第16話 一難去って
――
……誰かが呼んでる。もう朝かな。仕事に行かないと。
いや、違う、そうじゃなくて。
ライサたちの様子がおかしくなってしまったんだった。このままじゃ、ミハイルさんがライサたちを――
「やめて、ミハイルさん! ライサたちを傷つけないで!」
叫んで飛び起きると、驚いた様子でこちらを見るミハイルさんと目があった。何を言っているんだと言いたげな彼を見て、辺りを見回す。ライサもアラムさんもいなくて、私はベッドの上にいた。
……夢? あれは、夢だったの?
「……傷つけたのは、ライサたちの方だろう」
やや呆れたようにミハイルさんがそう言って……私は状況の把握に努めることにした。
やっぱり夢じゃない。たぶん、私はあのまま気を失ってしまったんだ。
「すみません……私、迷惑を」
「だから、かけたのは幽霊たちの方だ。……怪我は」
「ありません。私よりもミハイルさんの方が」
「リエーフに手当してもらった。問題ない」
腹部を押さえ、ミハイルさんが答える。そして、目を逸らした。
「……引いてるだろ」
「……何にですか? それより私のせいで怪我をさせてごめんなさい。でもリエーフさんは正気なんですね、よかった」
ミハイルさんが私に目を戻す。彼は口を開きかけ、だが何も言わないまま閉じた。
そりゃ、何も思わなくはない。魔法とか、幽霊とか、そういうものには慣たつもりだけど、あんな……血を操るような、呪術みたいなものを目の前で使われたら。
だけど私を助けるためにしたことを、気持ち悪いだなんて言えるわけない。
わざと話を逸らしたことくらいミハイルさんにはわかっていただろうけど、汲んでくれたのか、彼もそれ以上自分のことは話さなかった。
「アラムもライサも、お前や俺を襲った記憶がないそうだ。今リエーフが詳しく話を聞いている。お前はもう少し休め」
話を聞いて、ほっとした。やっぱりアラムさんもライサも自分の意志であんなことをしたんじゃないんだって、それがわかっただけでもよかった。
ちょっと気が抜けて、起こした体をベッドに戻す。そのときようやく気が付いた。
「ここ……ミハイルさんの部屋?」
「ああ。お前は目を覚まさないし、あんなことがあったばかりで一人にもしておけんだろう。
「すみません……」
「別にお前のためじゃない。これ以上屋敷に幽霊を増やしたくないだけだ」
シーツを掴んだ手が震える。……悪い冗談だ。
でも、ライサが助けてくれなかったら、ミハイルさんが来てくれなかったら、死んでいたかもしれないのは確かだ。こんな、どこだかわからない、親しい人もいない世界で。
そう思うと強がれなかった。
本当は男の人のベッドを借りているのも、寝顔を見られただろうことも死ぬほど恥ずかしい。脅えているところなんて見られたくない。なのに虚勢も張れやしない。
思い出すだけで体が震える。初めて幽霊たちを心底怖いと思った。……これから私は今まで通り、ライサたちと話ができるのだろうか。そんな私の不安を見抜いたように、ミハイルさんが声を上げる。
「これでわかっただろう? あいつらが人ではないということを」
「……はい……」
「……なぜ止めた」
「それは……」
怖い。怖かった。でも考える前に体が動いていた。
理屈じゃない。ぬいぐるみを直して嬉しそうに笑っていたライサの顔を思い出したら、幽霊とか、襲われたこととか、そういうの関係なく。
「ライサが死んじゃうと思って……」
苦しそうな姿を見ていられなかった。
「もう死んでいる。霊は殺せない。できるならとっくにやっている」
「……そうでしょうか?」
「ああ。この化物屋敷の当主たる俺も、同様に化物なんだ。わかったらさっさと出て――」
「出て行きませんし、辞めません」
被せ気味に、私はいつもと同じ答えを返す。
あのとき、あの血の鎖に縛られて、ライサたちはとても苦しそうだった。
だけど、それと同じくらい、ミハイルさんも苦しそうな顔をしてた。
それは口に出さず、再びベッドから起き上がって彼を見上げる。
「まだお掃除できていないところがたくさんあるんです。途中で放棄するなんてできません」
「この期に及んで掃除などと……」
「あなたにとっては『掃除など』かもしれませんが、私にとっては違います。それに私には、ここを出ても行く宛がないんです」
しばらく彼は睨むようにこちらを見下ろしていたけれど、私が目を逸らさないのを見て、頭を押さえると呆れたような溜め息をついた。
「……好きにしろ。だが何があっても俺は知らんぞ」
「ふふ」
「何が可笑しい」
そう言いながら、結局知らないふりはできないんだろうと思ったら、つい笑ってしまった。慌てて口元を押さえてベッドを降りる。
「もう大丈夫です。ベッド借りてしまってすみませんでした。部屋に戻ります」
「無理をするな。もう少し休んだ方が――」
今、何があっても知らないと言ったばかりなのに。
そう思ってまた笑いそうになるのを堪えるが、私の含んだ視線に気が付いたのか、彼は途中で言葉を切ると、いつもの仏頂面で咳払いをした。
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