第34話 淡い想い

 掃除をすると、嬉々として答えたはいいものの。


「やっぱり、伯爵以外には私たちのこと見えてないみたいですね……」


 しょんぼりと言うと、変なものを見るようにミハイルさんは腕組みして私を見下ろした。


「だが掃除はするんだな……律儀な奴だ」

「だって物に触れることはできるんです。綺麗になってることに気が付いて、喜んでくれる人もいるし」

「だからってあまりでしゃばりすぎるなよ。まったく、お前が勝手に片づけるから幽霊屋敷になったとか、そういうオチならいいんだがな」


 確かに、あまりに物を動かしすぎたら怪奇現象になってしまう。ミハイルさんの揶揄に掃除の手を止め、私は壁にもたれかかった。

 屋敷に入って一晩が過ぎた。でも眠気も疲れもなければお腹もすかない。誰の目にも留まらないことも、本当に不思議な感覚だ。


「しかし、することがあっていいなお前は。……少し羨ましい」

「私が……ですか?」


 自慢じゃないが、人に羨まれるような要素などひとつもない。思わず怪訝な声を上げた私を見て、ミハイルさんが腕組みを解く。


「お前は伯爵の問いにすぐに答えられただろう。俺には何もないんだと、思い知った」

「掃除なんて誰にでもできます。ミハイルさんに何もないなんてことありません」


 自嘲めいた声。私が否定しても、彼は黙って首を横に振るだけだった。


「生ぬるい気休めだ」

「そんな……つもりじゃ」


 ないのに。

 冷たい声が返ってきて、口を噤む。でもそう思われても仕方ない、か。私は彼にとってただの使用人にすぎないし、気が利いたことも言えないし。

 少し落ち込んでいると、ふと目の前を見知った姿が横切った。


「エドアルトさん」


 一緒に扉を潜ったはずなのに、エドアルトさんもアラムさんも、すっかりこちらの人物になってしまった。今まで私たちと一緒にいたことなどすっかり忘れてしまったかのように、その素振りも見せないし、私たちにも気が付かない。

 彼の表情はひどく強張っていて、私とミハイルさんは顔を見合わせると、どちらからともなく彼の後を追った。


 やがてエドアルトさんは屋敷の一室の前で立ち止まると、その扉をノックする。中からライサの声で返事があり、彼は部屋の中に入っていった。覗き見をするようで気は引けるけど、私たちも後を追う。


「レイラ、体調はどうだ」

「もう大丈夫ですわ、お兄様。あたしも伯爵にご挨拶をしなければ」


 ベッドの上で体を起こし、ライサがふわりと微笑む。エドアルトさんは幾分か安堵した様子だったけど、まだその表情は固い。しばし二人は沈黙したが、それを破ったのはライサの方だった。


「お兄様……お話があります。わたしはこれからも、ライサとして生きていこうと思うのです」

「どうして。せっかく家を出たんだ。もう母上のことを気にしなくてもいいのに」

「わかっています。でもこれはわたし自身の……レイラの意志です。わたしがレイラとして生きていったら、ライサがいなくなってしまう。わたしもそれを受け入れるのが辛いのです。それに、母と妹を捨てたようで辛いのです。せめてもの贖罪として……わたしはライサでいたいの」


 ぎゅう、とぬいぐるみを――、妹が大事にしていたという形見のぬいぐるみを抱きしめ、彼女はしっかりとした口調でそう述べた。


「ですから、お兄様。どうかお兄様も、わたしのことはライサとお呼び下さい」


 うつむくエドアルトさんの表情は見えない。でもなんとなく想像はつく。

 だから、それから何百年経っても、エドアルトさんはライサが自分を恨んでいると思い込んでいるんだ。ライサは、自身が辛い目に遭わされていてもお母さんや妹を大事に想ってる。そんな彼女を、家族と引き離してしまったから。


「……わかった。だがもう少し休んだほうがいい。次に目が覚めたら、一緒に伯爵に挨拶に行こう」


 顔を上げたエドアルトさんのその表情には、もう憂いはなかった。でも決して消えたわけではないのだろう。このあと何らかの悲劇が彼らを襲い、肉体と記憶のほとんどを失くしてしまっても、ずっとエドアルトさんは苦しみ続けているのだ。


 エドアルトさんがライサの髪を優しく撫でると、彼女は小さく頷いて、再びベッドに寝そべった。やがて規則正しい寝息が聞こえる頃、カタリと音がして扉が開く。


「ずいぶん顔色が良くなった。やはり疲れていたんだね」


 扉を押して、アラムさんが姿を現す。


「アラム。ありがとう、昨夜は助かった。君に会えていなかったらと思うとゾッとする」

「いや、ぼくは何もしていないよ。本当に出番がなくて何よりだ」


 そう言って笑うアラムさんの笑顔に、だが、ふと陰りが混じる。


「……そう思う気持ちに偽りはないんだけどね。魔法があれば誰も病気や怪我に苦しむことなどなく生きていける。そう言われると怖くなるんだ。ぼくの存在を否定されたようで……、医者失格だな」

「いや、よくわかるよ。僕も戦うことは嫌いだったはずなのに、剣を捨てるのが今は怖い。こんな気持ちになるなんて思いもしなかった」


 そうか、とアラムさんが切なそうに笑う。

 私も、なんだかわかる気がする。この世界に来たとき、あくせく掃除する必要なんてないんだってわかったとき。それはとても便利で素晴らしいことなのに、居心地の悪さに襲われた。だから村を出たんだ。

 

 掃除しなくてもいつもきれいなら、その方がいいはずだ。けど、元の世界でもそうなったら……私の仕事は必要なくなってしまう。きっとそれはみんなにとって良いことのはずなのに、私にはそれを喜べる自信がない。


「二人の気持ちがわかる……といった顔だな」


 私の考えを読んだかのように、ミハイルさんが私を見下ろして呟く。


「俺は逆だ。ずっと魔法に憧れていた。誰も苦労せずに生きていけるなら、その方がいいに決まっていると……、そう思うのは、俺に何の信念もなかったからなんだろうな。何もせず、何も考えず生きていくのに都合がいいから。……屋敷の幽霊たちが魔法を嫌うのも、俺を受け入れないのも当然だ」


 私も、幽霊たちが魔法を嫌う理由はわかった。もともとこのお屋敷が、魔法に反対する人が集まって暮らしていた場所だったんだ。それに、確かにエドアルトさんやアラムさんの気持ちもよくわかる。


 だけど……ミハイルさんの言っていることには同意できない。


「それ、少しおかしいです」


 だから、精一杯の言葉をかき集める。


「みんなが苦労せずに生きていける方がいいと、そう思うことの何が悪いんですか? 私はそういうミハイルさんの優しいところ、好きです」


 気休めだと思われないように、どうか届くようにと願って。

 しかし彼は再び腕を組み、渋面に近い微妙な表情で、まじまじと私を見下ろした。


「……何言ってるんだ、お前」

「……何言ってるんでしょうか、私」


 言われて冷静に自分が言ったことをよくよく考えてみて――その場から消え去りたくなった。


「ち、違……、あの、気休めだと思われたくなくて……」

「最近お前は少し後先考えなさすぎだ。もう少し思慮深いと思っていたが、馬鹿なのか」

「そもそも、ミハイルさんが素直に人の話を聞かないから!」


 励まそうとした相手に向かって、その言い方はあんまりじゃないだろうか。しかしこの際、いつもの言い合いでもしていた方が気が楽だ。そう思ったのに、彼が苦言を返してくることはなかった。


「……悪かった。だが、聞いていないわけじゃない。気休めが聞きたいときくらいあるだろ、別に」

「……?」


 どういうことか、意味を測りかねて顔に疑問符を浮かべていると、ベシッと片手を顔に乗せられた。


「察しろよ……、くそ。お前の気休めが欲しくて弱音を吐いた。馬鹿は俺だ」


 飛んでもない早口だった。どんな顔をしているのか見てやりたいが、顔を掴まれたままで何も見えない。

 さすがにそこまで察せるかという話だ。というか、そっちこそ察して欲しいものだ。確かに言葉に思慮が回ってなかったけど、無意識にそんなことを吐いてしまう程度には……

 やっぱり、私は。


「……だが、もうやめておく」


 いっそ、口にしてしまおうか。

 そんな考えが過ぎったときだった。ミハイルさんの冷めた声が、その考えに歯止めをかける。


「お前には他に目的があるだろ。そのことだけ考えてろ」


 ガタ、と椅子を引く音に、現実に引き戻される。「回診の時間だ」と声を上げ、アラムさんが退室し、ミハイルさんもその後について部屋を出ていった。


 ……そうだ。私の本来の目的は、元の世界へ帰ること。

 もし今目の前に、元の世界へと通じる道が現れたなら。きっと私はそちらに足を向けてしまう。そうしたら私は、ミハイルさんの元を去っていった人たちと同じだ。両親も、使用人も、婚約者も――みんな失くして、きっとこの人はすごく……傷ついていたはず。


 小指に嵌めた指輪をぎゅっと右手で握りしめる。もう、余計なことを言うのはよそう。こんな気持ちを抱くのもやめよう。力になりたいと思えば思うほど、私もきっと傷つける。


「ミオ、早く来い。アラムを追うぞ」

「……はい」


 それ以上考えるのをやめて、私はミハイルさんの後を追った。

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