第25話 城からの使い
いつものように目覚めた朝、私は目をこすりながらほうきを片手に玄関に向かっていた。玄関掃除は初日から欠かしていない。本来掃除とは日々の積み重ねである。玄関はお屋敷の顔だ。使用人としては、いつ誰が来てもいいようにしておかねば。……私がここに来てから、誰か訪ねてきたことは一度もないけど。
それにしても、本当にここでの生活にすっかり馴染んでしまった。もちろん、元の世界に帰るという目的を忘れた日はない。ここでそれが果たされないなら、いつかは出て行かねばならないのもわかっている。だけどその見切りをつけるのは、何も今日や明日じゃなくてもいいんじゃないか……と。そうも思ってしまうのだ。
たぶん、このままじゃだめだ。そう思いつつ、今日も変わり映えのしない一日なのだろうけど。
……などという予想は、比較的早い段階で外れた。
一通り玄関の掃き掃除を終えた頃、ガラガラというけたたましい音と、馬のいななきが聞こえてきた。そしてそれは、次第にこちらに近づいてくる。
私はホウキを放り投げると、リエーフさんの名を呼びながら屋敷に駆け込んだ。探すまでもなく、すぐにリエーフさんが姿を現す。いつもと同じように、長い銀髪をきっちりと束ね、ピシッと燕尾服を着込んだ彼は、私の様子を見て不思議そうに小首を傾げた。
「お呼びでしょうか、ミオさん」
「なんだか、物音がこちらに近づいてきてるんですけど」
「ええ、この音は馬車ですね。きっと城からの使いです。……どうされたのですか、そんなに慌てて」
「いえ、その。屋敷に誰か来たのが初めてなもので」
「ご主人様が応じたことが一度しかありませんからねぇ。畏怖と奇異が入り混じった視線を向けられるのは、若いミハイル様にはトラウマになったのでしょう」
はあ、と城のことなどよくわからない私は、曖昧な返事をするしかなかった。そのうちに車輪の音が止み、空砲のような乾いた音が二発、少し遠くで聞こえた。
「恐ろしくて屋敷の傍までは来られないのですよ。いつも半刻もすれば諦めて帰ります」
なんだ、じゃあやっぱりお屋敷には来ないのか。
ほっとしかけて、慌てて首を横に振る。外の人に会えれば元の世界への手がかりが聞けるかもしれないんだから、ほっとしている場合じゃない。変わらない日常では何も得られないんだから。しかもお城の人なら、たくさん色んなことを知っていそうじゃないか。
……ミハイルさんに頼んでみようか。
そうも考えたけど。
結局私は玄関へと引き返し、投げ出したホウキを拾った。
どうしても城に行きたいと頼めば、もしかしたら連れていってくれるかもしれない。だけど、リエーフさんの口ぶりではミハイルさんは城へは行かないようだし、行きたくもないようだった。
だったら……我儘を言うべきじゃない。どうしても行きたいなら、自分の力で行くべきだ。
気を取り直して掃除を再開しようとしたときだった。
「ご主人様、どちらへ!?」
ただごとではないリエーフさんの声に顔を上げる。ほどなくしてミハイルさんとリエーフさんの二人が姿を現したが、ミハイルさんの装いはいつもと違って、私は思わずぽかんと彼を見てしまった。
いつものスーツではなく、エドアルトさんが着ているような軍服に、装具、マントまで付けている。頑強そうなブーツは床を打って、固い足音を立てていた。
「見ればわかるだろう。城に行く。留守を頼む」
ミハイルさんの答えに、私と同様にぽかんとしていたリエーフさんが一転、パァッと顔を輝かせる。対してミハイルさんは、嫌そうな顔で、唸るように答えた。
「馬車が止まる位置がどんどん近くなっている。そろそろ牽制しておかねばなるまい。容易に取り潰される気はしないが、いざ目をつけられれば厄介だ」
「そうですね。今はミオさんもいることですし、荒っぽいことは遠慮したいお気持ちわかります」
うんうんと何度もうなずきながらリエーフさんが肯定する。ミハイルさんはそれには答えなかったが、私は内心ドキリとしていた。もしかして彼が城に行くのは、私のせいなのだろうか。
以前までなら、そんなことは思わなかった。だけどあの夜――ミハイルさんが扉を開いた夜。リエーフさんは私を利用していることを否定しないと言った。
でもだからといって、私が行くなというのも変だし。そもそも考えすぎかもしれないし。
迷っている間に、ミハイルさんは私など見えていないように前を通りすぎていく。……やっぱり考えすぎかな。
「お待ちください、ご主人様。ミオさんを残していくおつもりですか? それはいささか危険ではないかと……」
リエーフさんが発した声に、ミハイルさんがピタリと足を止める。
そう言われて私もふと不安になった。ライサとアラムさんに襲われたのも、負の感情に捕らわれかけてしまった幽霊が出たのもまだ記憶に新しい。霊たちをどうにかできるミハイルさんがいなくなるのは……少し怖い。
今更のように気が付いた。私が幽霊だらけのこの屋敷でも普通に過ごせているのは、ミハイルさんの存在が大きいんだって言うことに。
「……仕方ない。ミオも連れていく。リエーフ、御者に伝言を。それからミオの支度を手伝ってやれ」
「仰せの通りに、ご主人様」
リエーフさんが優雅に腰を折って礼をする。あ……、なんかすごい、主人と執事っぽい。ミハイルさん、なんだか少し変わったな。最初に会ったときは、もっと覇気のない顔をしてたのに。
って、人のことを考えて感心している場合ではなかった。え、私も城に行く?? いや、行ってみたいと思ってはいたけど……
「ミハイルさん、その……私なんかが城に行っても大丈夫なものなんですか?」
一般市民にすぎない私、自慢じゃないけど知識も教養も気品もない。できることは掃除だけ。こちらの世界の礼儀作法なんか輪をかけて知らないのに、行って大丈夫なんだろうか。無礼をしたら処刑されたりとかしないだろうか。
急に冷や汗が出てきたけど、焦っているのは私だけで。
「従者として連れていくだけだ。別にお前は何もせず後をついてくればいい。……だが指輪は外しておけよ、妙な誤解をされたくなければな」
私の左手を見て言うミハイルさんに、慌ててコクコクと何度も頷いた。屋敷を出たら忘れずに外しておかなきゃ……。
「お待たせしました、ミオさん。どうぞこちらへ」
外から戻ってきたリエーフさんが私を手招きする。案内された部屋は、掃除で入ったことのある部屋だった。
「ミオさん、ここも掃除して下さったんですね。久しぶりに入るので気付きませんでした」
「勝手にすみません。あの……ここって」
「亡き奥様の部屋です。すみません、もしかしたら少しカビ臭いかもしれませんが」
やっぱりそうか。家具や調度品、クローゼットの中身でうすうすそうかと思っていたけれど。しかし、伯爵夫人の着るような服を借りて良いものなのだろうか?
かといってさすがにこんな作業着で城に行ったら失礼なのは私にもわかるけど。ともあれ、クローゼットを開いたリエーフさんは、少し意外そうに目を見開く。どうやら気づいてくれたみたい。
「ミオさん、クローゼットに何かしましたか?」
「中庭の花で作ったポプリを入れたんです。ハーブも使っているので虫除けにもなるかと」
「……本当に、魔法が使えなくてもミオさんは何でもできるんですね。お気遣い感謝します」
何でもって。むしろ何にもできないんだけど。掃除なんて魔法があれば瞬きする間に終わってしまうし、元の世界でだってやろうと思えば誰にだってできることなのに。でも、褒められて悪い気はしない。
「このドレスなどいかがでしょうか。私ではお召替えのお手伝いができませんので、なるべく着やすいもので、傷みの少ないものをお選びしたつもりですが」
「ありがとうございます。お借りします」
「では、このままこの部屋をお使い下さい。先代が亡くなってからずっとそのままなんですが、もしご支度に使えるようなものがあればなんなりとご自由に」
「それはさすがに。ミハイルさんのお母さんのものでしょう? 私なんかが使うわけには」
「大丈夫、ご主人様の許可は得ておりますから。私は外におりますので、お済みになったら声をかけて下さいね」
ペコリと頭を下げて、リエーフさんが退室していく。
改めて、私は渡されたドレスを手に取った。上質なものなのか、放置されてた割に生地は全然傷んでいない。ほんのりとだが、私が作ったポプリの香りがする。
ドレスといっても、リエーフさんが言ったとおりシンプルで着やすそうな、装飾のほとんどないワンピースだ。だけどドレープが豊かで、それだけで華やかな印象がある。
私は作業着を脱ぐと、そのドレスに袖を通した。
「お待たせしました」
「全くだ、遅……」
文句を言いかけたミハイルさんが、途中で言葉を止める。
結局私が借りたのはドレスだけだったのだけど、リエーフさんに「せっかくですから」と髪を結われ、化粧品は使えるものがあんまりなかったけれど、口紅だけ綺麗に残っていたので使わされた。なんだか……気恥ずかしいというか、むず痒いというか。顔が上げられない。
「あの……派手すぎませんか?」
ミハイルさんが黙ったままなので不安になって、俯いたままで聞いてみる。
「……別に」
「でも、似合ってませんよね」
「別に」
「話、聞いてないでしょう」
生返事しか返ってこないので、つい顔を上げて突っ込んだ。だけど目が合うなり逸らされた。リエーフさんは何やら嬉しそうにニコニコしている。
「それでは行ってらっしゃいませ、ご主人様。ミオさん、ミハイル様を宜しくお願いします」
そう言われても、どう宜しくすればいいのかわからなくて返事ができない。
その間にもミハイルさんがさっさと外に出ていくので、私も足早にその後に続いた。
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