第15話 異変
……わからないことが二つある。
エドアルトさんと別れ、花束を持って廊下を歩きながら、私は考えに耽っていた。
ライサとエドアルトさんは幽霊だ。つまり彼らは死後幽霊になったのに、本当のライサ――双子の妹の姿は見えない。おそらくいないのだろう。いるのなら、あのぬいぐるみは『ライサの大切なもの』なのだから、本当のライサ自身が持っているはず。
今までなんとなく、幽霊たちはみなこの屋敷の一族なのだと思っていた。
でも、ライサを探しているときに居場所を教えてくれた貴婦人は、ライサのことを『アドロフ家』と言っていた。でもこの伯爵家は『プリヴィデーニ』。つまりライサはこの伯爵家の人間じゃないということになる。
この家の人間じゃない者が、どうして幽霊になってこの屋敷から出られずにいるんだろう。
もう一つ。どうして死んだ妹のライサやそのお母さんは、幽霊となってここにいないのだろう? 幽霊になるには、何か条件があるのかもしれない。
その条件として、考えられるものは――、
「君がミオ?」
唐突に声を掛けられて、私はいつの間にか立ち止まっていたことに気が付いた。すっかり考えに没頭してしまっていた。
……どうして皆が幽霊になったかなんて、私には関係のないことなのに。
「あ……はい。そうですけど」
思考を手放し、花を抱え直して、私はその声を掛けて来た長身の青年を見上げた。
「ミハイル坊から、君がぼくを探していると聞いて」
その言葉と、彼が着ている白衣でピンと来た。
「もしかして、薬品に詳しい……?」
「そう」
ニコリと人の好さそうな笑みを見せ、その青年が右手を差し出す。だが私の両手が花で塞がっているのを見て、「失礼」とひっこめる。
「あ、ごめんなさい。この花を活けてからでも構いませんか?」
「勿論」
即答すると、彼は眼鏡の奥の細い目をさらに細めて笑った。
* * *
「改めて自己紹介を。ぼくはアラム。生前は医者だった」
「ミオです。このお屋敷の使用人として、主に掃除をしています」
再び差し出された彼――アラムさんの右手を握り返して、私も簡単に名乗る。
「話は聞いたよ。薬品を掃除に使いたいって? 今までそんなこと考えたこともなかったよ」
「で、ですよねー……、すみません、大事な薬を」
薬品を掃除に使うなんて、医者からしたら不謹慎なことかもしれない。
冷や汗をかきながら相槌を打つが、幸いアラムさんはそう気分を害した風ではなかった。
「いや、ぼくは研究者でもあるからね。興味深いよ。幽霊は物には触れないけど、幸いぼくは液体なら自由に動かせる。実験してみて、掃除に役に立ちそうなものをチョイスしたよ」
にこにこと置かれた薬の瓶に視線を投げるアラムさんを、私は神でも見つめるような目で見上げた。いやまさに神だ。神が降臨した。気のせいだろうけど後光が差しているように見える。
「あ、あ、ありがとうございます……!」
「もしかして薬品同士を掛け合わせたら、もっと強い効果が得られるのかもしれないけれど。もし有毒なものが発生しちゃったら、ぼくはいいけど君や坊が死んでしまうからね、ハハハ」
爽やかに笑いながら、アラムさんが物騒なことを言う。混ぜるな危険。私も、この世界の薬品についてよくわからない以上、扱いには気を付けなくては。
「とにかく、本当にありがとうございます。さっそく掃除に使ってみたいので、失礼しますね!」
「ああ。ぼくももう少し研究してみるよ」
「ありがたいですけど、安全第一でお願いしますね」
さっそく調合を始めそうな彼に、私は冗談半分に答えた。また、「ハハ」とアラムさんが笑う。
「大丈夫。有毒かどうかは、君で実験すればいいわけだから」
「……え?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
何か、すごく危険なことを言われた気がするんだけど、今までの穏やかで友好的なアラムさんとそのセリフが、すぐに結びつかなくて。
呆ける私の目の前で、アラムさんがニヤァ、と笑う。今までの笑顔とは全く質の違う、背筋がゾワリと粟立つような、残忍な笑み。そんな笑みを浮かべて、アラムさんが手を掲げる。しばらく何も起こらず、緊張だけが場に満ちていく。逃げた方がいいのかと足を動かしたとき、彼の背後から液体の塊が押し寄せて、私に向かって降り注いでくる。
「ミオ!!」
立ち尽くすしかない私の名を呼ぶ高い声。
その声と共に、近くの部屋の扉が外れて、私の前に飛んでくる。
「ミオ、大丈夫!?」
飛び出してきたライサが、私を庇うように目の前に立ち塞がる。きっと、ライサがポルターガイスト能力で扉を外してくれたのだろう。引きつった顔で頷くと、ライサはほっとしたような顔をした。
しかしそれは長くは続かない。
ガタン、と扉が床に落ちる。多分、大きなものを動かし続けるのも難しいんだろう。液体を受け止めた扉はブスブスと焼け焦げていて、刺激臭が当たりに立ち込める。……もし、これが私に掛かっていたら。そう思うだけでゾッとした。
落ちた扉の向こうから、アラムさんがゆっくりとこちらに近づいてくる。
「来ないで! 何てことするのよ!」
ライサが叫ぶが、アラムさんに聞こえている様子はない。
何事かブツブツと呟きながら、穏やかに細まっていた両目は見開かれて血走っている。明らかに正気じゃない。ライサもそれに気が付いたのだろう。
「――ッ『来て』、ミハイル!!」
叫び声が響き渡った瞬間に、フッとミハイルさんが姿を現す。本当に突然、まるで幽霊か魔法のように。
「何があったライサ。お前が俺を喚ぶなんて――」
「あれ、なんとかして! アラムがおかしくなっちゃったの!」
動揺するミハイルさんに、ライサが震える声でアラムさんを指差す。そちらを見て異常を察したミハイルさんは、舌打ちして身構えた。
「下がれ、ミオ。邪魔だ」
言葉はきついけど、逃がそうとしてくれてるんだと思う。だけど、私はその場を動けなかった。私の前に、ライサが立ち塞がっていた――アラムさんと同じように、血走った目をし、憎悪を湛えて顔を歪ませたライサが。
長い金髪がざわざわと逆立ち、ニタリと彼女の唇が弧を描く。バタバタン! と激しい音を立ててそこら中の部屋の扉が開き、そこから飛んできたカップが、燭台が、丁度品が、彼女の周りにふわふわと漂う。
「ライサ……?」
片手でぬいぐるみを抱えたまま、彼女はもう片手をすっと掲げた。その途端、浮いていた燭台が私めがけて飛んでくる。
逃げなきゃいけないとわかっているのに、足が動かない。
できたのは、目を固く閉じることだけだった。
「ミオ!」
呼ぶ声と衝撃に目を開ける。突き飛ばされて地面に倒れながら顔を上げると、今まで私がいた位置にミハイルさんが脇腹を押さえ、膝をついていた。その横に、血がついた燭台が転がっている。
「ミハイルさんッ」
「馬鹿、来るんじゃない!」
「でも!」
駆け寄ろうとした私を、ミハイルさんが止める。
再びアラムさんの周りを異臭のする液体が漂い、ライサの笑い声と共に燭台がふわりと浮く。二人とも普通じゃない。二人は普通の人じゃないんだって、幽霊なんだって……今更、思い知った。
逃げなきゃ。でも怪我をしたミハイルさんを残して?
だけど私がここにいても足手まといになるだけで。かといって……ああ、こんなときに思考がまとまらない。
「……くそッ。止むをえんか」
混乱して動けないでいる私の耳に、ミハイルさんが毒づくのが聞こえた。それから彼は立ち上がると、いつもしている皮手袋を投げ捨て、二人に向かって右手をかかげる。
『捉えよ!』
そう、彼が言い放った瞬間――それに応じるように、床に流れていた彼の血が、空中に複雑な印を結んだ。そこから伸びた赤い鎖がライサとアラムさんの体を瞬く間に縛り上げる。二人の顔がみるみる苦悶に歪んで、ライサから悲鳴が零れる。……耳を塞ぎたくなるような、苦しそうな悲鳴が。
止むをえん――と。そう呟いたミハイルさんの声が、耳に残っている。
「――だめ!!」
震えが止まる。頭の中は真っ白だった。
立ち上がり、叫びながら、私は無我夢中でミハイルさんの腰にしがみついた。
だめ。
ライサたちを――殺さないで。
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