第8話 駆け引き
扉という言葉を口に出したとき、ミハイルさんの感情のない目が剣呑な色を帯びたように見えた。今度こそ私を嘲るように見下ろして、口を開く。
「まさかそれが異世界に繋がっているなどと思っていないだろうな? あれは古くて開かないだけだ。そんな夢物語など当家にはない。まだ魔法の方が可能性があるだろう」
幽霊は夢物語ではないのか、という突っ込みは胸に秘める。
本当にミハイルさんも知らないのか、それともはぐらかされたのかはわからないが……魔法で戻れるなら苦労はしない。そんなこと最初に考えた。
この世界の魔法は確かに便利だけれど、人をどこかにワープさせたりするほどの力はないのだ。本当に、生活を少し便利にする程度のものだと村の人は言っていた。
もちろん、世界のどこかにはもっとすごい魔法があるのかもしれない。でも、それをあてもなく探すのは現実的ではないからこそ、ここにいるのであって。
「すみません、話が逸れましたね。とにかく、目的が他にあってもこの屋敷をお掃除したいという思いに嘘はありません。あの実を頂けませんか?」
「お前にどんな目的があろうと俺には関係ない。しかし忠告はしてやる。幽霊どもを舐めない方がいい。ライサのような悪戯で済むような奴ばかりじゃない。中庭にはもう近づくな」
目で果実を指して、ミハイルさんが言う。しかし私は食い下がった。
「いい洗剤代わりになると思うんです」
「この期に及んで掃除か」
「それが仕事なんですから当然です」
元の世界に帰りたいのは本当だけど、掃除をここにいる口実だとは思われたくなかった。掃除にかけてだけはプライドがあるのだ。半端な気持ちだと思われたくない。
「……俺は出て行くなとは言わないが、出て行けとも言っていない」
言葉の意味を測りかねて、しばらく答えを迷う。だが、他に解釈のしようもなく。
「
語気を強めたからだろうか。珍しく、ミハイルさんが少し怯んだ様子を見せる。
だって、それじゃなんの為に村を出たのかわからない。
余計なこと話すんじゃなかった。
行く宛のない私のために言ってくれたことかもしれない。だとしたらリエーフさんの言うとおり、悪い人じゃないんだろうけど。だけど、憐れまれたくなんてなかった。
だから、見せなきゃいけない。満足してもらえるような仕事を。
「お願いします、ミハイルさん。どうかあの果実を私に譲ってもらえるよう、幽霊に話して頂けないでしょうか」
「は?」
冷たく一蹴される。想定内だ。
「ご当主であるミハイルさんの命令なら、幽霊も聞かざるを得ないでしょう?」
ギリ、とミハイルさんの歯ぎしりが聞こえる。
多分、怒らせた。でも私も無駄に怒らせたくてこんなこと言ったわけじゃない。
こんな言い方をされれば、プライドの高そうなミハイルさんには断れないだろうと踏んでのことだ。使用人ごときが無礼な、と煙に巻くことはできるだろう。だけど多分それもしない。実際にミハイルさんが幽霊に命令を聞かせられるならしたかもしれない。でもリエーフさんの話ではそうじゃない。
少しだけど、話をしてわかってきたことがある。この人は……多分良くも悪くも飾らない人。できないのに偉そうなことは言えない。ならば是が非でもあの果物を取るしかなくなる。
我ながら意地が悪いと思うけど、掃除のためだ。背に腹は代えられない。それに、リエーフさんは「ミハイルさんの幽霊嫌いを直して」みたいなこと言ってた気がする。だったらこれも依頼されたこと、即ち仕事だ。
と、自分の我儘を正当化しながら、私はじっとミハイルさんの動きを待った。
「……いいだろう」
ややあって、ミハイルさんが答える。彼を見上げて――私はそのまま目を逸らした。ただでさえ人相のよくない顔が、苛立ちでさらに恐ろしくなっている。正直怖い。でも、ここで引くわけにもいかないので平然を装った。
溜め息と共にミハイルさんが果実のなる木へと体を向け、手を伸ばす。……いや、私は幽霊を説得してほしいと言ったのであって、無理やり取ったんじゃ私と変わらないのでは。案の状、またさっきの突風が巻き起こる。
「ふざけるな、俺を誰だと思ってる。今すぐこの風を止めろ!」
ミハイルさんが怒鳴るも、風は収まるどころかどんどん強まった。舞い踊る葉っぱが刃のように頬を掠める。このままじゃ怪我する。
「ミハイルさん、無理を言ってごめんなさい! もういいです、だから――」
「チッ、どいつもこいつも、舐めやがって……」
ゴウゴウと唸りをあげる風の中で聞こえてきた舌打ちに、はっとして私は口元を押さえた。
決して憐れんだわけじゃない。だけど、きっとさっきの私と同じ気持ちにさせてしまった。
見守るしかできない私の目の前で、だがミハイルさんは怯むことなく果実を掴むと、ためらいなくそれを引きちぎった。途端にピタリと風が止む。
「ふう……」
私とミハイルさんの安堵の息が重なって、ミハイルさんがそれをごまかすように、ゴホンと咳払いをした。……謝らなきゃ。でも、謝っても余計に不快にさせるだけかもしれない。
「えっと……勝手に取って良かったんですか?」
迷った末にそう問うと、結局彼は不快そうな顔をした。
「俺の屋敷のものを俺がどうしようが勝手だろう。幽霊どもに咎められるいわれはない」
それはそうだけど……無理矢理取ろうとしたから幽霊も怒ったのではないだろうか。
まぁコミュニケーションが成立するのなら、リエーフさんも困ってはいないか……などと考えていると、突然目の前にさっきの果実が飛んできた。
「ほら。それが欲しかったんだろう」
慌てて両手で受けとる。星形のように波打った、変な形の果物。だけど手触りは柑橘に似ている。レモンに似た爽やかな香りがした。
「ありがとう……ございます」
「珍しいじゃないか。お前にも素直に礼を言う可愛げがあったんだな」
「失礼な人ですね」
「お互い様だ。……頬、切れてるぞ」
「え」
右手に果物を持っていたので、咄嗟に左手で頬に触れる。その途端、ミハイルさんの目つきが変わった。
「その指輪……!」
短く叫んで、ミハイルさんが私の左手首を掴む。その勢いに果物がぼとりと足元に落ちた。
「は、離して」
「リエーフか?」
私の腕を掴んだまま、眉を吊り上げ、ミハイルさんが顔を寄せる。
「そ、掃除をするのに、見えないと不便だろうって……は、離して下さい! 近いです!」
「近……? あぁ、すまん」
最悪だ、絶対今顔赤い。だけど……謝ってくれると思わなかった。なんだか毒気を抜かれて、一度深呼吸を挟んでから私も謝罪の言葉を口にする。
「私こそごめんなさい。大事なものなのに、私なんかが……」
「自分の身より掃除なんかが大事か? そのうち本当に怪我をするぞ」
掃除なんか。その言い方は聞き捨てならない。
でも言い方は悪いけど、もしかして――掃除より自分の身を心配しろ、ということなのかもしれない。
「……心配してくれてるんですか?」
「誰がお前のような掃除馬鹿の心配をするか」
「そうですか。なら掃除に必要なのでお借りします」
掃除馬鹿、と言われて、さっきは飲み込んだ買い言葉が我慢できず口をつく。
だけどよくよく思い返せば、この人は辞めろだとか出ていけとか、そういう言い方は一度もしてない。できないと決めつけるのも、多分……私が無理をしないように。
だとしても、失礼なのには変わりないけど。
「忠告はしたからな」
「はい、わかっています。それと、必要になったときはちゃんとお返ししますので」
「必要なとき?」
「これ、このお屋敷の花嫁がつけるものだと」
「……要らん配慮だ。俺は誰とも結婚などする気はない」
そう言って、背中を向ける。
そういえば婚約者に逃げられたんだっけ。そりゃトラウマにもなるか。といって、恋人すらいたことのない私には、よくわからないけど……
……その背は少し、寂しそうに見えた。
「……頬の傷。リエーフを呼ぶから、手当してもらえ」
「え? あ……」
忘れてた。言われてみれば少し頬がピリピリするけど、その程度だ。
「平気です、これくらい」
「おい、リエー……」
私を無視して、ミハイルさんがリエーフさんを呼びつける。しかしガサリと間近の茂みが音を立て、その声は途中で消えた。そちらを見やると、なぜか両手に草を握って茂みに身を潜めるリエーフさんと視線がぶつかる。
「お呼びでしょうかご主人様」
草をパッと投げ捨て、リエーフさんは立ち上がると、何事もなかったかのように優雅に頭を垂れた。
「何をしている……?」
「あ、いえ、別に覗いていたわけではございませんよ。ただ、どうしてそこで手当をわたくしに委ねてしまうのかと実に口惜しく」
リエーフさんがペラペラとまくしたて、再びミハイルさんの怒声が中庭中に響き渡った。
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