第9話 草花の騎士

「はい、できましたよ」

「ありがとうございます」


 そう深くもない切り傷なのに手厚い介抱を受け、リエーフさんにお礼を言う。今の今まで、一刻も早くこの果実で簡易洗剤を作ってみたいと思っていたけど、手当てされる間に私の興味は別へと移った。


「あの、リエーフさん。ここにあるお薬の成分ってわかりませんか?」

「成分……ですか。わたくしにはわかりかねますが、詳しい幽霊はおりますよ」

「会いたいです! 会わせてもらえませんか!?」


 傷薬ということはつまり、除菌や殺菌効果があると考えていいのではないだろうか。成分によっては洗剤にもなる。

 思わず身を乗り出して叫ぶと、リエーフさんは一瞬複雑そうな顔をした。


「……ミオさんは医者がお好みですか? しかし人と幽霊の恋愛は障害が多いかと存じます。寿命もありませんし子孫も残せません。そこへ行くとご主人様は紛れもない生身の人間でございますが」

「黙れクソ執事」


 私が突っ込む前に、ミハイルさんがリエーフさんの頭をノータイムでグーで殴った。


「痛いではありませんか。暴力は感心致しませんね」

「痛覚などないくせに白々しい。妙なことを言ってないでさっさとアラムを探してこい」

「全く坊ちゃんは幽霊使いの荒い……」

「坊ちゃんはやめろ。一体いつまで子供扱いする気だ」

「そうは言いましても、悠久を生きるこの身にとって数年前などさっきも同じ……まぁ、それは今は置いておきましょうか」


 ミハイルさんにギロリと睨まれ、リエーフさんが咳払いと共に口を噤む。


「しかしその前にすることがおありでしょう。――エドアルト」


 いつになく厳しい顔をして、リエーフさんが知らない名前を呼びつける。するとスゥッと扉をすり抜けて、一人の青年が現れた。

 金髪碧眼、カチッとした軍服を纏っているけど、儚げな美貌は気弱そうで、まるで似合っていない。ミハイルさんは嫌そうに顔を背けたが、リエーフさんにじっと見られてふうっと溜息をついた。それから、キッと青年を睨みつける。


「エドアルト。使用人を傷つけたことを詫びろ」


 ミハイルさんがそう言うと、エドアルトと呼ばれた青年は、負けじとミハイルさんを睨み返した。あまり迫力はなかったが。


「僕に命令するな!」

「当主に向かってその口の利き方はなんだ?」

「当主だと……?」


 怪訝そうにエドアルトさんが呻く。見かねたのか、リエーフさんが口を挟んだ。


「エドアルト、先代はもうお亡くなりになりました。今はミハイル様がご当主ですよ」

「何だって……? ではローベルト様は?」

「それは先々代のご当主です」


 ふう、とリエーフさんが目を閉じて息を吐き出す。それから目を開けるとミハイルさんの方に向き直った。


「さっきも申し上げましたが、人間と幽霊では時間の感覚が異なるのです。貴方が当主であることをしっかりと示さねば、このようにすぐに忘れてしまう者ばかりなのですよ」


 ミハイルさんが腕を組んで黙り込む。だがすぐに彼は顔を上げた。


「……とにかく、俺が当主であろうがなかろうが、客人に怪我をさせたのは事実だろう。その非は詫びるべきだ。でなければその騎士の称号が泣くぞ」

「好きでなったわけじゃない! 僕はずっとあの庭に居たかったんだ!」

「ならばその恰好はなんだ。実体がないのだから見た目など自分の意志でどうにでもなるだろう」


 ぐっとエドアルトさんが言葉に詰まる。二人の間に火花が散って、そのピリピリした空気に耐えきれず私は口を開いた。


「あの、怪我というほど大した傷じゃないので、私は別に……」

「しー」


 身を乗り出しかけた私を、リエーフさんがやんわりと制する。


「こちらの事情で申し訳ありませんが、少し待ってあげて下さいませんか? ミハイル様が当主として振る舞おうとなさっているのです。貴方のために」


 そう言われると余計に気が重いんだけど。それに本音を言うなら、早くこの果実を使って掃除をしたい。とはいえ、さすがにこの空気じゃそんなこと言えない。


「あのエドアルトという青年は、歴史上最強と今も名を遺すほどの騎士なのですよ」

「ええ!?」


 正直、ここの幽霊にはそんなに興味のなかった私だけど。

 口元に手を添えながら小声で教えてくれたリエーフさんに、私は思わず大声を上げかけて口を押さえた。確かに軍服こそ着ているけれど、気が小さそうだし、おどおどしているし、喋り方にも覇気がない。剣を持って戦ってるところなんて、とてもじゃないが想像できない。


「彼のお父上も高名な騎士で、エドアルトは幼い頃から厳しい剣の修行をさせられました。才能は申し分なかったのですが、彼自身は争いごとより草花の方が好きな気の優しい人物でして。しかし時代が戦わないことを許さなかった。今はもうすっかり平和ですが」

「そう……だったんですね」


 きっとエドアルトさんは大好きな庭が荒らされると思ってあんなことをしたんだ。

 だったら、やっぱりその誤解を解いた方がいいと思うんだけど。エドアルトさんはまだ納得のいかない顔はしていたものの、私の方に向き直って伏し目がちに口を開いた。


「さっきは……ごめんなさい。怪我をさせるつもりじゃなかった」

「いえ、私もすみません。私も、庭を荒らすつもりじゃなかったんです」


 エドアルトさんはが顔を上げと、意外そうに私を見つめた。


「私はこの屋敷の掃除をするために雇われました。果物の皮には掃除に適した効果を持つものがあって、それを探していたんです」

「……本当に? 僕はこの庭にずっといるし、この庭にある草花のことならなんだって知ってる。でもそんな話は聞いたことがない」


 エドアルトさんの表情にはありありと疑念が見える。そこで、私は賭けに出ることにした。


「なら、実際にやってみます」


 エドアルトさんだけでなく、ミハイルさんもリエーフさんも、私を見る。注目されて内心少し怯んだけど、効果がなければ庭に固執することもないんだし。試してみないことには始まらないのだ。

 気を取り直すと私はその場に膝をつき、持っていた雑巾で床を拭いた。それから雑巾を果物に持ち替えて、皮を押し付けるようにして磨き、再び雑巾で拭き上げる。

 ……うん。期待通りだ!!


「どうですか?」


 得意げに指し示す私の手元を覗き込んで、リエーフさんとエドアルトさんが相次いで感嘆の声を上げた。


「これは……すごいですね。汚れが落ちただけでなく、ツヤも出ています」

「果実で掃除ができるなんて、全然知らなかった」


 ミハイルさんはどちらかというと、その二人の反応に目を見張っている感じだったけれど。ともかくそれぞれの反応に、私は胸を撫でおろした。悪くない。


「しかしミオさん、床全部をこの皮で磨くのですか? 実がいくつあっても足りないのではないでしょうか」

「色んな使い方がありますが……例えば煮出して成分を溶け出させ、それに雑巾を浸して使えば多少効率は上がるかと」

「なるほど! ミオさんは天才ですね!!」

「いえ、私も人に教えてもらったことで、自分で考えついたわけではないですから」


 感じ入ったように、リエーフさんが両手を組み合わせて声を上げる。パートのおばさまに聞いたことが役に立って良かった。


「エドアルトさん。そういう事情なので、お掃除のためにもう少しこの実が必要なんです」


 それでもエドアルトさんは返事を迷っているようだった。眉間に皺を寄せて私をじっと見下ろしている。でも嫌だとは言わなかった。よーし、あと一押し。


「それに、あの庭だって手を入れればもっと綺麗になるはずですよ。雑草も目立ちますし、枯れているものもありました。昔はもっと綺麗だったんじゃないですか?」

「綺麗……だった。代々奥様が手を入れて下さって、僕はそれを見るのがとても好きだった」

「だったら、その頃みたいにしましょうよ」

「でも僕は……ライサみたいに物を動かす能力がないし、現世のものに触れられない。僕ができるのは、せいぜい風を起こすことくらいで……」


 あ、あのポルターガイストみたいな現象、幽霊なら誰でもできるってわけじゃないんだ。そして、幽霊達にはそれぞれ個別の能力があるのか……ふむ。いや、今それは関係ない。


「私がやります。庭掃除も仕事のうちです。でも植物のことにはあまり詳しくないのでエドアルトさんが教えて下さい。花のお世話は指示に従ってやりますから」


 やはりエドアルトさんは無言だったが、辛抱強く返事を待っていると、やがて蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。


「……名前は?」


 問いに、勢い込んで答える。


「ミオです!」

「……ミオ。庭の実は持っていってもいい。でもやっぱり、すぐに外の人間を信じることはできないから……しばらく見させて」


 そう言うなり、彼の姿はスッと掻き消えた。見させて……って。それって監視されるってこと? それはちょっと、どうだろうか。


「大丈夫ですよ、ミオさん。彼はあれでも誇り高き騎士ですから、レディのプライベートを覗くような真似はしません。ね、ご主人様?」

「俺の屋敷でそんな真似をされてたまるか」


 私が渋面になった意味を、二人は的確に理解してくれたらしかった。ミハイルさんは私の為というより自分の為っぽいけど、逆に、だからこそ信用できそうだ。いくら私に色気がなくとも、相手が幽霊といえども、一応私も嫁入り前の女性なので、着替えとか見られるのはちょっと御免被りたい。予定はなくとも……。


「それよりわたくしは不思議で仕方ありません。なぜ果物の皮で磨くとキレイになるのでしょうか」


 言葉通り、不思議そうにリエーフさんが窓へと目を戻す。


「それは、皮に含まれる精油の成分がですね……」


 ミハイルさんは欠伸を噛み殺した顔をしていたが、リエーフさんは私の話を熱心に聞いてくれて。その後、実際に果実を煮出して簡易の洗剤を作ったりしていたら、薬品に詳しい幽霊に会うことをすっかり忘れてしまっていた。



 * * *



「ええと……ライサ、小さい女の子。物を操って動かすことができる。いたずらっ子。エドアルトさん、騎士の青年。中庭が大好き。風を起こすことができる……」


 夜、私はリエーフさんに紙とペンをもらい、出会った幽霊についての覚書をまとめていた。

 今日はミハイルさん、リエーフさんとずっと一緒にいたからか、ライサの妨害にはあわなくて、台所の掃除がとっても捗った。それで、改めて思った。多分、私一人だけが頑張ってもこの屋敷を綺麗にすることはできない。幽霊たちのことをもっと知って、仲良くなって、掃除に協力してもらわなきゃ。


「明日は……どこを掃除しようか……」


 カタリと扉が鳴った気がしたけれど、睡魔に負けてまぶたが落ちる。


「おやおや、これは……幽霊たちの覚え書きですか。ミオさん、彼らについて知ろうとしてくれてるんですね」


 眠りに落ちていく意識の向こうで、リエーフさんの声が遠く聞こえる。


「ミオさんがいれば、再び当家が栄える日が来るかもしれませんね」



 ファサ、と肩に毛布が掛かり、それからは意識は深く深くに落ちていった。

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