第40話 別れ

 雨の匂いで目が覚める。気が付くと、目の前にミハイルさん、アラムさん、エドアルトさんとライサがいる。

 扉を潜って最初にいたところだ。混乱する私の目の前で、エドアルトさんとライサが会話を始める。前に聞いたのと同じ会話を。


「……最初に戻った?」

「賢者が言うように、作った者を壊さないと永遠に繰り返す仕組みなのだろう」


 だけど私たちに記憶は残るようだ。エドアルトさんたちがまた同じセリフを喋り始めて、三人が連れ立って伯爵家に向かっていく。その後姿に、ミハイルさんは手をかざした。


『我が血を以て、汝らの魂を掌握する』


 途端にエドアルトさんたちの姿は消えてしまう。


「回収しておかないと、こちらの体と同化したままでは帰れないかもしれん」


 そう呟くと、ミハイルさんは伯爵邸へと続く道を一人歩き出した。


 この世界を作り出した者――、それは恐らく伯爵自身だろう。自らの過ちを。屋敷の過去を。知っていて遺せる力を持った人など、伯爵以外に考えられない。このまま、歩いて伯爵邸の扉を叩けば、その人が出迎えるだろう。

 黙ったまま、ミハイルさんが歩き出す。その足取りに迷いがないのは、きっともう決めているからだ。


 ……誰を、犠牲にするのかを。


「待って……ミハイルさん」


 このまま行かせてしまったら、この世界を抜けた瞬間、きっと彼は――自分を犠牲にする。そういう人だ。幽霊を封印することすらためらう人が、ためらいなく私を殺せるわけがない。 


「待って下さい。この世界は永遠に繰り返すと、賢者は言っていました。なら、もう少し考えてからでもいいはずです」


 聞こえていないはずはないのに、ミハイルさんは足を止めないし、答えてもくれない。仕方なくその後を追いかける。……本当に、選択肢は二つしかないんだろうか。


 賢者がそう言うなら、きっとそうなんだろう。私に、賢者以上の良案が思いつくわけもない。でも何かが引っ掛かる。伯爵邸まで、あと少しある。落ち着け……、落ち着いて考えなきゃ。


 あの人は、きっとプライドが高い人。それに見合うだけの力は持っているけれど、だからこそ、思い通りにならないものに苛立ちを感じる。従わなかった私も、刃向かったミハイルさんも、きっと彼にとって気に入らないものだろう。だから、『意趣返し』で敢えて逆魔法を教えた。私の頭を読んで、私の気持ちを知ったから。


 私が――

 元の世界に帰ることよりも、気持ちが傾きつつあることを、知られてしまったから。

 だから、私がミハイルさんを手にかけるよう仕向けた。そうすれば、従わない私を絶望させて、勝てなかったミハイルさんに勝てる。

 いや……この仮定は少し違和感がある。


 あの人は、理解も共感もできないし、幼稚なところもあるけれど、悪人じゃない。


 ……駄目だ。考えているうちに、伯爵邸へと辿り着いてしまう。エドアルトさんたちの魂を全て回収してしまっているので、最初に訪れたときとは展開が変わるけど、ドアを叩けば、きっと伯爵は出てきてくれるだろう。

 ミハイルさんが手をかざして剣を作る。……そういえば。


「ミハイルさん、賢者と戦った怪我……手当しないと、傷だらけじゃないですか」

「必要ない」

「どうして」


 ミハイルさんの手が、ドアノッカーに伸びる。駄目だ。まだ行かせちゃ駄目。


「死ぬ気だからですか!?」


 声を荒げると、ようやくミハイルさんが動きを止めた。振り向かない彼と私の間を、雨の音が埋める。


「……なら、俺にお前を殺せと言うのか」


彼は背を向けたままで、力ない声は雨音の間を縫って届いた。それを跳ねのけるように首を振って否定する。


「違います。本当に、他に方法はないんでしょうか」

「そんなもの」

「あるわけがないと、いつもミハイルさんは言いますよね。でも、結局は扉の中に、私が元の世界に帰る手掛かりはあったじゃないですか」


 確かに扉は、私が思っていたような異世界へのゲートではなかった。けれど、賢者に出会うことで、その手段があるということはわかった。外に弾き出す、というのがどういうことかわからないけど――いや、待って。


 器が残っていればと、彼は言った。器が体を意味するものだとすれば、つまり、弾くのは魂。


 必要なのは一つの命。

 命を使えるのは、私かミハイルさん。

 意趣返しと、贈り物。


 そして……あの人は悪人ではない。理念は理解できなくとも、魔法に反対していた伯爵を真摯に説得したり、外法を用いたことを不本意に思って呪いを解きたいと思ったりする人。そして、永き平和を築いた人だ。そんな人が、私の頭を覗いて考えた意趣返し。


「……ミハイルさん」


 再びドアに伸びたその手を、駆け寄って強く掴む。


「命をひとつ使うというのは、この世界から魂がひとつ消えることと同じになると思いませんか……?」

「何を……」


 言いかけて、ミハイルさんも気が付いたのだろう。はっとしたような顔で、私を見た。


「私を……、私の魂をこの世界から弾き出す。それはつまり、この世界で私が死ぬということになりませんか?」

「そんなこと、答えられる奴なんかいない。そんな賭けでお前は死ぬ気か」

「勝率の悪い賭けじゃありません。死ぬ気もありません。私の魂をこの体から解き放つことができれば、元の世界が引き寄せてくれる。貴方にはそれができるはずです」

「俺がどうにかできるのは、屋敷の幽霊だけだ」

「……認めてくれたじゃないですか。私を」


 指輪は、使用者を霊体に近付け、当主の管理下に置くと彼は言っていた。ならさっきライサたちの魂を回収したように、私の魂を抜き出すこともできるはず。それが「弾き出す」ことになるのかはわからないけど……


 帰りたいという気持ちが傾きかけていたのを、賢者は知っていた。

 だから、私を帰すことで私たちを救う方法を教えた。これが多分、彼の意趣返しと贈り物だ。だから……勝率の悪い賭けじゃない。


 ミハイルさんの手がノッカーから滑り落ちる。そのとき、扉が開いた。


「おや、君は……」


 現れた伯爵が、ミハイルさんを見て温和な顔に微笑みを乗せる。


「探し物は見つかりましたかな?」

「……ああ」


 ギリ、とミハイルさんが剣を握り締める。そして、顔を上げた。彼が剣を振りかぶっても、伯爵はなんら取り乱すことはなかった。それを受け入れるように、ただ、目を伏せた。



「君の成すべきことが見つかって良かった。遥か遠い我が子孫よ」



 * * *



「……本当に、行ってしまうんですか、ミオさん」


 リエーフさんが、何度目かになる言葉を口にする。


 気が付いたら、私たちは小さな部屋にいた。何もかも朽ちかけているけれど、多分、伯爵が我が子を隠していたあの地下室だ。これが本来の扉の中なのだろう。


 ライサも、エドアルトもアラムさんも、伯爵の裏切りと、自分たちの最期を知って、その上で全てを受け入れてくれた。

 無情にも、時間はなかった。屋敷の中は今も、幽霊たちが暴走を続けている。迷っている暇はなく、それにもう、迷いもなかった。


 ライサたちに賢者の話をして、リエーフさんに私が考えた筋書きを言う。私の魂が世界の外に引き寄せられれば、それはこの世界から命が失われること――即ち死になるのではないかと。


「わたくしがその役をできれば、今まで生き永らえた意味もあったのに……」

「いいんです、これで。最初から、私の目的は元の世界に帰ることだったんですから。リエーフさんだって知っているでしょう」

「でも……」

「私はお屋敷のみんなが好きです。もっと掃除もしたかった。でも……帰りたい気持ちがなくなることは、きっと、ずっとありません。だから、これでいいんです」


 両手を握り締めて、ミハイルさんを見上げる。多分、後悔はしないと思う。だけど、これ以外の選択をしたら、なんらかの後悔が残るだろう。


「……時間がない。やるぞ」

「はい」


 視線が合わない。

 少し寂しいけれど、話しても辛くなるだけだから。決意が揺らいでしまっても困る。返事をして目を閉じた、そのとき。


「……バッカじゃないの!?」


 ガンッ、と鈍い音がする。目を開けると、ライサがエドアルトさんの剣でミハイルさんの頭を殴っていた。


「他に言うことないわけ、アンタ。ミオもミオよ!!」

「そうだ! 大事なことを忘れてた!!」


 慌てて私はライサに駆け寄ると、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。


「ありがとう、ライサ。仲良くしてくれて嬉しかった」

「あ、あたしじゃなくてねぇ……!」


 ライサは呆れたような声をあげたけど、ふと言葉を切って、小さな手を私の首に回してくれた。


「……あたしもありがと、ミオ。バイバイ」


 手をほどいて、エドアルトさんとアラムさんにも頭を下げる。


「たくさん我儘言ってすみません。お世話になりました」

「世話になったのは僕らの方だ。短いけど、ミオと庭の手入れをした日々、楽しかった」

「ぼくも、洗剤調合楽しかったよ。最期にいい思い出をありがとう、ミオ嬢」


 二人と握手をしてから、ミハイルさんの元へ戻ると、私は左手の小指から指輪を抜いた。

 とたんに、ライサたちの姿がスッと掻き消えてしまう。……最後まで、みんなを見ていたかったけれど。これは返さなきゃいけないものだ。


「ミハイルさん、これ、返します。ありがとうございました」


 指輪を差し出す。やっとミハイルさんが私を見て、それから手を差し出して、指輪を受け止める。そして小さく溜息を吐いて指輪を握りしめた。それから私の左手を取り、薬指に押し込める。


「えっ……?」


 小さすぎてサイズが合わなかったはずなのに。不思議なほどピッタリと嵌ったそれをためつすがめつしていると、ミハイルさんが小さく呟いた。


「やる」

「えっ……、でも私、もう、ここには戻ってこれないんですよ? ミハイルさんにはきっと……もっと素敵ないい人がいます」

「そうかもな」

「む……っ!!」


 そりゃあいるでしょうけど! このタイミングで言うことかな! こう、人が綺麗にさよならしようとしているのに、色々台無しにしてくれる。思わず何か一言返そうとして――


「……だが、俺はお前がいい」


 言おうとしていた言葉が、消えた。

 肩を引き寄せられて、背中に回った腕が私を優しく抱き締める。


「ど、どうして……、辛くなるだけなのに……」

「……泣くな」


 そう言われても、もう涙を拭く余裕さえもなかった。ボロボロと溢れては落ちるそれを堪える術もない。だけど、


「泣きたいときに泣けと言ったのは、ミハイルさんじゃないですか……!」

「ミオ」


 少し腕を緩めて、ミハイルさんが私の名を呼ぶ。


「恐らく、元の世界に戻ればこちらでの記憶はなくなるだろう。だから悲しむ必要はない」

「え……」


 瞬きした私の目から、涙が零れて落ちる。


「でも……、この世界にいても、前の世界のことは覚えているのに?」

「それがお前の器が残っている証拠だ。だからお前は帰れる。だが本体が元の世界にある以上、お前の魂を取り出せばこちらでの器は消えてしまうだろう。だが、だからこそ死と同義となる。あいつも俺の頭を読んで、そこまで想定済のはずだ」


 ……だとしても。どうしてそれで、悲しむ必要がないと思えるのか。本当に失礼な人。

 だったら私も、最後まで可愛げなくいてやろう。

 そう決めて、涙を拭く。


「私……私は……」


 何か、余計な一言を。


「……忘れてしまっても、また好きになります……」

「馬鹿か、お前は」


 呆れたような声を上げて、ミハイルさんは溜め息をついた。すっかり見慣れた顔。


「そんなことを言ったら、迎えに行くぞ」

「待ってます……ずっと。例え忘れてしまっても」

「ならば別れは言わん」


 ミハイルさんが微笑む。その向こうで、リエーフさんが涙で顔をぐちゃぐちゃにしているのが見えて、なんだか笑ってしまった。ライサやエドアルトさん、アラムさん。みんなの行く末を最後まで見届けられないのは心残りだけど。せめて私がここから消える最後の瞬間まで見ていられて、良かった。


 ミハイルさんが、私の頬に手を当てる。


「きっとまた会える。異なる世界のどこにいても、お前が忘れてしまっても……お前は俺の花嫁だ」


 返事をしようとしたとき、一瞬だけ、唇が触れた。

 ……忘れたくない。記憶に残らなくても、器に残っていなくても、魂だけは同じなら。せめて魂に残るように、目を閉じて意識に刻み込む。

 貴方の声を。鼓動を。体温を。手の感触を。……その、言葉を。

 

『我が血を以て、汝の魂を解き放つ』



 そして、その声を最後に意識は途絶えた。

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