第33話 扉の向こう
――雨の匂いが、鼻をつく。
扉の向こうには何があるのか……想像もつかなかったけど、とりあえず大前提として扉の向こうには部屋があるのだと思っていた。だけど……
頬を、ヒヤリとした外気が撫でて行く。風がさわさわと木々を奏でている。
「……外?」
「馬鹿な。そんなはずはない。ならば、代々狂った幽霊たちは外に放り出されていたというのか?」
私が上げた声を、ミハイルさんが否定する。確かに、もしそうなら外は混乱に見舞われていたはずだ。
それに、辺りはすっかり暗い。真夜中くらいの闇の濃さ。庭でエドアルトさんに会ったときには……、地下の階段を降りる前は、まだ夕刻ほどだった。ただ地下に降りるだけでそんなに時間が経過したとは思えない。
「だが外だとすれば好都合だ。ミオ、お前はこのまま逃げろ」
「だったら、ミハイルさんや他のみんなも。せめて傷の手当だけでも」
こんな状況で私だけ逃げるなんて。それに暗がりの中灯りもなく、一人で街を探せる自信もない。
ミハイルさんはきっと屋敷を放ってはおけないだろうけど、せめて少し休むくらいなら……と他のみんなを振り返ったところで、異変に気が付く。アラムさんも同じだったようで、彼は「しっ」と人差し指を口元に当てた。
「……エドアルトお兄様、やはり家に戻りましょう。お兄様もわたしもいなくなったら、お母様は……」
「なら、いいのかレイラ。このまま、お前の存在を消されたままで」
ライサとエドアルトさんだけが、外に出たことについて何の驚きもなく、二人だけで会話を交わしている。そして、その内容も少しおかしい。
二人が過去のことを思い出しつつあるのは伺えたけれど、今「家へ帰る」や「お母様」という言葉が出るのは不自然だ。
「……少し様子を見よう」
ミハイルさんが小声で呟き、私もそれに従って二人を注視した。
「わたしはお兄様がいて下されば平気です」
「駄目だよ、僕ももうすぐ要らない存在になってしまう。王国は北の賢者を受け入れた。国が魔法で栄えるようになれば、剣は要らなくなる。今まで僕は剣の腕だけを必要とされてきた……だからきっと捨てられる。国からも母上からも」
「でも、賢者様は魔法があればみなが幸せに暮らせると仰っておりましたわ」
「レイラ、誰もが幸せになれるような力などありはしない」
エドアルトさんはライサに視線を合わせてかがむと、その小さな両肩に手を置いた。エドアルトさんの言はもっともだ。聞こえの良いことだけを告げる言葉ほど胡散臭いものはない――でもそう思うのは大人だからだ。賢いとはいえ、まだ子供のライサが受け入れるには酷な事実だ。
「伯爵もそう仰っていた。魔法に頼れば、人は自らの手で何かを成すことを忘れてしまうと。僕もそう思う。賛同するものは誰でも受け入れてくれるそうだ。彼ほどの方なら陛下も無碍にはできないだろう……一緒に伯爵のところへ行こう」
ぎゅ、とライサがぬいぐるみを抱きしめる。兄の決意が固いのを感じ取ったのだろう。母と兄の、どちらを取るかという非情な葛藤を強いられ、ライサの小さな体がふらりと力を失う。
「レイラ!?」
倒れたライサの体を受け止めて、エドアルトさんが叫ぶ。揺り起そうとする彼を止めたのは、今まで成り行きを見守っていたアラムさんだった。アラムさんが動いたので、私も二人に近づこうとしたのだが、ミハイルさんに片手で制された。
「失礼、ぼくは医者です。……熱がありますね。疲れと寒さからでしょうが、早く暖かいところで休ませてちゃんと診た方がいい」
「レイラ……済まない、僕のせいで。僕のエゴでお前を巻き添えに……」
「後悔は何の薬にもなりませんよ。察するに、貴方がたも伯爵のところへ行くつもりだったのでしょう」
さっきまでは普通だったアラムさんまで、エドアルトさんたちの会話に入っていく。
ますます混乱する私の手を掴んだまま、しかしミハイルは何かを悟ったような、落ち着いた顔をしていた。
「どうやら、俺たちは過去を追体験しているようだ。恐らくこれが彼らの出会いだったんだろう。察するに、今は王国に魔法が伝わる前……屋敷が幽霊屋敷となる前。ここは外ではなく、やはり扉の中なんだ」
もうミハイルさんは小声ではなかったが、ライサもエドアルトさんもアラムさんも、私たちのことなど見えてはいないようだった。
「俺たちはこの時代に存在していないから、きっと関わりのないままだろう。このまま彼らについていけば、過去屋敷で何があったのか、その真実がわかるはずだ」
私も同じことを考えていた。ミハイルさんを見上げ、うなずいて見せる。そんな私たちのすぐ目の前で、アラムさんは立ち上がって声を上げた。
「さあ、行こう。プリヴィデーニ伯爵家へ」
* * *
それからほどなくして、エドアルトさんたち――そして、後を追っていた私とミハイルさんも、お屋敷に辿り着いた。今とは外観が異なるけれど、恐らくここが数百年前のプリヴィデーニ家なのだろう。
ライサを背負ったエドアルトさんが、ドアノッカーを鳴らす。すると、中から漆黒の髪色をした壮年の紳士が姿を現した。
闇色の瞳が、彼の手にした灯りを映している――まるで瞳が燃えているかのように。
「ようこそ、我が屋敷へ」
彼が、この時代の伯爵家当主。
こんな夜更けだというのに、使用人ではなく伯爵その人が戸口に立ったことに、エドアルトさんもアラムさんも面食らっているようだった。
「これは、音に聞こえたエドアルト・アドロフ閣下ではございませんか」
「僕……、いえ、私のことをご存じなのですか?」
「貴方を知らぬ者などこの国におりませんよ、閣下。それに、貴方は王宮医師のアラム殿では?」
アラムさんが、表情に驚きを宿す。そのやりとりだけでわかる。この人――プリヴィデーニ伯爵は、人心を掌握する術に長けている。それが天性のものなのか、意図的なものなのか、そこまでは、今の段階ではまだわからないけれど。
「ここにいらしたということは、お二人とも私と志を同じくする、と受け取ってよろしいか?」
エドアルトさんとアラムさんが揃って頷く。
「お二人ほどの方が私を訪ねて下さるなど、これ以上心強いことはありません。さあ、中へ。そちらのお嬢様は妹君かな? 体調が優れないようだ。すぐに人を呼ぼう」
「感謝致します」
伯爵が声を上げて人を呼ぶ。ほどなくして現れたのは、見覚えのある長い銀髪をきっちり結わえた美しい男性。
「リエーフ……」
ミハイルさんが唸る。彼が口にした名の通り、どこからどこからどう見てもリエーフさんその人だった。私たちが知るリエーフさんと少しも変わらない。
リエーフさんはテキパキとエドアルトさんからライサを受け取り、扉を閉めようとした。だが伯爵がそれを遮る。リエーフさんは少し怪訝な顔をしたが、ライサを休ませるのが先決と取ったのか、奥へと姿を消す。
人の姿がなくなると、伯爵は扉を押して、私たちの方を向いた。他の人は誰も私たちに気が付かなかったのに。しっかりと目があって、ミハイルさんが私を庇うように前に進み出る。
「君たちも、我が屋敷に御用かな?」
伯爵に声を掛けられ、私は思わず後ろを振り返った。でも私たちの他は誰もいない。見えているんだ、この人には。この時代に存在せず、かかわりのないはずの私たちの姿が。
「……お初にお目にかかります、プリヴィデーニ伯爵。我々もこの屋敷に置いては頂けないでしょうか」
少し迷うような素振りはあったが、ミハイルさんは話を合わせることにしたらしい。確かに、今の状況を説明しても信じてもらえそうにない。
「私と志を同じくする者なら、誰でも。ただし、ここで生活するならば、ここで暮らす者たちのために君たちの力を借りたい。君たちには何ができる?」
さっきそれをエドアルトさんたちに問わなかったのは、問うまでもなかったからだろう。エドアルトさんには剣がある。アラムさんには医術が。
――それなら私には。
黙り込むミハイルさんの横で、私は胸に手を当て、嬉々として声を上げた。
「私は掃除ができます。ここに置いて頂ければ、お屋敷をピカピカにして見せます!」
「素晴らしい! 私も家内も片づけは苦手でね。ぜひお願いしたい」
私の提案に、パン、と両手を合わせ、伯爵は華やいだ声を上げた。ミハイルさんが私を恨めしそうに見ながら、まだ言葉を迷っている。そんな彼を見下ろして、伯爵はふっと微笑んだ。
「わからないなら、当家で探していきなさい。君の成すべきことを」
それはとても、温かくて優しい声だった。全てを見通しているかのような黒い瞳は、冷たく鋭いミハイルさんのそれとは対照的で、夜の凪のように穏やかだ。
「ようこそ。我がプリヴィデーニ家へ」
招かれるまま、私たちは屋敷の中へ足を踏み入れた。
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