第26話 城へ
「魔法が発達しているのに、乗り物は馬車なんですね?」
ミハイルさんと向かい合って馬車に座りながら、私はかねてから少し気になっていたことを口にした。
「……ん? どういうことだ」
「いえ、なんだか普通なんだなって思って。せっかく魔法があるのに、移動が馬車というのは不便でないのでしょうか。こう、空を飛んだり、瞬間移動したり……」
「俺たちが魔法を使えないのに城の使いだけ瞬間移動してどうするんだ」
「そうですけど……じゃあ馬車は私たちを運ぶためだけに?」
それにしては、一瞬訪れただけの街でも馬を見かけた。村での移動手段は大きな鳥だったけど、とにかく魔法世界と釣り合わないイメージがある。
「いや。移動手段は外でも主に馬だが……」
私の疑問を受けて、ミハイルさんがちらりと窓から外に視線を走らせる。
「御者こそいるが馬を操っているようには見えんし、この辺りは人が通らないから道も悪いのに揺れもない。だというのに速度は尋常じゃない。そこは魔法でもないと説明がつかん」
「なるほど……」
御者のことはよくわからないけど、確かに速度の割に車よりも揺れがない。すごいとは思うんだけど……でも、やっぱり何かまどろっこしい気がする。
「魔法でそんなにすごいことができるなら、もっと効率的な移動手段があってもいいと思いませんか?」
「俺に聞くな。俺は魔法のことはわからん」
そう言うと、彼は腕を組んで目を伏せた。
別に会話が弾むのを期待してはいないけど……お城までどれくらいかかるんだろう。それまでずっと黙って座っているのは少し退屈だな。
外を眺めていればいいのかもしれないけど、速すぎて少し怖い。……あまり乗り物は得意じゃない。そういえば、お屋敷にいたときは聞こえた車輪の音や蹄の音も、馬車の中では聞こえない。それも魔法だろうか。
揺れもない。音もない。
それはきっと快適なんだろうけど、なぜかとても……居心地が悪い。
「お城ってどんなところですか?」
それに耐えかねて、再び声を上げる。
ミハイルさんは饒舌ではないけど、聞いたことには大抵答えてくれる。だけど、今は目を閉じたままで、返事は返ってこなかった。
溜め息をこらえ、諦めて視線を落とす。いっそ寝ちゃおうかな。でも寝顔見られたくないし。髪が乱れたら困るし。
「……馬車に乗るとき、使者の顔を見たか?」
「え? はい……」
忘れかけた頃に返事があって、顔を上げる。彼は目は開けていたが外に投げたままで、いつにも増して眉間の皺も深い。
彼の問いかけは婉曲だったが、言いたいことはなんとなくわかる。私たちが出てきたのを見て、使いの人は本当に凄い顔をしていた。驚愕と畏怖が入り混じった目を向けて、ガタガタと震えていた。まるで幽霊でも見たように。
そりゃ、幽霊屋敷から出てきたんだから無理もないかもしれないけど……向けられていい気はしない表情だ。
「城中の者からああいう目を向けられる。稀に恐れを知らん者もいるが、そういう奴らは異物と蔑む。俺といればお前もそういう目で見られるだろう。災難だな」
ようやく私を見て、彼は皮肉げな笑みを浮かべた。
いつもよりもずっと口調が重いのも、その顔も。本当は城に行きたくないんだっていうのを話すより雄弁に語っていて。
「……災難は、ミハイルさんの方じゃないんですか」
気がついたら、そう口にしてしまっていた。だけどこの際なので聞いてみる。
「ミハイルさんが城に行くのは、私のせいですか?」
「違う。リエーフの言うことを真に受けるな」
「じゃあどうして」
「お前には関係ない」
冷たく言い捨てて、ミハイルさんは窓枠に肘をつき、再び外を見た。話しかけられるのを拒絶するような空気。
関係ないと言われてしまえば、私にもそれ以上追及しようがない。いや、関係ないならそれでいいんだ。私はいつか出ていく人間なんだから。
だけどたぶん、そうじゃないんだ。冷たい言葉も雰囲気も、私が気に病まないためにわざとだって、もうわかってしまう。だって口では突き放したって、いつだって助けてくれてた。
私が折れそうなときも。
中庭の果物を取ろうとしたときも。
ライサを探していたときも。
アラムさんに襲われたときも。
椅子から落ちかけた、そんな些細なときでさえ。
その優しさがわかりづらいのをいいことに、わたしはきっと甘えてた。
……あの扉は、きっと私が思うようなものじゃない。このままお屋敷にいたって帰れる可能性はほとんどない。それでも、あと一日、もう少し……と思ってしまうのは、お屋敷が私にとって居心地がいいからだ。
好きな掃除をして、喜んでくれる人がいて。誰も私に無理強いしないし、否定したりもしない。
だったら私も……無理させたくない。だから答えは出ている。
私は……お屋敷を出るべきだって。
* * *
それから一言も言葉を交わすことのないまま、馬車は城へと着いた。馬車を降りて、だが気まずい気分が吹っ飛んでしまうほど荘厳な城に、思わずあんぐりと口を開けて見上げてしまう。
「おい、アホ面するな。お前外から来たくせに城を見たことないのか?」
失礼なミハイルさんの言葉は、しかし否定できないもので。慌てて口を閉じて咳払いをする。町についたときにはもう日が暮れていたし、それからすぐにお屋敷に行ったから、ゆっくり外を眺めるような余裕なんてなかった。
「これはこれは、プリヴィデーニ伯爵ではないですか」
何か言い返そうとしたとき、厭味ったらしい声が闖入してきて、私もミハイルさんもそちらを向く。私たちが乗ってきた馬車より一回りも二回りも大きくて華美なそれから、中年のおじさんが降りてきたところだった。無駄に装飾の激しい服を着ているが、正直趣味が悪い。着ている人のせいもあるか、というくらいの悪人面でもある。
「……お久しぶりです、マスロフ侯爵」
わあ……この人敬語使えたんだ。侯爵……伯爵より上ってくらいしかわからないけど、よほど身分が高いんだろうな。
「久しぶりでも一目でわかる不吉さですな。そちらの地味な……失礼、素朴な女性は新しい婚約者ですかな? お披露目というわけですか」
なんだこの失礼極まりないオジサンは……地味って声に出ちゃってるし、不吉も素朴も誉め言葉じゃないぞ。これに比べたらミハイルさんの失礼さなんてまだ可愛いものだな、なんて両者にとって失礼なことを考ていると、ふとミハイルさんの非難めいた視線を感じた。そして、さーっと血の気が引いた。
指輪を外すの忘れてた――!
「誤解です、閣下。彼女はただの従者で」
「なるほど、従者ですか、それはそれは。そう言っておけば、逃げられたときに恥を掻かずに済むというわけですな」
……なるほど、これが恐れを知らなくて蔑んでくる人か。こういう人は相手にしないのが一番だ。ミハイルさんだってきっとそう思ってる。ただ私のために誤解を訂正しようとしてくれただけ。それも無理だとわかった今、ミハイルさんはただ黙って頭を垂れ、相手の気が済むのを待っている。
かしこいやり過ごし方だ。そんなの、私だってわかっているけど――
「私、逃げたりしません。何の不満もありませんし」
にっこりと敵意のない笑みを浮かべて、私は口を挟んだ。こういう相手に向ける笑顔には自信がある。必殺営業スマイルだ。
虚をつかれたように相手は一瞬黙ったけれど、すぐにまたニタァと嫌な笑いを張り付けた。
「可哀想に。伯爵の本当の姿を知らないと見える。幽霊を従える幽霊伯爵だぞ」
「幽霊を従えるなんて誰にでもできることじゃありません。益々魅力的です」
「ぐぬぬ……! わかった、資産が目当てだな? 貧相な女だ、さぞかし貧しいのであろう。我が屋敷はもっと大きい。どうだ、うちで召し抱えてやっても良いぞ、うん?」
大層な自信である。貧相なのは否定できないからどう言い返すかちょっと悩んだというのに、なんと都合の良い一言を付け加えてくれるのだろうか。
「せっかくのお申し出ありがたいですけれど――」
にっこり笑って、止めの一言を言い放つ。
「お断り致します」
そんな返事が返ってくるとは夢にも思っていなかっただろう。さっき私が城を見上げてしていたのと同じように、あんぐりと口を開け、ポカンとしている。
彼が呆然としている間に、ミハイルさんは短く挨拶をすると、私の手を引っ張ってその場を後にした。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
城門までの長い橋をミハイルさんに引っ張られて歩きながら、私は行き交う人に聞こえないよう、ひたすら小声で謝り倒した。
「本当にお前という奴は……!」
「余りにも腹が立ってしまって。すみません、私、失礼なことをしてしまいましたよね」
「いや、どう考えても無礼なのは先方だ。お前はいい立ち回りをした。だが俺が言っているのはだな」
「わかってます。すみません。私みたいなのが婚約者だと思われたら、かえってミハイルさんの顔に泥を塗りますよね。本当に申し訳ありませんでした」
益々小さくなる私を後目に、ミハイルさんがハァ、と呆れきったように溜息をつく。
「俺より自分の心配をしろ。従者ならまだしも婚約者など、もっと好奇の目で見られる」
「……ミハイルさんも、自分より私の心配をしてくれるんですね」
なんだか嬉しくなってそう言うと、ミハイルさんは足を止めて私を見下ろした。つくづく馬鹿を見下ろすような顔をして、口を開く。
「いいか、一度しか言わんぞ」
きっと小馬鹿にするようなことを言うのだろう。そう思った私の予想を裏切って、彼が口にしたのは。
「礼を言う」
私が何か言う前に、ミハイルさんが再び歩き出す。私は熱くなる顔を風に晒すように、早足で歩く彼を小走りに追った。私を振り返り、ミハイルさんがニッと少年のように笑う。
「あのジジイ。傑作な顔だったな」
「はい!」
――どんな目で見られたとしても、平気。多分、圧迫面接よりはマシだろう。
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