第24-2話 ミハイルとリエーフ
よく眠れないまま朝になった。変な時間に食べて寝直したから、寝坊するんじゃないかと心配していたけど、なんだか外が騒がしくて目が覚めた。
寝ぼけながら窓を開けると、表にミハイルさんとリエーフさんの姿が見える。朝から二人で何をしてるんだろう……何かあったのかな。
二人はしばらく何を話すわけでもなく、向かい合っていたけれど。声をかけてみようかと息を吸ったその瞬間、リエーフさんの姿が消える。いや、消えたと見紛うくらいに早く動いていた。一瞬で距離を詰め、ミハイルさんの眼前に手を突き出す。それを見て、息が止まった。ここからじゃよく見えないけど、その手にナイフのようなものが見えたからだ。
慌てて窓から顔を引っ込め、寝間着のままで部屋を飛び出す。靴を履くのももどかしく階段を駆け下り、玄関の扉を開けて外に飛び出す。そのときには、ミハイルさんがリエーフさんの腕を締め上げていた。その細い腕が折られてしまいそうに軋んでも、リエーフさんの表情には苦悶一つなかったが、指が開いてナイフが落ちる。部屋からははっきりとわからなかったけど、食事用とか軽作業用のものなんかではなく、殺傷能力の高そうなごついナイフに血の気が引いた。
落ちたそれを蹴り飛ばし、ミハイルさんが、腕と襟首を取ってリエーフさんを投げ飛ばす。しかしリエーフさんは空中で身をひるがえすと、銀の尻尾でキレイに弧を描きながら着地した。すかさずミハイルさんが殴りかかるが、リエーフさんはその拳をかわそうともせずに体で受けて、涼しい顔でミハイルさんの足を払う。
「ッ、急所を突いたら体勢くらい崩せ!」
「慣れてしまいました。わたくしに通る攻撃が少ないからといって、ワンパターンになるのはいかがかと」
「く……ッ」
転倒したミハイルさんの顔面めがけて、リエーフさんがいつの間にか拾っていたナイフを突き立てて、今度こそ悲鳴が喉を滑り出た。
そのとたん、ピタリと二人の動きが止まる。
「おや、ミオさん。おはようございます」
地面に深々と刺さったナイフを引き抜きながら、リエーフさんが呑気な声を上げる。
ナイフが掠ったのだろう、ミハイルさんの頬からは血が流れていて、それを手袋を嵌めた右手で乱暴に拭いながら彼は体を起こした。
「なっ……何してるんですか!」
「朝の運動です。お気になさらず」
「気になりますよ!」
朝っぱらから、外れたとは言え人の顔面に刃物突き立ててる場面を見て、心穏やかでいられるわけもない。それに、ミハイルさんは昨夜貧血で倒れていたというのに。
「ミハイルさん、怪我――」
頬に手を伸ばそうとすると、仏頂面でその手を振り払われる。が、今更そのくらいでは怯まない。仏頂面を返して再び手を伸ばしかけた私に、ミハイルさんがいつも通り面倒そうに吐き捨てる。
「大したことない」
「この前の、私の切り傷よりはよほど酷いです」
「……お前は普通の人間だろう」
「ミハイルさんだってそうでしょう」
彼だけは、この屋敷で唯一、幽霊ではない人。だからそう言ったのだけど、ミハイルさんは珍しくその顔に驚きに似たものを浮かべて、わずかに目を見開いた。
「朝から尊いものを見せて頂きました」
なぜか目頭にハンカチを当てて、リエーフさんが意味のわからないことを呟く。その手からハンカチを奪い取って、まだ呆然としているミハイルさんの頬に押し当てる。
白いハンカチがみるみる朱に染まった。
思ったより深いじゃないか……
「どうしてこんなこと」
「たまには動いてもらわないと鈍ってしまいますから」
「だからって刃物まで使わなくてもいいじゃないですか。昨日貧血で倒れたばかりなんですよ」
「そのくらいしないと真面目にやってくれませんし。一晩休んでいれば大丈夫ですよ、坊ちゃん頑丈ですから」
「でも……」
ふと、傷を押さえている手に何かが触れて顔を上げる。重なっているのがミハイルさんの手だと気付いて――慌てて手を引っ込める。
「ふっ。振り払うとムキになる癖に」
「わざとですね……?」
くっ……動揺してしまったのが悔しい。
「尊い……」
「やかましい黙れ」
ミハイルさんの拳が綺麗にリエーフさんの頬を抉る。吹っ飛んでいく彼を半眼で見ながら、ミハイルさんが溜め息をつく。
「実際、最近鈍り気味なのでな……俺が付き合わせているだけだ。気にするな」
「でも……」
「何度も言っただろう。俺は普通の人間とは違う」
そう言って、ミハイルさんが私の前を横切っていく。そのまま立ち上がったリエーフさんに、再び拳を振りかぶる。
……確かに幽霊屋敷の当主で、人とは違う力を持っているのかもしれないけど。でも、斬られれば普通に傷つくし、普通に痛いだろう。血で汚れたハンカチを見ているだけで痛々しい。
とはいえ、私が口を挟めることじゃないみたい。再び戦い始める二人を後目に、私はその場を後にした。
* * *
「まだやってたんですか……?」
思わず呆れた声が出た。
あれから、部屋に戻って着替え、中庭で草花の世話をして、玄関の掃除を終えたところだ。ゆうに二時間は経っている。
リエーフさんは疲れも痛みも感じていないようで涼しい顔だが、ミハイルさんの方は……、傷も増えているし汗だくで、肩が激しく上下している。無理もない……
「もう終わりですか? 子供の頃の方がマシでしたよ」
「……っ」
立っているのもやっとという感じのミハイルさんが、右手を動かす。あちこちから流れる血が寄り集まって刃になり、リエーフさんを貫く。彼は微動だにしなかったが、刃の方が逸れて、僅かにリエーフさんの腕を抉っただけだった。
「幽霊すらも貫けないようでは……、守りたいものは守れませんよ」
「ない……そんなもの」
「ならどうして今更手合わせなどする気になったのですか」
手の甲に流れる自らの血を舐めながら、リエーフさんが呆れたような声を落とす。その言葉が終わる頃には、彼の傷はキレイに消えていた。
「もう少し素直にならないと、何もかも失ってしまいます」
「うるさい。俺には最初から何もない……」
顔を上げた、彼の闇色の瞳に再び闘志が宿る。それを見て、とっさに彼の腕を掴んで止めた。
「待って。せめて少し休んで下さい」
「お前には関係ない」
今私に気づいたような顔をしながらも、冷たくそう吐き捨てる。振り払われないように強く腕を掴み直した。
「関係あります。私の雇い主です。何かあったら困ります」
「俺はそう簡単には死なん」
「そんなのわかりません。リエーフさんお願いです、もう止めて下さい」
「おやおや、ミオさんに心配される始末では先が思いやられますね。では続きは夕方にでも」
……また夕方やるの……?
涼やかな笑顔でなかなかにキツいことを言う。
「さて、朝食の準備をして参ります」
リエーフさんの気配が消えると同時に、ミハイルさんが地面に膝をつく。
「大丈夫ですか?」
とっさに支えたものの、私の力じゃ倒れる彼の体を支え切ることもできなくて。
それでもなんとか支えようとした結果、ずるずると一緒に崩れ落ち、彼の頭が膝の上に乗る。
「あっ、あの……」
「すまん、動けん。少し休めば治る。放っておけ……」
そう言われても、こんな状態で放っておくこともできない。
「じゃあそれまで、このままでいます。嫌でなければ……」
答えは返ってこなかったが、嫌とも言われず、とりあえず膝枕状態が続く。傷を診たかったけど、さすがに恥ずかしすぎて直視できない。
「ええと……リエーフさんて、意外とスパルタなんですね」
なんとか気をそらすために話題を探す。
「昔からあいつはああだ」
「そう……なんですか?」
「先代が死んで、これでもう力を使うために血を流すことも、幽霊と関わることもせずに済むと思ったのに……屋敷中が俺を見限ってもあいつは……」
その口調は淡々としているけど……だけど、多分。
「リエーフさんは、ミハイルさんのことが大事だから厳しいんですね」
「違う。あいつが大事なのは屋敷だけだ」
ぴしゃりとミハイルさんが否定する。
「そう……でしょうか?」
「ああ。だがそれでいいんだ。失うくらいなら初めから……何も持たない方がいい……」
「ミハイルさん……?」
それきり声は消えて、寝息が聞こえる。
見下ろすと、血と泥で汚れた寝顔は、無防備であどけなかった。
そういえば、ミハイルさんて幾つなんだろう。こうして見ると、思ってたよりさらに若いような。
……普段は怖い顔してるけど、寝顔はちょっと、可愛いかもしれない……。
そっと、髪に触れてみても、彼は目を覚まさなかった。
リエーフさんが大事なのがお屋敷だけでもいいと言いながら、目は少し寂しそうだった。でも、リエーフさんの話をするミハイルさんは、淡々としてたけど少し……優しい顔をしてた。
「ふふっ……」
知らず笑みが溢れる。そのまま、髪を撫でているとふと、視線を感じた。
「おやおや。坊ちゃんが霊除けも使わず、こんなに無防備に熟睡するとは珍しい」
「うわあああああ!!!」
突然リエーフさんの声がして、つい、ばっと立ち上がってしまった。ごつ、と鈍い音がしてミハイルさんの頭が地面に落ちる。
「ああ! すみません!」
「リエーフ……」
だいぶ調子が良くなったのだろうか。起き上がれないまでも、打った頭を押さえてミハイルさんが呻く。
「とても良いものを拝ませてもらったので、夕方の訓練は手加減して差し上げます。さ、朝食にしましょう」
「もう!? 用意するの異常に早くないですか!?」
「仕込みは早朝に終えておりましたので」
それにしたって……、いや、リエーフさんに突っ込んだところで無駄か。
「坊ちゃん、動けないならわたくしが運んで差し上げましょうか?」
「断る」
「ついこの間までは小さくて可愛らしかったのに」
「いつの話だ……」
ぶつぶつ文句を言いながら、ミハイルさんが起き上がり、リエーフさんの後を追って歩き出す。それを微笑ましく眺めていると、ふと彼はこちらを振り返った。
「何を笑っている」
「いえ。ミハイルさんとリエーフさんて、親子みたいだなって思って」
「勘弁してくれ」
心底嫌そうな顔をしながら、その声には棘がない。まだふらついているミハイルさんに手を貸して歩き出す。
お屋敷からは、リエーフさんが作った朝食の匂いであろう、いい匂いが漂ってきている。
――とても優しい匂い。
「お腹すきましたね」
「……ああ」
短く答えて、ミハイルさんは小さく笑った。
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