第32話 リエーフ

「ねぇ、これどうやって使うの?」


 ロウソクと火打石を手に、ライサが困惑した声を上げる。

 徘徊する幽霊たちをやり過ごしながら、私たちはどうにか地下への階段へと辿り着いていた。だいぶ薄暗くなってきたし、それでなくとも地下は暗い。


「どうやるんだっけね、これ」

「私がやります。もう大丈夫ですから、降ろして下さい」


 アラムさんも難儀しているようなので、私はミハイルさんの服を引いた。


「本当か? まだ顔色が良くない」

「ミハイルさんほどじゃありません」


 確かに万全とは言い難いけど、もう歩けないほどじゃない。それよりミハイルさんの方が余程調子が悪そうだ。


「ならぼくが運んであげようか、ミオ嬢」

「アラムさんも怪我しているじゃないですか」

「はは、冗談だよ。ちょっと坊をからかっただけさ」


 ミハイルさんを? どういうことかわからずミハイルさんの顔を見上げたが、目を逸らされた。


「状況を考えろ」


 不機嫌な声を上げながら、ミハイルさんが私を床に降ろす。すぐにライサから火打石を受け取り、火を点けようと試みる。その間、側で聞こえてくるライサの息づかいが荒いのに気が付いた。


「ライサ、大丈夫? 疲れたの?」

「……大丈夫、よ」


 強がる声にもいつもの元気がない。そういえば、とミハイルさんが声を上げる。


「飛ばないのか?」


 確かに、いつもライサはふわふわと宙を浮いて移動していた。だけどさっきからずっと走っている。それは疲れもするだろう。


「できたらとっくにやってるわよ。もう壁も抜けられない」

「ぼくは、さっきから周りが見えづらい。そういえば目が悪かったっけ」


 言いながら、アラムさんが割れた眼鏡を外す。


「どんどん人間に近づいているみたいだ。だとしたら、もう少し持ち堪えられれば、みんな死ぬかもね」


 アラムさんが肩を押さえて呟く。シン、と場が静まる。それを裂いたのはミハイルさんの声だった。


「仮にそうだとしても、それまで鬼ごっこをするのは分が悪い。扉に急ぐぞ」


 ロウソクに火がついて、小さな火が頼りなく揺らめく。幽霊に肉体が戻る……そんなことってあるのだろうか。非現実的というならば、幽霊がいる時点でそうだし、今更何が起きても驚かないけど。扉に行って、何か解決するんだろうか? 例えばこの異変が扉の不調だとして、それをうまく直せたとして。

 今屋敷で暴れている幽霊たちを全て封じて……それで本当に解決するのだろうか?

 多分、ここにいる全員が同じ不安を抱えていると思う。それでも今は扉に向かうしかない。気を紛らわすために、私はライサに声を掛けた。


「ライサ、疲れているんでしょう? 本当に大丈夫?」

「歩くのって……こんなに疲れることだったのね。ずっと忘れていたわ」


 彼女にとって自分の足で歩くのは何百年ぶりのことなのだろう。無理もない。


「無理するな、レイラ。お前は足が悪かっただろう」

「ふふっ、お兄様ったらいつの話をなさってるの? 三歳のときに転んだ怪我なんて、今はもう……」


 ふと、ライサが言葉を止める。ミハイルさんも私も、アラムさんも足を止めた。


「レイラ?」


 ミハイルさんが怪訝な声でその名を繰り返す。エドアルトさんは、ライサの本当の名を思い出せないと言っていた。ライサも、昔のことは覚えていないと。


「……それ以上思い出すのはおやめなさい。覚悟もなしに受け止められるほど、過去は軽くありません」


 突如響いた声に、ミハイルさんはバッとそちらを振り返ると、残りの階段を一気に駆け降りた。


「リエーフ!!」


 それは紛れもなく、リエーフさんの声だった。エドアルトさんやライサのことも気がかりだったけど、今はリエーフさんと合流するのが先決だろう。けど、ミハイルさんが持つ灯りが映し出したリエーフさんの姿を見て――、その後ろの扉を見て、言葉を失う。


 大きく開け放たれた扉。その脇に、壁を背に、足を投げ出して座り込むリエーフさん……その周りにはおびただしい血が流れている。生身の人間なら助からないと一目でわかるくらいの。


「リエーフ、しっかりしろ!」


 ミハイルさんが灯りを近づき、リエーフさんの傷の具合を見ようとする。だがあまりにひどかったのか――口元を押さえて目を背けた。


「……アラム! 診てやれないか」

「診るだけならできるけれど、手の施しようがないよ」


 アラムさんが肩を竦める。だが、リエーフさんはそれを聞いて「ふふっ」と笑っただけだった。


「必要ありませんよ。わたくしは死にませんから」

「痛みは」

「ありません。何も感じません。わたくしは他の者と違うと言ったでしょう。……でもどう違うかはわたくし自身にもわかりませんでした……」


 自嘲気味に呟くリエーフさんの目が、ぽっかりと口を開ける扉の方を向く。それで察したのだろう。ミハイルさんが固い声を上げる。


「お前が扉を開けて……あいつらを解き放ったのか?」

「ええ」


 あっさりと認める。


「何故だ?」

「何故? 貴方がそれを聞くのですか? 貴方が一番、こんな屋敷など滅びればいいと思っていたのではないですか?」

「なら、俺のためにこれをやったとでも言うのか?」

「いえ。さすがにそこまでの綺麗事は言いません」


 リエーフさんがミハイルさんに視線を戻して、真顔で答える。いつもの笑顔も、冗談めかした喋り口調もないと、まるで別人のように見える。


「思い出したからですよ。いえ『思い出そうとしたから』でしょうか。それとも、そこの掃除好きのお嬢さんの探求心に触発されたから……とでも言いましょうか」


 目があって、ドキリとする。


「何故わたくしだけが特別なのか。そんなことは屋敷を守るのには関係ありません。自分が何なのかわたくしは考えたことがなかった……ねえ、ミオさん。人にとってはとてもとても些末な一言に、わたくしたちはいとも簡単に囚われてしまうのです」

「私の……せいで?」

「誰のせいでもありません。逆を言えば、誰にも要因はあるのです。隠蔽した王国。現状を受け入れてしまった代々の当主。急死してしまった先代。当主の責務を果たそうとしなかったミハイル様。積年の綻び。そこにミオさん。あなたという楔が入っただけなのです」

「じれったいわね! はっきり言いなさいよ。アンタのその持って回った言い方前から気に入らない!」


 ライサがリエーフさんの襟首を掴んで怒鳴りつける。


「ライサ、怪我してるんだから手荒なことはしないで」


 死なない、痛みもないとはいえ、こんな状態のリエーフさんに乱暴なことをするのは見かねる。だけどリエーフさんは私とライサのことなど意にも介さないようにスッと立ち上がった。その様子には確かに痛みがあるようには感じられない。


「本当はね……この惨状は予定外でした。ただわたくしは扉の中に入りたかっただけなのです。しかし中の者たち・・・・・に襲われてしまい、死なないとはいえさすがにしばらく動けませんでした」

「何故お前が扉を開くことができた。当主だけの力ではなかったのか」

「あなたが昨晩扉を開いたときに、少し細工をしておいたのです」


 ということはもしかして。私が思ったのと同じことを、ミハイルさんも考えていたようだった。


「なら、あの日封じた幽霊を狂わせたのはお前か。俺に扉を開かせるために」

「そうです。でもそれをあなたに責められる謂れはありません。坊ちゃんが職務放棄している間、どれだけわたくしが幽霊たちの平静を保つことに努めたか。それでもミオさんが来ていなければ、今頃屋敷の大半が扉送りです。それもいいかと思い始めた頃でした」


 ぐっとミハイルさんが言葉に詰まる。


「……この扉に封じられているのは、魂だけではありません。わたくしたちの失った過去も、この屋敷の真実も、きっとこの中に」


 そう言うと、ふらりとリエーフさんは扉の中に入っていく。まるで何者かに招かれているかのように。


「待て、リエーフ!」

「あなたは知りたくないのですか、真実を。プリヴィデーニ家現当主、ミハイル様」


 扉の奥の闇から、リエーフさんの声がする。彼は唇を噛みしめ、少し迷ってから私を見た。


「行きましょう。私も行きます」

「何があるかわからないんだぞ」

「危険だというなら、上に戻っても同じです」


 正論のはずだ。ミハイルさんが押し黙る。


「あたしも行く。もう少しで思い出せそうなのに、思い出せないの。あたしも知りたい、自分のこと」


 静寂を裂いて、ライサが自分の胸に手を当てて声を上げる。


「覚悟ならあるわ。あたし知りたい、どうしてあたしは幽霊なのか。どうして死んだのか」

「それを知ったら、お前も気が触れるかもしれんぞ」

「大丈夫。抜け殻みたいな体で存在し続けるくらいなら、残酷な真実が胸を抉ってもその痛みの方がマシよ」


 ね、とライサがエドアルトさんとアラムさんを振り返る。


「……僕も知りたい。今まで妹の名前すら忘れてきた事実の方が、僕を狂わせてしまいそうだ」

「こんな小さいお嬢さんに覚悟ができていて、ぼくができないとは言えないからね。研究者としては、真実から目を背けることはできないよ」


 辛そうなエドアルトさんを揶揄するように、アラムさんが軽い調子で「はは」と笑う。彼らに順に視線を走らせた後、ミハイルさんは目を伏せると頷いた。


「わかった。……だが、ミオ。お前にはこの扉を潜る理由がないな。巻き込んで済まない」

「いえ、ありますよ。これで地下も、扉の向こうもお掃除できます!」


 両手を握りしめて答えると、全員の目が点になった。


「和ませてくれようとしたんだろうけど……その発想はなかったわ」


 呆れたようにライサが述べる。だがすぐに表情を一転させて、私を見てクスッと笑った。


「でも、ミオらしいわ」

「ほんとだね。薬品を掃除に使うとか」

「果物も掃除に使った」

「酒も掃除に使うとか言ってたぞ」


 うっ……。

 次々に言われて私が言い返せずにいると、そんな私を見て、みんなが一斉に笑い出す。ライサも、エドアルトさんもアラムさんも、ミハイルさんさえも。そこまで笑わなくてもと思いつつ。なんかこうなると私も笑えてきて、開き直って一緒に笑った。うん。元気出てきた。


「よし。さっさと終わらせて、この掃除馬鹿に心行くまで掃除してもらうぞ」

「おー!」


 ミハイルさんの言葉を受けて、ライサが小さな拳を突き上げる。そして私たちは頷きあって、扉の中に足を踏み入れたのだった。

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