第31話 花嫁の条件

 研究室の近くまで来ると、ガシャンと硝子の割れる音が聞こえた。その破片にまみれて、アラムさんが研究室の中から転がり出てくる。


「アラムさん!」

「ミオ嬢!?」


 肩を押さえながら、アラムさんがこちらを見て叫ぶ。その指の間からは赤い血が流れている。


「怪我してるのか!?」


 緊迫した声でミハイルさんが叫ぶ。かすり傷ですら気がおかしくなりそうと、エドアルトさんは言っていた。なら、重症を負ったとしたら?

 考えている間にも、研究室の中から幽霊たちが押し寄せる。エドアルトさんが彼らの前に剣を掲げて立ち塞がり、その間に私とミハイルさんはアラムさんに駆け寄った。


「アラムさん、大丈夫ですか!?」

「来るな!」


 触れようとした瞬間に、アラムさんの鋭い叫び声に止められる。


「痛みで気がおかしくなりそうなんだ。ぼくも正気を失くすもしれない……」

「そんな!」


 どうにかできないのかとミハイルさんを見上げるが、無情にも彼は首を横に振った。


「気が触れた幽霊をどうにかする術を、当主は持たない。あれば扉など要らなかった」

「でも、このままじゃアラムさんが!」


 あまりにも冷淡な声に、思わず責めるような声を上げてしまったのを後悔するのはすぐだった。声こそ冷静だけど、彼が何も思っていないわけがない。……顔を見ればわかる。

 私に、何かできればいいのに。唇を噛みしめながら、心底そう思った。そしてそんな自分に驚いた。

 私はただ、住処と仕事が欲しかっただけだった。それも、元の世界に帰る足掛かりとして。私は掃除さえしていればよかったし、お屋敷の事情なんて関係なかったはずだ。指輪だって、最初は使う気なんか――


「――気が触れた幽霊をどうにかする術を、当主『は』持たない……?」


 ふと、さっきミハイルさんが口にした言葉を口の中で繰り返す。

 そして、私は顔を上げるとミハイルさんに詰め寄った。


「ということは、他にその力を持つ人がいるんですね?」

「……別に、そういうわけでは」

「それなら、前にライサたちがおかしくなったとき、どうして元に戻ったんですか」


 あのとき、私は気を失ってしまって後のことを覚えていない。私の追及に、ミハイルさんは目を逸らした。あのときは、気が付いたらみんな元に戻っていたけれど。


「あれは……」

「本当のことを言って下さい。この指輪、幽霊を鎮静化することができるんじゃないですか? お願いです、どうか使い方を教えて下さい」

「そう言われても、使い方など知らん」

「やっぱり指輪なんですね?」


 私を見返す、ミハイルさんの目が鋭くなる。

 実のところ、確証はなかった。でも、あのとき場にいたのは、幽霊たちを除けば私とミハイルさんだけだ。そして当主にその力がないのなら、幽霊たちを元に戻したのは私ということになる。私自身にそんな力があるわけないし、何か要因になるものがあるのなら……指輪しか考えられない。

 だからカマをかけた。ミハイルさんが険しい顔で口を開きかけたが、それを遮って声を上げる。


「お願いです、なんでもいいんです。この指輪のことを教えて下さい!」

「だから知らんと言っている! 指輪は代々花嫁に受け継がれるもので、俺には使えないものだ」


 アラムさんの苦悶の叫び声に、会話が中断される。状況は予断を許さない。身構えるミハイルさんとアラムさんの間に割って入り、私は彼を見上げた。


「つまり、当主の妻であれば使えるということですね?」

「あ、ああ……?」

「なら、当主の妻の条件は!?」


 ミハイルさんが、「何を言っているんだコイツ」とでも言いたげな、面食らったような顔をする。でもそれなりに考えがあって言っている。

 何をもって当主の妻と認められるのか。まさか指輪の力などという理屈で説明できないような不思議な力が、結婚式の日とか、婚姻届けを出した瞬間とか、そんな人為的な決め事に左右されるとは思えない。


ならば他に引き金があるのではないかと思ったのだけど。


「……当主が認めたらそれでいいんじゃないの?」


 ライサのやけに冷めた声が場に落ちる。ミハイルさんが否定しなかったので、私は彼に詰め寄った。


「じゃあ、認めて下さい!!」

「…………ッ」


 取り縋る私を無言で見下ろした後、ミハイルさんが顔を押さえて長い溜息を吐き出す。そして、小さく「認める」と呟いた。


 途端――指輪がまばゆいばかりの輝きを放つ。


「アラムさん! 正気に戻って!!」


 指輪を嵌めた手でアラムさんに触れる。すると、焦点を失っていたアラムさんの瞳が私をとらえた。


「……これは……ミオ嬢がやったのか……?」

「元に戻ったんですね!? 良かった……」


 汗ではりついた前髪をかきあげ、アラムさんがずれた眼鏡から私を見上げる。エドアルトさんが戦っていた幽霊たちもバタバタとその場に力を失って倒れ、私もまたほっとしてその場にへたり込んだ……が。


「よかったわねミハイル、結婚おめでとう」


 どこか棒読みのライサの声に、サァァ、と血の気が引いていく。今自分が口にしたことを思い出せば、引いた血が一気に戻ってきて。勢いよく立ち上がると、私は必死に弁明した。


「違う! 違うんです! 私、なんとかしようと……!」

「わかっている。気にするな」


 だけどあまりにもあっさりと彼がそう答えるので。拍子抜けすると同時に今度は慌てて弁明しようとした自分が恥ずかしくなった。そりゃそうだ。私はなんとかしようと必死だっただけで、それはきっと彼も同じで……

 本気で認めるわけなんかない。わかってるのになかなか顔の熱が引かない。けど今はそれに構っている場合じゃない。


「とにかく、この力で、屋敷中の幽霊たちを元に……!」


 気を取り直して叫んだ瞬間、激しい眩暈と共に、グルリと視界が回った。


「さすがにそれは無理だ、ミオ。多分お前の体がもたない」


 倒れかけた私の背を支えて、ミハイルさんが首を振る。そういえば、前にライサたちがおかしくなったときもしばらく気を失っていた。さすがにそこまで都合の良い力ではないか。でも……


「それでも、少しくらいなら役に」

「アラムの手当をして、当初の予定通り扉に向かおう」


 言いかけた私を無視して、ミハイルさんが言葉をかぶせる。ムッとしていると、アラムさんが「そういえば」と割って入った。


「伯爵夫人は代々薄命だったね」

「それが今何の関係がある。それより傷は」

「痛むけど、意識はしっかりしてるよ。一応簡単に処置した。坊とエドアルトも手当しよう」


 ――そう、か。

 ミハイルさんは話を逸らしたけど、アラムさんが言いたかったことはわかってしまった。そうだよね。指輪で幽霊を正気に戻せるのなら、それに何のリスクもないのなら。


 それこそ、扉なんて要らないんだ……。


 アラムさんが二人の処置するのを座って眺めながら、そんなことをぼんやりと考える。さすが医者だけあってアラムさんの手際はとてもよく、すぐに手当を終えると、場の重い空気を払うように彼はおどけた声を上げた。


「ではご夫妻、参りましょうか」

「そういう冗談はリエーフだけで勘弁してくれ。行くぞ」


 ミハイルさんが差し伸べてくれた手を掴む。どっちが上だかわからないくらい頭がフワフワしている。なんとか前に足を出そうとして必死になっていると、体が浮いた。


「……あっ、あのっ!?」

「歩けないならそう言え」


 私の体を抱え上げて、ミハイルさんが不機嫌な声を落とす。尋常じゃない密着度なんだけど、それを気にする余裕もないくらい、羞恥よりも無力感が勝っていた。


「本当に気にするな。お前には他に目的があるはずだ」


 それが伝わったのだろうか。いつになくミハイルさんが優しい声を上げる。きっと励ましてくれたのだと思う。でもそれを聞いて、軽率なことをしたと思った。

 私は、このお屋敷のために、幽霊たちのために、……ミハイルさんのために。命を削る覚悟はおろか、帰るのを諦めることすらできないのに。


「ごめんなさい……」

「なぜ謝る? お前には充分すぎるほど助けてもらった……、あとは当主である俺の役目だ」


 私を抱えるミハイルさんの手に、わずかだが力が籠る。怪我してるのに、私を抱えて歩く足取りに危なげはない。そりゃ華奢ではないけど、大柄でも、そんなに力持ちにも見えないんだけどな。……こんなに大きかったんだ。


 どうしてだろう。すごく苦しい。


 ……帰るのを諦めることは、できない。

 できないけど、もしものときは指輪の力を使う覚悟くらいはしておこうと、私はひそかに心に決めた。

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