第24-3話 利き手

 あと五センチくらい身長が欲しかった。


 と、掃除してると時々思う。

 書斎の整理をしているのだけど、一番上の棚に背が届かないのである。


 大きさとかシリーズごとにまとめるのを諦めれば、なんとか届く範囲にねじ込むことはできる。でも、それはどうにも許せない。とはいえ、脚立は下の階に置いてきてしまったし、取りに行くのもちょっとめんどくさい。ということで部屋にあった椅子を運んでくる。


 靴を脱いで椅子の上に立ち、本をしまおうとしたそのとき。


 バキッ――


「う、うそっ!?」


 絶望的な音に、裏返った声が出た。


 足場が揺らいで、体が傾く。

 ……馬鹿なことで怪我する羽目になるな……とか妙に冷静に痛みを覚悟していたけれど、それは一向に訪れることなく。


 反射的に閉じていた目を恐る恐る開けると、すぐそばに、呆れたように私を見る闇色の瞳があった。


「わああああ!!?」


 下敷きにしていたミハイルさんから、叫び声をあげて思い切り飛び退き、座り込む。


「……助けてやったのに随分な態度だな」

「す……すみません! ちょっと驚いて……」


 溜め息を付きながら、ミハイルさんが座り込んだままの私に左手を差し出す。ためらいがちにその手をつかんで立ち上がる。


「ごめんなさい。椅子壊してしまいました」

「怪我は」

「大丈夫です。お陰様で……」

「ならいい。たまたま通りかかったからよかったが……屋敷には古いものが多いから気を付けろ」

「すみません。私が重すぎただけかも」

「むしろ軽すぎる。ちゃんと食え」


 いやリエーフさんのご飯美味しすぎる上に三食上膳据膳、絶対太ったと思う……。まさか壊れるとはかなりショックだ。

 壊した椅子を直せないか見ていると、ミハイルさんは私が落とした本を拾って、右手で本棚にしまった。


「他にもあるなら貸せ。手伝ってやる」

「い、いえそういうわけには……」


 簡単に届いて羨ましいけど、主人を働かせては使用人の立場がない。差し出された手を丁重に断っていて、ふと……気になった。


「……ミハイルさんて左利きなんですか?」


 さっき差し伸べられたのは左手だったと思うんだけど、本をしまうときは右手だった。そして今差し出されているのは左。

 普段どうだったか考えても、そう気にして見ていないし思い出せないな。


「別に、どっちも使える」

「そうなんですか。便利ですね」


 両利き? もしくはクロスドミナンスというやつだろうか。用途によって使い勝手がいい方が違うとかいう。

 今まで気にしたこともないし、聞いてどうするような話でもなく、そのときはそれで終わったのだけど。



 * * *



「坊ちゃんは右利きですよ」


 別に、気になるわけではないのだけど。

 夕刻、リエーフさんが食事の支度をするのを手伝っていたので、他愛ない話のついでに聞いてみた。

 前みたいに突然リエーフさんがいなくなったら困るので、このところ調理も手伝うようにしている。でもリエーフさんは放っておくとすぐ妙な話に持っていくので、ちょいちょい話題を探さないといけないのである。


「でも今日、左を使っていました」

「……それはどのような用途で?」

「え? ええと……ちょっと転んでしまって、起き上がるときに手を貸してくれて。それが左でした」

「あぁ……怪我はありませんでした?」

「はい、大丈夫です」


 ミハイルさんがいなければ怪我をしていたかもしれないけど。あまりその辺詳しく話すと、また妙な方向に持っていかれそうなので黙っておく。


「利き手の話でしたかね。それは多分、貴方に触れるからですよ」

「……どういうことですか?」

「坊ちゃんの右腕に呪印があることはご存じでしたよね」


 言われて思い出す。あの、血で刻まれたような複雑な紋様のことだろう。ミハイルさんは、このお屋敷の直系である証と言っていた。


「あれを気味悪がる方は多いので、人に差し伸べるときには使わないでしょう。……それ以前に人に関わることもしないですけど」


 少し困ったような顔をして、リエーフさんが述べる。


「坊ちゃんは歴代の中でもとくに広範囲に呪印が出ていて、右手甲から肩……首筋近くにかけてあります」


 そうなのか……、そういえば、三人目の婚約者が去った理由も、その呪印のせいだったっけ。

 じゃあ、天気が良くて暖かいときでも長袖で、休んでいるときすら第一ボタンまで留めて、きっちりネクタイをして、いつでも手袋を着用してるのも――もしかして。


「隠すためにいつも手袋をしてるので、素手でないといけない作業なども専ら左ですからね。今となっては両利きといって差し支えないかと」


 やっぱり。そして、使う手がまちまちなのはそういうことか。


「ミオさんはあれが気にならないのですか?」

「え? いえ、最初見たときは少し驚きましたけど、特には……」

「そうですか。では是非そう言ってあげて下さい。一度焼こうとしたほど本人は嫌っていらっしゃるので」


 焼く……って。

 いくら嫌っているとはいえ、そこまでするだろうか。


 でもあの人は、ライサに傷つけられたときも、リエーフさんと手合わせしているときでも、怪我をしたとき表情一つ変えなければ、手当てすらもさせてくれない。

 力を使うために血を流すことが必要で、そんなことを繰り返していたとしたら、それは……痛みも麻痺してしまうだろう。

 きっと……大事な人に背を向けられる方が、彼にとっては痛いことなのかもしれない。

 

 それは、なんとなくわかっても。


「……そういうコンプレックスって、さほど親しくもない人に触れられたくないと思います」

「おや、ミオさんは充分親しいではありませんか。是非『ありのままの貴方が好き』と」

「言いません。大体」


 ずっと思っていながら黙っていたことが、リエーフさんの揶揄のせいでついつい口をついて出る。


「リエーフさん、少し干渉しすぎじゃないですか? 子供じゃないんですから、仕事とか結婚とか、そういうの口出しするのは良くないと思います」

「わたくしから見れば、まだ子供のようなものです」

「リエーフさんにとってはそうかもしれませんが、私から見たら立派に大人の男性ですよ。ちょっと不器用なだけで真面目な優しい人ですし、そんな誰彼構わずくっつけようとしなくても、そのうちいい人が見つかります」

「誰彼構わずというわけではないんですけどね……」


 屈んで鍋の火を見つめながら、リエーフさんがぼそりと呟く。炎を映して、彼の紅い瞳が揺れる。その横顔は、何を考えているのかわからなくて、私は盛り付けの手を止めた。


「じゃあどうして私なんですか。私はこの世界の人間じゃありません。帰らなきゃならないんです。ここにはずっといられないんです」

「では、坊ちゃんがお嫌というわけではないんですね」

「茶化さないで下さい!」


 声を荒げてしまってから、はっとする。


「どうしました、ミオさん。いつもは取り合って下さらないのに、今日は感情的でいらっしゃる」


 指摘されなくてもわかってる。そうやって苛立つこと自体がおかしい。

 冷静になろうと、ひとつ深呼吸を挟む。

 ……リエーフさんが何かとそういったネタで茶化してくるのは今に始まったことじゃない。真に受けてどうするんだ。


「夕飯、もうできますよね。ミハイルさんを呼んで来ます」

「……お願いします」


 そう言ったのは、単にこの場を離れたかった口実に過ぎない。そんなことはお見通しだろうに、リエーフさんはいつものように、穏やかに笑って頭を下げた。



 ……そもそもミハイルさんは雇い主だ。嫌とか嫌でないとか、好きとか嫌いとかあまり考えたことはない。仕事先の人と同じで――

 いや、仕事先でも苦手な人は苦手か。そう考えると、一緒に住んでいても不快だと思うようなことはない。

 無愛想だし、少し失礼だけど、いつもニコニコしていてペラペラ喋る人よりかは信用できるかな……誰とは言わないけど。


 部屋をノックすると、短い返事がある。扉を開けて、用件を伝える。


「夕飯ですよ」

「……少し早くないか」


 机の上の時計に目を走らせて、ミハイルさんが呟く。確かに、いつもの時間よりほんの少し早いんだけど。だけど気にするほどのことでもないだろうに。


「何かあったのか?」

「いえ、別に……」


 考えてみたら、リエーフさんにミハイルさんのことを聞いたのが間違いだった。そんなの茶化されるに決まってる。

 利き手なんて、どっちだったとしても私に関係ないことだ。それなのに。


 ……ミハイルさんの子供の頃とか。婚約者のこととか。利き手とか……私、最近、そんなことばかり聞いてる。


「ミオ?」

「…………っ」


 いつの間にか目の前まで来ていたミハイルさんが、私を見下ろして呼ぶ。

 気が付きそうになったことを、敢えて追及するのはやめる。平静を装って、顔を上げる。


「リエーフさんを手伝っていたんですが、ちょっと気まずくなってしまって」

「……すまんな。俺からもきつく言っておく」


 理由は言わずとも察したのだろう。ミハイルさんが溜め息と共に詫びてくれる。


「お前も、はっきり不快だと言っておいた方がいい。下手に出ていると調子に乗る」

「でも、私は使用人の立場ですので」

「別にそれが原因で追い出したりはしない」


 襟元を直しながら、ミハイルさんが淡々と呟く。その手は、黒い手袋に覆われている。


 暖かい室内で、従者と使用人が一人ずつしかいない屋敷も、彼は着崩すことがない。それも、手袋を外さないのも――今まで理由は知らなかった。ただ、真面目なだけかと思っていたけど。


「……食事に手袋は要らないんじゃないですか」


 きっと、彼にとっては立ち入ったことを口にしたと思う。少し目付きを鋭くして、だけど何も言わずに、彼は私の横をすり抜けて部屋を出ていこうとする。


「不快なのはあなたの方じゃないんですか?」


 遅れて、さっきの呟きに答えを返すと、彼は足を止めた。


 掃除くらいしかできない、いつか出ていく私なんかを引き合いに出さなくても、彼にはもっと相応しい人がいくらでもいるはずだ。


 この苛立ちは、きっと……そのせい。


「力とか呪印とか、そんな些細なことに惑わされない人が、きっといます。だから隠さないで、あなたはあなたらしく堂々としているべきです」

「……使用人風情がでかい口を叩くようになった」

「当主様が、それが原因で追い出すことはないと仰られたので」

「ふっ。口の減らない奴だ」


 振り返って、呆れた声を上げる。そして彼は右手の手袋を外した。その手の甲には、血で刻まれたような印がある。


「お前が思うほどには、屋敷の事情も俺の力も些細なことではない」

「でも、私は平気ですし。他にもそんな人はいますよ」

「そんな馬鹿、他に探す気になるか。余計に結婚などする気が失せた。不快だ」

「な、なんで……」


 投げつけられた手袋が、ぺしっと額に当たって落ちる。


「……夕飯なんだろう。さっさと行くぞ」


 それを拾おうとした私に、ミハイルさんが右手を差し出す。

 指先に触れた手袋を拾うのを止め、屈みかけた体を起こして。


「はい!」


 私はためらわずに、その手を取った。

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