第22話 幽霊嫌いの当主

「ミハイルさん? 入りますよ?」


 やはり返事はない。

 朝食も終わったし、お昼寝という時間でもない。

 もしかしたら体調が優れないのかもしれないと少し心配になった。いくら普通じゃないといっても彼は生身の人間なのだし、病気にならないとは言えないだろう。

 意を決して扉を開ける。

 部屋の中は静かで、キィ、と蝶番が軋む音がやけに大きく響く。執務机の上で、本に埋もれるように突っ伏しているミハイルさんを見つけて、慌てて彼に駆け寄った。


「ミハイルさん!? 大丈夫ですか!?」


 そう声を掛けた途端。彼は跳ね起きると、物凄い形相で私の手を掴んだ。悲鳴が出そうになる。だけどその前に、すぐに手は離れた。


「なんだ、お前か……」

「かっ――、勝手に入ってすみません。ちょっと事情があって……、でも、返事がないから、体調でも悪いのかと心配に……」


 さっきの、ミハイルさんの怒った顔が頭から離れず、動悸が収まらない。それも無理はないと思うくらい、怖い顔してた。普段から不愛想な人だけど、それとは全然違う……怒りというか、憎しみというか。そういう種類の。

 落ち着こうと呼吸を整えていると、そんな私の様子に気がついたのか、ミハイルさんが気まずそうに声を上げる。


「悪い。幽霊除けをかけ忘れたのかと思った」

「いえ……、勝手に入った私が悪いので……」

「……どうした、珍しく素直だな。で、事情とは?」

「事情? あ、ああ……えっと、その」


 さっき自分で事情があったと言い訳したんだった。

 でも、びっくりしすぎて、まだうまく言葉が出ない。なかなか喋り出さない私に、ミハイルさんが呆れ混じりの声を上げる。


「そんなに驚くことはないだろう。俺は幽霊じゃないぞ」

「……幽霊の方がいくらかマシな顔してました」


 結局、事情よりも減らず口が先に出た。ミハイルさんが呆れた顔に苦笑を浮かべる。


「お前でも怖がることがあるとは意外だな」

「それはそうです。私だって一応、年頃の女性なんですよ」


 落ち着いてきたら、さっそく余計な一言を付け加えてしまった。けどミハイルさんが失礼なことを言うのも悪いと思う。


「ほう?」


 だけど、興味ありげな声と視線を向けられて少し焦る。だめだ、これではミハイルさんのペースにされてしまう。けどわかってる、顔を背けた時点で私の負けだ。


「ア……アラムさんが! 私に掃除用の洗剤を調合してくれて。今から取りに行くんですけど、こないだのことがあるから、ミハイルさんに着いてきてもらうようにと!」

「あいつ人を小間使いか何かだと思ってるな。……まあいい、一緒に行ってやる。心配だからな」


 覗き込むように顔を近づけられて、じりじりと後退する。

 なんで、このタイミングで、心配だとかそんな優しいことを言うかな。他意はないとわかっていても余計に顔の熱が引かなくなる……

 いや、他意はある。ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる彼の顔を見て確信する……わざとだな。わかっていても、顔の熱をコントロールする技までは持っていないから仕方がない。掃除にかまけて男性経験が全くないのを、人生で初めてちょっとだけ悔やんだ。



 * * *



「お、ミハイル坊。遅かったね。やっと起きた?」

「坊じゃない、俺はもうこの屋敷の当主だ。何度言ったらわかる」

「そうだっけ? ぼくは初耳だけど」


 揶揄ではなく、至って真面目な顔でアラムさんが小首を傾げる。


「幽霊嫌いの坊に当主なんて務まるのかい?」

「昔の話だ」


 アラムさんの手痛い突っ込みを、ミハイルさんが一言でバッサリと切って捨てる。


「じゃあ今は好きなんだ?」


 アラムさんの飄々とした笑顔には真意が見えない。他愛のないやり取りのように見えて、どこかピリピリした空気を感じ、何か穏やかでない気持ちになる。


「好きとか嫌いとかそういう見方をしていない。当主として統べるべき存在、それだけの話だ」

「へえ」


 アラムさんの軽い返事でこの会話は終わったように見えた。アラムさんが歩き出し、私とミハイルさんもその後に続く。そのとき、不意にアラムさんの視線が横に逸れた。それで思い出した。そこは、さっき苦しそうにうずくまる幽霊がいた場所だ。


「そういえば……幽霊は怪我や病気をしないそうですが、それでも苦しむことってあるんですか?」


 何気なく聞いてみると、ミハイルさんは怪訝な表情で私を見下ろした。


「なぜそんなことを聞く?」

「さっきそこに苦しそうな幽霊がいて。声をかけようとしたんですけど、アラムさんに止められて」

「何だと」


 ミハイルさんの顔が強張る。そこにはさっき寝起きで見せた表情に近い冷たさがあって、ビクリとする。聞いてはいけないことだったのだろうか?


「誰だ?」

「さあ、ぼくは当主じゃないから、屋敷の幽霊全てを把握しているわけではないし」


 ミハイルさんの鋭い問いに、アラムさんが肩をすくめる。またピリピリした空気が漂い出して、私は息を押し殺した。どうしてミハイルさんが場にいると、いつも空気が悪くなっちゃうのかな……洗剤は欲しいけど、どうにも居辛い。


「おや、みなさん。どちらに行かれるのですか?」


 そんなとき、天の助けのような声が緊張を割いた。


「リエーフさん」


 声の主の名を呼ぶと、今まで笑顔を崩さなかったアラムさんが、初めて少し嫌そうな顔をした。


「しれっと今気づいたように言うけど、話聞いていただろう、執事」

「ええまあ」


 一方リエーフさんはいつも通りの笑顔で認める。そして私の方に向き直って口を開いた。


「ミオさん、幽霊はね、基本的に悩んだり苦しんだりはしないものなんですよ。永劫とも呼べる長いときを負の感情に囚われてしまったら、気が狂ってしまいますから」


 ああ、だから幽霊は忘れっぽいのだろうか。でも、そうすると、苦しそうな幽霊は危険ってことにならないだろうか? そう思ったことを見透かしたように、リエーフさんが頷く。


「今度そういう幽霊を見かけたら、不用意に近づかず、わたくしかミハイル様に報告して下さい」

「報告したら、二人はその幽霊をどうするんですか?」


 気になって聞いてみると、ミハイルさんに頭を小突かれた。


「お前には関係ない。それより洗剤はいいのか掃除馬鹿。お前は掃除のことだけ考えてろ」


 ひどい言い方である。

 小突かれた箇所をさすりながら、口を開きかけてやめる。確かに私は掃除馬鹿……いやただの使用人だし、知らなくていいことかもしれない。ここで掃除をする以上関係ないとは言い切れないとも思うのだけど、ミハイルさんはこれ以上教えてはくれなそうだ。

 ……それでも、いつもならもう少し食い下がったかもしれないけど。時折ミハイルさんが見せる冷たい表情が、なんだか少し怖いと感じる。あんな顔を見てしまったからだろうか。

 幽霊だと思ってあんな顔をするくらい、やっぱりミハイルさんは幽霊が嫌いなんだ。


「さあ、行きましょうか。私もご一緒いたしますよ」


 リエーフさんがパン、と手を合わせて明るい声を上げる。それでピリピリした空気がいくらか和らぐ。アラムさんはあからさまに嫌そうな顔をしたが気にするリエーフさんではない。

 アラムさんはリエーフさんが苦手なのかな。「しれっと聞いていた」なんて言って、アラムさんだって結構しれっとしてると思うけど……ああ、似てるから嫌なのか。と妙な納得をしながら私たちは再び歩き出した。


 とまぁ、洗剤を取りにいくだけで紆余曲折あったけど、いざ目的のものを手に入れたら、それら全てが割とどうでもよくなってしまった。


「アラムさん! これ最高です!!」


 果物洗剤もなかなかどうして優秀ではあったけど、それでも太刀打ちできないのがカビなどの根深い汚れだった。しかしアラムさんの洗剤は、そんな汚れも非常に落ちる。これは掃除の手が止まらない。


「それは良かった。もっと作ろうか?」


 リエーフさんが現れてから不機嫌そうだったアラムさんも、私の賛辞に気を良くしたのか、嬉しそうにニコニコしている。ちなみにミハイルさんとリエーフさんは、私のハイテンションっぷりについてこれないのかポカンとしている。ミハイルさんは例によって呆れているのかもしれないけれど。

 ともあれ、アラムさんのありがたい申し出に、私は満面の笑顔で頷いた。


「はい! 水で薄めても十分効果があるので当分は大丈夫ですが、ストックがあるに越したことはないです。お願いします!」


 答えながらも掃除の手は休めない。グングン落ちるからもう楽しくて仕方ない。

 アラムさん製洗剤を使って私がどこを掃除しているかと言えば、バスルームである。汚れが落ちるのも楽しいのだけど、これでお風呂が使えるようになるのも大変嬉しい。

 風呂場は掃除をするにも一筋縄ではいかず、まだ手付かずのままだった。だから、お湯を沸かして、そのお湯で体を拭いたり髪を洗ったりしていた。そもそも、湯船にゆったりと浸かるような文化はなさそうだったし。

 この世界に来てからずっと、取り立てて暑くも寒くもない、過ごしやすい気候が続いている。それでも毎日あくせく掃除をしていれば汗はかく。別に、それを流したいなら水を浴びても済む。けど私は、たまにはゆっくりお湯に浸かりたいのである。


「ミハイルさん! 今夜にはお風呂が使えるようになりますよ!!」

「あ、ああ……」


 幽霊はお風呂に入らないだろうけど、ミハイルさんは入れるだろう。しかしこの素晴らしい偉業に対して、ミハイルさんのリアクションは若干引き気味である。

 そうか、当然入れるものみたいに考えたらいけないよね。私は一介の使用人だ。


「ミハイルさんの後で構いませんので、私もお風呂使わせてもらっていいですか!?」


 絶対今日中には使えるようにしたいという強い意志の元決して手は休めずに、使用許可を願い出る。


「そんなに入りたいなら先に使えばいいだろう」

「ご主人様より先にお風呂を頂くのは使用人としていかがかと!」

「ふん、心にもないことを」

「そんな! 私、雇って頂けてミハイルさんにはものすごく感謝しています!」

「もはや気持ち悪いな……、そんなに嬉しいのか」

「はい!」


 ミハイルさんに多少失礼なことを言われても全く気にならない程度には嬉しい。そんな私の様子に毒気を抜かれたのか、ミハイルさんは息をついて、やや表情を緩めた。


「まぁ……たまには悪くないか」


 まんざらでもない声が聞こえていよいよ私のやる気はマックスに達したのだが。


「ではお二人でご一緒には如何ですか!」


 素晴らしいことを思いついたように目をキラキラさせて両手を合わせたリエーフさんに、持っていたタワシが手をすっぽ抜けて飛んでいった。


「お前、いい加減にしないと成仏させるぞ」

「いやですねぇ坊ちゃん、やり方も知らないくせに」


 私が何のリアクションも取れないでいる間に、ミハイルさんがリエーフさんの首を絞める。リエーフさんは首を絞められても涼しい顔で、のほほんと答えている。

 そんな二人を後目に、私はタワシを拾うと掃除を再開するのであった。

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