第19話 ライサと本

「まあ、素敵。ありがとうメイドさん!」


 貴婦人風の幽霊が、華やいだ声を上げる。ゲストルームの一つを掃除したのだが、彼女の部屋だったのだろうか。埃と蜘蛛の巣を払って窓を拭いただけなのだけど、それだけでとても喜んでもらえた。妨害さえなければこのくらいは朝飯前だ。


「気が付いたら部屋がこんなに荒れていて、途方に暮れていたの。助かったわ」


 頬に手を添え微笑む彼女に「喜んでもらえて良かったです」と営業スマイルを返す。

 気が付いたら……って、一ヶ月かそこらでここまで荒れ放題にはならないと思うけど。十年や二十年も昨日の感覚らしいから仕方ないか。

 などと考えていたそのとき。


 ガッシャーン!!


 と派手な音が響き渡り、私は貴婦人の幽霊と目を見合わせた。


「何の音かしらね?」

「私、ちょっと見てきます」


 小首を傾げ、彼女は呑気に呟いた。言葉の割にさほど気になってはいないようだ。しかし私は彼女ほど呑気に構えてはいられない。今のは何か割れた音だった。片づけないと。



「……ライサ?」


 音がした方へ足を向けて、私は半眼になった。ホールにあった大きな花瓶が落ちて、真っ二つに割れている。辺りは水浸し、活けてあった花は散乱してひどい有様。それを見下ろしていたライサが、私に名を呼ばれてくるぅっと振り返った。


「わ……わざとじゃないのよ!」

「わざとじゃなければ、どうしてこんなことになったの」

「そ、それはぁ……」


 ライサの目が泳ぐ。その視線の先には、ホウキが転がっていた。私がそれを見つけたのを察して、ライサが観念したように目を伏せる。


「あたしも掃除を手伝おうと思ったのよ」


 しゅんと肩を落として、ライサが呟く。珍しく殊勝なことを言う。やっぱりこの前のことを気にしているのだろうか。改めて顔を見ればどこか思い詰めているようにも見えて、私はできるだけ明るい声で答えた。


「なーんだ、そっか。お掃除手伝ってくれようとしたんだ。ありがとう」


 正直、気にしていないわけではないけど、こんな顔をしているライサを責めることもできないし。これくらいならアクシデントのうちにも入らない。割れた花瓶に手を伸ばすと、ライサが遮るように自分の手を伸ばした。


「あ、あたしが散らかしたんだから、あたしが……!」


 しかし、破片を拾おうとした手は、それを突き抜けてしまう。


「……ライサ、私が片づけるから大丈夫よ。これも仕事だから」


 きゅっと唇を噛みしめるライサを見て、口を挟む。幽霊は現世のものに触れられない。それにもどかしさを感じて落ち込んだのかと思ったのだけれど、しょげてしまうようなライサではなかった。


「あたしだって、片付けられるんだからっ!」


 キッと顔を上げた、そのライサの動きに合わせて、破片がスウッと浮かび上がる――


「ま、待ってライサ! ありがとう! 気持ちだけ! 気持ちだけ受け取っとく!」

 

 彼女の加減一つで破片がどこに飛んでいくかわからない。正直怖い。


「ねぇ、その……ライサのその力って、魔法の力とは違うの!?」


 とにかくライサの気を逸らそうと話を変えると、途端にカランと破片は床に落ちていった。

 気を引くのには成功したみたいだけど、こちらを見たライサの顔はとても不機嫌そうだ。


「違うわ。魔法と一緒にしないで」


 ……幽霊も幽霊の力も、私の中では魔法とあんまり変わらない。でも、そうだ。ライサたち幽霊は外の人間を嫌っているし、この屋敷では魔法が使えない。ということは、魔法を嫌っていると考えるのが自然だ。そう考えると、妙にストンと納得が行く気がした。

 外の人間を嫌っているのは、魔法が嫌いだからだ。

 そう確信できてしまうくらい、ライサの声には嫌悪感が満ちていた。


「ごめんなさい。私は魔法が使えないから、魔法のことも全然知らなくて」

「……そうなの?」


 少し、ライサの顔が明るくなる。


「この屋敷から出ても?」

「うん、どこにいても使えないの」

「そうなの。生きてる人間はみんな使えるのかと思ってた」

「むしろ私からしたら、どうして魔法が使えるのか不思議よ」

「それも、知らないの?」

「ライサは知っているの?」

「も、もちろん知っているわ!」


 得意げに胸を張ってはいるものの、ちょっとどもっている。詳しく聞きたいけど、聞かない方がいいのかな……?


「本で読んだもの!」

「本? 私も読んでみたいな」


 相変わらず私はこの世界のことを何も知らない。些細なことでも、知っておくに越したことはない。


「こっちよ」


 私の希望に応えて、ライサの体が宙を滑ってどこかに向かう。


「待って、花瓶を――」

 片づけないと、と言いかけて私は口を噤んだ。せっかくライサが花瓶のことを忘れてくれたのだ。また破片を操りだしたら危ない。後で片づけることにして、ライサの後を追う。


「ちょっと、ここって……勝手に入ってもいいの?」


 ライサが入っていったのはミハイルさんの書斎だった。ノックしても返事がなく、中からライサに呼ばれて恐る恐る中に入る。


「この辺が歴史書よ」


 ライサが右手をスッと横に動かすと、それに合わせて数冊本棚から本が飛び出てくる。それらを手に取ると、ズシリと腕に重みが掛かった。ひとまず近くのテーブルに本を置いて、一つを開いてみる。見たこともない文字なのに、書いてあることは理解できる。なんとも不思議な感覚。


「えっと……大陸歴千二百五年、賢者来たりて魔法をもたらす?」


 今は一体何年なんだろう。年表には二千二年までの記述があるから、数百年前から魔法は使われていることにはなるものの。


「この世界って魔法で栄えたんだと思っていたけど……少なくともこの大陸歴というのが始まってから千二百年くらいは、魔法はなかったんだ」

「そうよ。魔法なんかなくたって、人は生きていけた……」


 私の独り言に、ライサが応じる。その口調はひどく大人びており、いつもの彼女ではないみたいだった。少し驚いて彼女を見るが、どこか遠くを見るような蒼い瞳と視線が合わない。


「って、お母様がよく言っていたわ」

「そう……」


 彼女がお母さんのことを話すのは初めてだ。ライサにとっては辛い思い出かもしれないから、それ以上は触れずに曖昧に答える。


 再び書物に顔を落とす。本は結構厚みがあって、全部読むには時間がかかりそう。ペラペラとページをめくっていると、ぎょっとして本を取り落としそうになった。二~三ページに渡って、赤黒い血のようなインキで文字が塗りつぶされているページがあった。


「何……これ?」

「ああ、それ。あたしが初めてこの本を読んだときからそうなっていたの」

「ライサはここでよく本を読んでるの?」

「たまにここに入れてくれない当主がいるけど、そうじゃなければ。思うようにページをめくれないから、うまく読めないんだけどね……、本好きなの」


 ふわふわと棚の間を漂いながら、ライサはそう言って微笑んだ。何か、読めないと気になるな。ここに、何か重要なことが書いてあるんじゃないかという気がしてくる。この幽霊屋敷に関わることとか、もしかしたら……例の開かずの扉のこととかも。


「ねえ、ライサはこのお屋敷について、何か知っていることはない?」

「このお屋敷って……プリヴィデーニ伯爵家についてってこと?」

 

 前に話をした幽霊も、そんな名前を口にしてた気がする。やはりこのお屋敷はプリヴィデーニというんだ。そうなると、気になることがひとつ。


「ライサは、この伯爵家の人というわけではないのよね?」

「ええ、あたしはアドロフ家よ」


 当然のように即答してから、しかし、ライサはふと小首を傾げた。


「あれ……変ね。あたし、どうしてこの家にいるのかしら?」

「ライサも知らないの?」

「こんな風になって長いから、昔のことはあまり思い出せないの……」


 幽霊は忘れっぽい、というけれど。エドアルトさんはライサの生い立ちを正確に覚えていたし、幽霊になった原因なんて一番印象に残っていておかしくないと思うんだけど。


 この本の、このページさえ読めれば。何か手がかりがつかめそうな気がするのに……


「何をしているんだ、ここで」


 あまりにも本に集中しすぎていたせいで、音にも気配にも気が付かなかった。


 咎めるような声に顔を上げると、いつの間にか傍に来ていたミハイルさんが、腕組みしながらこちらを見下ろしていた。

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