第3話 逃げる桶

「ミオさん、何かお困りのことは……」


 昼過ぎ、バスケットを抱えて現れたリエーフさんが、私を見て言いかけた言葉を引っ込めた。いや、正確にはロープで柱にくくりつけられた桶と、犬のリードのようなロープ付きのデッキブラシを見てだろう。


「……個性的なお召し物ですね?」


 あっ、やっぱり私を見てかもしれない。

 慌てて私は手を止めると、サンバイザー(会社の備品)を外して頭を下げた。


「すみません、こちらの方が慣れていて……駄目でしたか?」

「いえいえ一向に構いませんが、生地もデザインも見たことがないので興味深くて。この文字も初めて見ました」


 会社のユニフォームなので、背中には『いつでもお任せ! スマイルお掃除代行サービス』というロゴがデカデカと入っている。


「ずいぶん長い時を過ごして参りましたが……これは興味深い」 

「リエーフさんって私より少し年上くらいかと思ってたんですけど。お幾つなんですか?」


 長い……というけど、リエーフさんの外見は二十半ばくらいにしか見えない。何気なく聞いてみると、リエーフさんはニコーッと笑いながらバスケットを差し出してきた。


「お腹空いてませんか、ミオさん? お昼をお持ちしました」

「わぁ、ありがとうございます!」


 なんとなくはぐらかされた気はしたけど。

 お腹が空いていたのも事実なので、それ以上は詮索せず、素直にお礼を言う。

 多分、見かけよりも歳なのね。だからあまり触れられなくないのね。パートのおばさま達と同じだ。


「それでは、わたくしはこれで」

「あっ、ちょっと待って下さい!」


 屋内に戻っていこうとするリエーフさんの背に呼び掛ける。すると彼はピタッと動きを止め、ギィィ……っと音がしそうな感じにゆっくりと振り向いた。


「……なんでしょうか?」

「え、えっと……ハシゴってありますか? 午後からは天井の蜘蛛の巣を払おうと思ってて」

「あぁなんだ、そんなことですか。わたくしはてっきり、辞めると仰るのかと……」


 そう言って安堵したように息をついてから、リエーフさんは踵を返して走り出した。


「すぐにご用意致しますね!」


 その背を見送りながら。

 私はなんとなく、なぜこの屋敷に使用人が居つかないのかわかり始めていた。


「う~っ、つかれた!!」


 夜。部屋に戻った私は、作業着を脱ぎ散らかして、下着姿でベッドに転がっていた。

 結局あれからも怪奇現象は後を絶たず……

 道具はロープを逃れてどこかに行ってしまうし、汲んだ水はすぐにひっくり返ろうとするし。それくらいならまだ可愛いもんだけど、窓ガラス拭いてた時にとつぜん手形がベタベタつき始めたときは、さすがに悲鳴が出た。


「何ここ……ほんと幽霊屋敷じゃないの……」


 人がバタバタ辞めていくって言うのは魔法が使えないこともあるんだろうけど、確実に一番の理由はこれだな。

 でもそれにさえ目をつぶれば、部屋と三食まかない付きの仕事はマイペースでオッケーな超ホワイト優良企業。

 

 そうそう簡単に手放してなるものか!



 * * *



 ということで、二日目。

 今日も良いお天気。張り切って外に出た私は、用具置き場へ行って絶句した。


「ふーん、そう、そう来るわけ……」


 桶も、デッキブラシも、ホウキも、雑巾も、なーんにもない用具置き場からくるーりと踵を返す。

 ――上等。時間は幾らでもある。午前は用具集めからね!


 そう意気込んでから、およそ二時間。


「見つからない……っ!!」


 屋敷中探し回って、ようやくデッキブラシとホウキを捕獲したものの、桶がまだ見つからない。あと探してない場所は、リエーフさんの部屋とミハイルさんの部屋……それから地下室。

 地下に入っては駄目だと言われたし、リエーフさんの部屋はノックしたけど返事がない。屋敷の中でも見かけなかったし、どこかに出掛けているのかもしれない。


 仕方なく、私はミハイルさんの部屋をノックした。

 初対面のときのあの様子じゃ無視されるかもと思ったけれど、一応は無愛想な声で返事があり、おずおずと扉を開ける。


「あの、すみません。お聞きしたいことが――」

「なんだ、まだ居たのか」


 私を見るなり、つっけんどんに被せてくる。

 まだ居たのか……って。住み込みで働き始めて、二日しか経っていないんですけど。


「今まで雇った使用人は、いずれも二晩もたなかった。夜何もなかったのか?」


 いや、夜どころか昼から桶にもホウキにも逃げられっぱなしですが。

 夜……、夜か。


「そう言えば、何か騒がしい気はしましたが……すぐ眠ってしまうので忘れていました」

「それは随分とめでたい頭だ」


 ミハイルさんは既にこちらを向いてもおらず、書物に目を落としながら、淡々と嫌味を言う。いくら雇い主といえど……人と話している態度ではないな。


「すみません。ただの掃除ならここまで疲れないのですが、桶もホウキもすぐに逃げ出すもので……」


 雇われている身で文句を言うのは気が引けるけど、契約時明確にされてなかった事項については多少の皮肉を言うくらい許されてほしい。しかし、突然ミハイルさんはガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、しまったと後悔する。

 私のバカ。クビにされたら行く宛てがないのに。

 焦る私をよそに、ミハイルさんは屈むと足下にある何かを手にして、私の傍へと歩いてくる。


「……なるほど。それで朝からこんなところに桶があるわけだ」


 彼が手にしていたのは、私が探していた桶だった。差し出されたそれを受け取って、軽く頭を下げる。


「あ……ありがとうございます」

「辞めたくなっただろう?」

「それは……」


 見下ろしてくる冷たい視線は、暗に「どうせ辞める」と嘲っている。

 ……そんな目で見られたら、逆に辞められない。他のことならともかく、掃除は私の唯一の取り柄だ。

 今の会社に入って三年。家でも仕事でも掃除ばかりしてきた。これは無理ですよね、なんて言われるような汚れ方でも「お任せください!」とスマイル一発、期待以上にピカピカにするというのが我が社のポリシー、即ち私のポリシーなのである。それはどこにいたって変わらない。


 逃げられないようにデッキブラシと箒と桶を抱え込みながら、私は真っ直ぐにミハイルさんを見上げた。


「私、辞めませんから。一度お引き受けした以上、何があってもこのお屋敷をキレイにしてみせます」 

「安請け合いしない方がいいと思うがな」

「そんな軽い気持ちなんかじゃ……」


 思わず言い返しかけて、口を噤む。

 今は何を言っても無駄だ。この人は私に掃除ができると思っていないし、そのうち辞めると決めて掛かっている。

 けどそんなこと、圧迫面接何十件と越えてきた私には何でもないこと。もう採用されたんだから問題ない。クビと言われなければこちらのもの。いずれお屋敷がキレイになれば、さすがにその無表情も驚愕のそれに変わるはず。それには何がともあれ、結果だ。結果を出さなきゃいけない。

 そうと決まれば、こんなところで実のない言い合いをしていても仕方ない。


「では失礼します」


 早々に退室すべく、頭を下げて扉に向かう。


「……眠れているならいいが、無理するなよ。倒れられたら迷惑だ」


 背中に掛かった声に、一瞬、ぽかんとする。

 振り向いても彼はこちらを見ておらず、何もなかったかのように本をめくっている。聞き間違いかとも思ったけれど、一応「ありがとうございます」とお礼を言って、扉を閉める。


「ねっ! 坊ちゃんは本当は優しい方なんですよ!」


 心臓が三センチは跳ね上がった気がする。

 どっからか生えてきたのかというくらい唐突に現れたリエーフさんに、私はびっくりして桶を取り落としそうになった。


「ぼ、坊ちゃん?」


 思わず引きつった声を上げた私に、リエーフさんは「しまった」という顔をして口元に手を当てる。


「ああ、失言を……わたくしはずっとこの屋敷に仕えておりますので、ミハイル様のことは幼少の頃からよく存じているのです」


 なるほど、そういうわけか。いやわからん。リエーフさんはミハイルさんより年下に見えるんだけど、どういうことだ。一緒に育ったとかならともかく、その頃から仕えているみたいな言い方にちょっと混乱する。よほど若作りなのだろうか。


「先代が事故で早世され、一人残された坊ちゃんがご当主となられて十年余り。突然家族を失い、使用人は次々と去り、新しく雇った者も三日と経たずに去っていく。坊ちゃんがなかなか人に心を開けないのも無理からぬことで」

「聞こえているぞリエーフ!」


 バン! と扉が開き、眉を吊り上げたミハイルさんが部屋から顔を覗かせる。


「聞こえるように申し上げました」

「使用人に余計なことを言うんじゃない」

「余計とは? ミオさんはお優しそうな方ですし、情に訴えれば辞めずにいて下さるかと思いまして」

「それが余計だと言っている! ……おい、お前」

「ミオです」


 私の存在なんか眼中にもないのでは、と思っていたけど、やっぱり名前も覚えてなさそう。すかさず名乗ってみるが、彼が私の名を呼ぶことはなかった。


「去る者の名に興味はない。出ていきたいなら意地を張らずにさっさと出て行け」

「別に意地を張っているわけでは」

「嘘をつけ。俺だってこんな屋敷、できることなら今すぐ出ていきたいんだからな」

 

 一方的に捲し立て、また荒々しく扉が閉まる。ふう、とリエーフさんが溜息をついた。


「本当に坊ちゃんは……。『――』だけでなく人にも心を開けないのでは、孤独でしょうに」

「え?」


 リエーフさんの独白は、一部がよく聞き取れなかった。いや故意に一部分、声を潜めたと思う。


「ミオさん……」


 聞き返そうとしたら、リエーフさんにうるうると見上げられてしまった。その様は、ペットショップにいる仔犬を思わせる。


「私は辞めませんよ。事情は存じませんが、私としてもこのお屋敷をキレイにしたいんです」

「それはとても助かります。なにせこの見てくれでは幽霊屋敷のようで、ますます人が寄り付かなくなってしまうので」


 クス、とリエーフさんが笑う。いや、幽霊屋敷はシャレになってないと思うな。見てくれだけの問題ではなく……いや、何も言うまい。

 ギリギリと桶を力強く抱える私を見てリエーフさんは少し困ったように眉尻を下げると、長い指を桶に――いや、桶よりすこしずれた何もない箇所につきつけた。


「ほどほどになさいませね?」

「え? あ、はい」


 無理はするなってことかな。

 返事をすると、用件も済んだので、私は水を汲むために庭へと向かった。

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