。少しは考えろ……」


 支えを失った当主は、壁に手をつき、ため息と共に疲れたような声を吐き出した。


 でも、否定しなかった。


「……私、困ります。元の世界に帰りたい」


 本当に忘れているだけなら、会えば何かわかるのかと思った。でも思い出すことは何もない。

 執事だけの思い込みかもしれないと思った。でもそれも違うなら。


「すまない……、それはできない」


 黒い瞳が、少し哀しそうに陰った。……ように、見えたけれど、彼はすぐに目を逸らしてしまった。


「どうして私なんですか? この指輪のせいだというなら、お返しします」


 今いちど、指輪を外そうと試みる。やはり外せないそれを、それでも引き抜こうとしていると、当主が私の左手を取った。


「あの、返したいんですけど、どうしても外せなくて――」


 その言葉が終わらないうちに。

 あまりにもあっさりと、当主は私の薬指から指輪を抜き取った。


 これじゃまるで、私が嘘をついていたみたいではないか。そうじゃないと弁明しようとしたのだが、動揺してしまって言葉にならなかった。


「……俺を恨んでも構わない。だが、お前はどこで何をしようと自由だ」


 呆然とする私の手に指輪を置いて、彼はこちらに背を向けた。


「返す必要はない。要らなければ捨てろ」


 コツコツと、靴音が遠ざかっていく。視界がかすんで、自分が泣いていることに気付き――驚いた。


 死んだと聞かされても。

 知らない場所で目覚めても。

 身に覚えのないことを聞かされても、堪えたのに。

 なんで、今。


「ミオ様……」

「違う。これは……」


 泣いてなんかない。そう言ったところで、ボタボタこぼれる涙の前では説得力がまるでない。


「とりあえずはお部屋に戻りましょう、ミオ様。そしてどうかお休み下さい」


 その穏やかな声に支えられて、どうにか私は歩き出した。


 もう、私を呼ぶ謎の声のことなど、思考からすっかり消え去っていた。

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