第30話 当主の力

 幸い、中庭に辿り着くまで幽霊の襲撃を受けることはなかったが。

 絶えず、何か固いものがぶつかる音や、呻き声が響いてくる。率先するミハイルさんの背に隠れるようにして進んでいくと、ふと彼は私を片手で押しとどめ、自身も足を止めた。

 無茶苦茶に荒らされた茂みの影から覗き込むと、少し離れた場所に数人の幽霊たちが群れているのが見える。誰かを襲っているようだった。そして、襲われているのはエドアルトさんだ。

 目を背けたいのをこらえながら凝視する。すると決してエドアルトさんは一方的にやられているわけではなく、むしろ逆に剣を抜いて応戦し、彼らをしりぞけている。その背中にはライサの姿があった。


「エドアルト、正気か!?」


 身を潜めたままで、ミハイルさんが鋭く声だけを飛ばす。エドアルトさんがはっとしたようにこちらを見て、すぐにかぶりを振った。


「いや……もう意識が。このままじゃぼくも……、頼む、ライサだけでも……」


 喋りながらも隙を見せることなく、私たちに気付いて近づいてこようとする幽霊をエドアルトさんの剣が打ち据える。しかし返ってきたのは酷く弱々しい声だった。


「エドアルト、そいつらと距離を取れ! 力を使えばお前も巻き込む!」


 ミハイルさんの指示に、エドアルトさんは押しとどめていた相手を蹴り飛ばすと、ライサを抱えて大きく飛びのいた。

 私の手を離して、ミハイルさんが肩に巻いていた包帯をむしり取る。


『捉えよ!』


 肩から流れる血が緋色の鎖となり、幽霊たちを縛り上げていく。ほっとしたのも束の間、エドアルトさんの緊迫した叫び声が走り抜けた。


「ミオ、危ない! 後ろ!」


 とっさに振り向いた私のすぐ目の前で、知らない女性の幽霊がニコリと微笑み――口を開く。頬まで裂けた大きな口が顔面に迫る。

 目を閉じることも、悲鳴を上げることもできなかった。にゅっと伸びた彼女の手が、私に届く前に。

 襟首をつかまれて、まるで荷物みたいに後方に放り投げられる。そのまま転倒しそうになった私の体をエドアルトさんが受け止めた。

 何が起こったかわからないまま体を起こし、顔を上げる私の前で。

 さっき、私に向けて伸ばされていた幽霊の白い手は、私の代わりにミハイルさんの体を貫いていた。

 

 名を呼んだつもりが、わけのわからない言葉が悲鳴のようにこぼれただけだった。

 その背中に、血に濡れた白い手の平が花のように咲いている。彼の足元にできた血だまりと、咽るような血のにおいに、気が遠くなっていく。


『我が血を以て――』


 だけど、その声で辛うじて意識を繋ぐ。


『――汝の魂を掌握する!』


 血だまりから無数の鎖が伸びて幽霊の体中に絡みつく。それらは幾重にも重なり、たちまち幽霊は赤い塊と化した。そして、ビシリと大きい亀裂を生み、そのまま音もなく砕け散る。破片は元の血液に戻って、地面を赤く濡らした。それと同時に、ミハイルさんの体がふらりと大きく傾く。


「ミハイルさん!!」


 竦んだように動かなかった体が、気が付けば彼へと走り寄っていた。だけど私じゃ倒れるミハイルさんを支え切ることはできなくて、よろけそうになったところを自力で体勢を戻したミハイルさんが逆に支える。


「だ、駄目です。動かないで……、止血、しないと……」


 支える手がたちまち真っ赤に染まり、体中が冗談のようにガクガクと震えた。

 止血したところで絶望的だと。

 その結論を打ち消すのに必死で。


「落ち着け。大丈夫だ」

「こんなの、大丈夫なわけないじゃないですか!!」


 血まみれの手で縋りつき、叫ぶ私を見下ろして、彼は――何故か少し驚いたような顔をした。それから小さく溜め息をつく。すると視界の端で何かがうごめいた。そちらを見るまでもなく、やがて目の前にも、血で汚れた私の手からも。流れ出た血が宙に浮き、螺旋を描いて彼の体に吸い込まれていく。


 血の跡はまだ残るものの、おびただしくあたりを濡らしていた血だまりは、ほとんど消えていた。


「……言ってるだろ、俺は普通の人間じゃないと。大丈夫だ」


 ミハイルさんが手を伸ばし、呆然とする私の目元に触れる。その時初めて、私は自分が泣いていることに気が付いた。


「やっぱり引くよな。不気味なものを見せてすまん」

「……そんなこと……、そんなことどうでもいいです!!」

「どうでも?」


 何か文句を言いたげなミハイルさんを見上げると、目に溜まった涙が零れそうになって急いで拭う。手の甲が少し、血で汚れた。


「そんなことできるなら、早くやって下さい!」

「……見られたくなかったんだ」

「今更引きません! こっちは、私のせいで……、ミハイルさんが……」


 死んじゃうかと。死んじゃったらどうしようかと。


「……悪かった。その……、泣きたいときは泣けとは言ったが、もう泣くな」


 きまりの悪そうな声と咳払いに、結局零れてしまった涙を慌ててまた拭う。

 ……泣いてる場合ではない。とりあえず失血死の心配がないのだとしても、傷の手当は必要だろう。


「一度部屋に戻りましょう。ちゃんと手当てした方がいいです」

「いや……、そんな悠長にしている場合じゃなさそうだ」


 ミハイルさんは首を振ると、固い声を上げた。そして、ライサを抱えたエドアルトさんに視線を向ける。彼を襲っていた他の幽霊たちは倒れ伏していたが、エドアルトさんも苦しそうに肩で息をついていた。

 しかし冷静になってみると、エドアルトさんが剣で戦ったり、それで幽霊たちが傷つけられているのはおかしい。その私の疑問に答えるように、ミハイルさんが言葉を継ぐ。


「どうも幽霊たちが実体化しているようだ」

「うん。僕もこうしてライサに触れられる……」


 ライサはエドアルトさんに触れられることが嬉しいのか、しがみついたまま顔を上げない。そんなライサを見下ろすエドアルトさんの整った顔には、小さな切り傷がいくつか走っている。


「実体がないはずなのに、血が流れて痛い。長いこと何の感覚もなかったから、かすり傷ですら気に障る……。僕が応戦した幽霊も、痛みで気がおかしくなったかもしれない」


 唇をかみしめるエドアルトさんを見て、ミハイルさんはそれを否定した。


「お前は悪くない、エドアルト。お前は襲われたから応戦しただけだ。順序が違う」


 エドアルトさんは少し意外そうに両目を見開いたが、すぐにそれを伏せた。


「ねえ、伯爵……貴方は僕らを救える?」

「わからん。だが当主としてできる限りのことはする」

「……わかった。僕の剣、貴方に預ける。現当主、ミハイル・プリヴィデーニ伯爵」

「礼を言う。その剣で、ライサとミオを守ってくれ」

「必ず」


 エドアルトさんが剣を掲げ、敬礼のような姿勢を取る。

 ……ミハイルさんとエドアルトさんの怪我、手当てできればいのにな。


「アラムさんがいれば……」


 お医者さんだったアラムさんのことを思い出してそう言うと、ふとエドアルトさんが思案するような声をあげた。


「アラムか……、もしかしたらアラムも無事かもしれないね。突然屋敷の幽霊たちが正気を失いだしたけれど、僕やライサは無事だった。その理由を考えていたんだけれど」

「ライサとお前の共通点か……、血縁以外には……」


 エドアルトさんの言葉を受けて、ミハイルさんが私を見る。


「ミオと特に親しかったな。そうすると、確かにアラムも無事かもしれない。……それに、リエーフも」

「でも、アラムもあたしも、一度ミオを襲っているわ」


 ようやく、ライサが顔を上げる。彼女はエドアルトさんから離れて地面に降りると、気まずそうにそう言った。


「今思えばあれも、異変の前触れだったのかもしれん。とりあえずリエーフとアラムを探そう。見つからないか、彼らも駄目なようなら……扉に向かう」

「幽霊たちを封じるの?」


 ライサの問いに、ミハイルさんは少し逡巡してから曖昧に答えた。


「そうできればいいが……実体化しているとなると無理かもしれんし、そもそも扉が元凶なのかもしれん。さっきから見覚えのない奴らがいる。中の奴らが出てきた可能性もある」


 つまり、封印された幽霊が屋敷にうろうろしているということ? それはぞっとしない。


「とにかくここでじっとしていても襲われるだけだ。行くぞ」

「わかった」


 答えて、エドアルトさんが剣を握り直す。

 二人がそんな会話交わしたちょうどその時だった。気味の悪い呻き声を縫ってアラムさんの叫び声が耳に届く。私たちは顔を見合わせた後、一斉に声が聞こえた方へ向かって駆け出した。


 ――アラムさんの研究室の方へ。

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