第21話 「人」の定義

 日々は穏やかに過ぎていた。

 掃除をして、庭の手入れをして、時にライサと他愛のない話をし、リエーフさんの美味しいご飯を、とくに何を話すわけでもなくミハイルさんと一緒に食べる。その繰り返しは穏やかという以外に表現しようもないくらい、代わり映えもせず、少し退屈で、だけど私にとって心地よかった。

 何事もない日常の繰り返しを嫌う人はいるだろう。だけど私はそうじゃない。ただ、代わり映えがないということは、元の世界への手がかりを得られていないということにもなる。


 部屋の窓を拭きながら、知らず溜め息がこぼれていた。それに気が付いて、吐いた息を吸い込むように深呼吸に切り替える。いかんいかん、誰かさんのがうつってしまった。


「……ここの汚れ、取れないな」


 掃除へと意識を切り替えれば、それはそれで代わり映えしないことへの不満がある。

 どんなに頑張ったところで、ホウキや雑巾に果実洗剤という装備では、太刀打ちできない汚れがある。現時点でのベストを目指すよりほかにはないんだけど、それもだいぶ達成されつつある。


「アラムさん……あれから会ってないなぁ」


 ふと、アラムさんの顔を思い出した。

 薬品なら、果物洗剤で落とせない汚れも落とせるかもしれない……とは思う。でもアラムさんやライサが正気を失くして襲い掛かってきたあの日から、彼は私の前に姿を現していない。もしかして、まだあの時のことを気にしているのだろうか。そりゃ怖かったし忘れられることではないけど、ライサとは今もわだかまりなく話しているのにな。私から声を掛けるにも、どこにいるのかわからないし。あのときもらった薬品も、アラムさんがおかしくなったときにぶちまけちゃったし。


「今あるもので地道にやっていくしかないか……」


 気を取り直して、雑巾を絞ったそのときだった。


「ミオ嬢! 探したよ!!」


 振り向くと、目の前で白衣が揺れた。明るい茶色の髪に眼鏡。今まさに考えていた人が、私の前で嬉々として喋り出す。


「できたよ、汚れを落とす薬品が。ぼくが所有している薬品を調合してみてね。こんなに何かに熱中したのは生きてるとき以来だよ」


 愉快そうに喋るアラムさんを見て、私はちょっとびっくりして聞いてみた。


「もしかしてあれからずっと、調合してたんですか?」

「最初はお詫びのつもりだったけど、やってたら楽しくなってきて。生前を思い出したなぁ」


 懐かしむように、アラムさんが腕を組んで何度もうなずく。


「生きてたところで、今は魔法でなんでもできるから、ぼくの研究なんて必要ないんだろうけど」


 眼鏡の奥の瞳に、少し寂しそうな色が宿る。その台詞に、少し引っ掛かりを覚える。

 今は――ということは、アラムさんが生きていた頃は魔法は存在していなかった?


「まあ、それはいい。薬品を容器に移したはいいんだけど、生憎僕が動かせるのは液体だけでね。取りに来て欲しいんだけど前みたいなことになるのは嫌だから、ミハイルの坊やについてきてもらってくれ」


 あ、やっぱり、少しは気にしているんだな。


 それにしても、アラムさんはミハイルさんに対して悪い感情こそ持っていないみたいだけど、もう彼が大人で、今は当主だってことはあんまり理解していなさそう。

 ……どうしようかな。さすがの私も、雇い主の手を気安く煩わせるのは気が引ける。でも迷っている間に、アラムさんはさっさとミハイルさんの部屋の方へと進んでいく。

 うーん……確かに怖くないといえば嘘だし、ミハイルさんについてきてもらえるならありがたい。お願いすれば、きっとなんだかんだついてきてくれるだろう……皮肉の一つは言われるだろうけど。


 そう思ってアラムさんの後を追っていくと、ふと廊下の角にうずくまる人影が見えた。たぶん幽霊だろうけど、酷く苦しそうな呻き声が聞こえて足を止める。声を掛けようとしたところで、アラムさんに固い声で呼び止められた。


「近づかない方がいい」

「でも、苦しそうで……怪我とか病気ではないかと」

「ミオ嬢、この屋敷にいるのは坊と嬢以外はみな幽霊だ。幽霊は死なない、怪我も病気もない。もしあれば、ぼくにももう少し存在意義があったかもね」

「アラムさん……?」


 また、アラムさんが寂しげな表情を見せる。けれど次の瞬間にはその憂いのようなものは綺麗に消えていて。


「人に触れられないから人は治せないけど、幽霊の医者というのも面白かったかもね。でも、ぼくら幽霊に医者はいらないから。大丈夫」

「だけど……」

「ミオ嬢はぼくらを……幽霊を怖がらない。それはぼくにとっては気分がいいけど、幽霊みんながそうとは限らない。そして幽霊は人じゃない。それは覚えておいた方がいいよ」


 アラムさんの言葉に、ミハイルさんの忠告を思い出す。別に霊を舐めてるとか、とかそういうわけじゃない。でも、幽霊が人じゃないっていうのはどうなんだろうか。


「確かに生者ではないかもしれないけど、死者も人は人でしょう?」

「人の定義を何とするかによるけどね。言い方を変えれば、死者には死の概念がないんだ、自分にも相手にも。その事実は時に倫理を崩壊させる。理性を喪失すれば人じゃない……と、ぼくは思う。少なくとも心を許すものじゃない」


 そう言ってアラムさんはくるりと踵を返した。アラムさんの話は少し難しい。幽霊は簡単に理性を失うってことなんだろうか? それとも、こないだの一件でそう考えるに至ったのだろうか。

 少し気が引けるけど、アラムさんに従って、声をかけるのをやめる。すると、その姿はすぅっと消えてしまった。



 * * *



ミハイルさんの部屋にたどり着くと、アラムさんはその扉に近づいて、だがすぐに離れた。


「ミオ嬢、悪いけど坊を起こしてきてくれる? 多分寝てる」


 そう言って、アラムさんがくるりと私を振り返る。


「私が……ですか? どうして寝ているってわかるんですか?」

「幽霊除けが掛かってる。寝てるときはいつもそうだから。坊やは幽霊が嫌いだからね」


 アラムさんが肩をすくめる。ミハイルさんの幽霊嫌いって、やっぱり幽霊にも周知されているんだな。いやでも、幽霊じゃなくとも他人がうろうろしてる中じゃよく眠れないと思うし、そこは仕方ないんじゃないかな。とにかく、アラムさんが入れないなら仕方ないけど……私が入ってもいいものだろうか?

 ノックしてみるが、返事はない。よほどよく眠っているのだろうか……


「あの、アラムさん。せっかくなんですけど後にしてもらっても構いませんか?」

「どうして?」

「私は使用人ですし、返事もないのに主人の部屋には入れません。お休み中のようですし……」

「そういうのはよくわからないな。それに、ぼくらは寝ないし」


 アラムさんが顎に手をあてながら、不思議そうな顔をする。

 主従関係は、もしかすると研究者のアラムさんには縁がないのかもしれないけど……少なくとも、生きてるときは寝ていたでしょうに。それとも、もう思い出せないんだろうか。そうやって人としての生活を忘れていくなら……確かに、人ではなくなっていくものなのかもしれない。人それぞれとは言え、眠らない人間などいない。私たちとは違うんだ。


 そうやって生きていた頃とかけ離れた存在になっていくのって、どういう感じなんだろう。辛かったり苦しかったりはしないのだろうか。そういう感情さえも忘れていくのだろうか。


 さっき見かけた人は、苦しそうだったけれど。病気や怪我じゃないのなら、どうして苦しんでいたのだろう?


「ミオ嬢」


 焦れたようなアラムさんの声に、思考の渦から我に返る。ミハイルさんを起こさないと納得してくれないみたいだし、仕方ない。もう一度少し強めにノックしても返答がないので、私は扉ごしに声をかけた。

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